It's raining, it's pouring

「あ、あめ」

従兄弟が上げた無邪気な声に、オラトリオは渋面になった。

「マジかよ」

言いながらビルのエントランスに立てば、外は結構ないい降り具合だった。

駅まではそこそこの距離がある。走ったところで、どうしても濡れるのは避けられない。

こういうときに限って、折り畳み傘も持っていないし、コンビニまでも距離があったり。

「立地条件悪ぃんだよ」

ぶつくさとビルにまで文句を言うのは、ここがオラトリオたちが世話になっている編集部の入っているビルで、仕事をくれることに感謝はしていても、いろいろ思うところがあるからだ。

「て、待て、オラクル!」

オラトリオが百の文句を考えているうちに、従兄弟はさっさと外に出ようとする。傘を持っているわけでも、レインコートを着込んでいるわけでもない。

単に、この従兄弟は雨に濡れるのが大好きだという、奇特な性癖を持っているだけだ。

「なんでこれくらいなら、下着までは濡れないよ」

「下着は濡れなくても、絵は濡れるだろだいたいにして、家に帰るまでずっと濡れっぱだったら風邪引くっつうの!」

編集部に持ちこんだ、仕事の絵を入れた鞄は丈夫なのが取り柄のキャンバス地で、つまり布だ。防水加工もなにも施していないから、雨の中を歩けば当然、中身は濡れてしまう。

「あ…」

自分が描いた絵のこともすっかり忘れていた無頓着の過ぎる従兄弟に、オラトリオは小さくため息をつく。

毎度まいど、ほんとに手のかかる。

「傘がご入り用ならお貸ししますよ」

「どぅわっ!」

背後から含み笑いとともに提案され、オラトリオは慌てて飛びのいた。

いつの間に来たのか、さっき別れたばかりの担当編集者、クオータが一本の傘を手に立っていた。

「あなた方なら頻繁にこちらにいらっしゃるんですからね。傘の一本くらい、お貸ししますよ」

「なんで一本だよ、ケチくせえ」

こっちの人数が数えられないのかと毒づいたオラトリオに、クオータは陰険な笑みを浮かべると、悪の帝王のような笑い声を響かせた。

「それはねあなたたちがいい年して、男ふたりで相合傘して帰るという、羞恥プレイを好むからですよ!」

これは私の親切心の為せる業ではありませんか!

勝ち誇って高笑いするクオータは多分に屈折していたが、編集者などというものは、担当作家と付き合いが長くなれば長くなるだけ屈折していくものだ。

オラトリオは負けじと牙を剥いた。

「だれが好むかあと今さらだがおまえからの施しは受けねえぞあとでどんな貸しになって毟り取られるかわかんねえんだから!!」

「いやですねえ毟り取ろうとしたって、おとなしく毟り取られてくれないくせに!」

「当たり前だてめえの思うつぼに嵌まってたまるか!」

とにかく犬猿の仲であるオラトリオとクオータだ。顔を合わせればずっと剣突くしている。

どうして担当を変えずに今まで仕事を続けているかといえば、お互いに張り合って妙にレベルの高い仕上げに持っていくので、編集長命令で固定にされているせいだ。

「いいじゃないか、オラトリオ。それ借りなよ。そしたら絵も濡れないし、おまえも濡れないし、一石二鳥だよ」

激しく火花を散らすふたりに、オラクルがおっとりと口を挟む。

ごく当然の仕種で、オラクルは肩に下げていたキャンバス地の大きなバッグをオラトリオに渡した。

「次来るときに返せばいいよな、クオータ」

「ええ、もちろんです、オラクル」

「待てこら!」

荷物はおとなしく受け取りながらも吼えたオラトリオに、オラクルはきょとんと首を傾げた。

「なんだ?」

あまりに無邪気な表情だった。

オラトリオは一瞬言葉に詰まり、正視していられずに、拗ねた顔でそっぽを向く。

「クオータに借りをつくるのはいやだ」

「子供っぽい言い種ですね、オラトリオ!」

即座にクオータが高笑う。オラトリオは反射的にそんなクオータを睨みつけ、また激しく火花が散った。

しかし、空気を読まないことに関しては右に出るものがいないオラクルが、ますますきょとんとした顔でふたりの間に割って入る。

クオータの手から傘を受け取りながら、その顔を無垢な瞳で覗きこんだ。

「貸しになんかしないよな、クオータ。ただの親切だろうおまえはよく気がつくものな」

「…目がつぶれそうです、お天道様」

引きつりながら、クオータはオラクルから顔を背ける。

天を仰げば、ざんざん降りの悪党仕様だ。

だがこれもオラクルにかかれば、空が大地を浄化してくれているんだよ、ということに。

あまりの偽善に吐き気がしそうだが、これが偽善でなくて真意だというからもっと。

「貸しにはしませんが、ひとつお願いできるなら…」

「うん?」

「次の締切りは、もう少し余裕を持って守ってくださると、うれしいかなと」

「あー」

控えめなお願いに、今度はオラクルが天を仰ぐ。

複雑な顔をしてこちらを睨んでいるオラトリオを見るとクオータへと顔を戻し、悪意もない清らかな微笑みを浮かべた。

「努力義務ってことで」

「…」

クオータが笑みを浮かべる。敗北者の笑みだ。

オラトリオに対してはどこまでも強気にも鬼にもなれる彼も、天然無邪気なオラクルが相手となると、分が悪かった。暖簾に腕押しとか、糠に釘とか、子供のころに遊んだことわざカルタの、悲しい句ばかりが頭に去来する。

繊細で気難しいオラトリオを傷つけることも怒らせることも簡単だが、オラクルは手強い。

彼がほんとうに感情を動かされるのはオラトリオがなにかしたときだけで、それ以外はおまけと思っている節があるからだ。

「…世の中には誠意という言葉があるんだそうですよ、ガンダーラ」

「大丈夫、いつか辿りつけるよ。存在しているなら」

「犬猿雉を見つける旅に出ます」

「岡山行くのじゃあ、きびだんご、お土産によろしく」

どこまでも無邪気に応えるオラクルに、クオータが項垂れる。

ため息をついて、微妙な顔でそっぽを向いているオラトリオを見た。

「あなたの趣味がわかりませんよ」

「ぬかせ。おまえに趣味をとやかく言われたくねえよ」

「なにがです。編集長は実にすばらしい方ですよ」

そこだけは胸を張って言い、クオータは打って変わってやさしい笑みを浮かべると、きょとんとしているオラクルに頭を下げた。

「それではお気をつけて。雨に濡れるのも構いませんが、体調管理も仕事のうちですよ。風邪を引いても締切りは伸ばしません、絶対に、決して断固として」

やさしくやわらかな物言いながら、三段に拒否を重ねて、クオータは念を押した。

天然無邪気に打ち負かされているばかりでは、編集者など務まらないのだ。

今度はオラクルも神妙に頷いた。

「わかった。オラトリオはぜったいに濡らさない」

「…あなた意外と丈夫ですよね、オラクル…」

芸術家肌で常軌を逸しているオラクルだが、からだは頑健そのものだった。芸術家でイメージされる腺病質なところはまったくなく、雨に濡れたことが原因で風邪を引いたことも一度もなかった。

常識人でスポーツなどもこなすオラトリオのほうが、ずっとわけのわからない理由で風邪を引きやすい。

「じゃあ、ありがとう、クオータ。編集長によろしくね」

今日は会議で不在だった、彼の偏愛する上司への挨拶もして、オラクルは弾む足取りでオラトリオの元へ行く。

渡される傘を一瞬、抵抗の瞳で見つめて、しかしオラトリオはため息をつくとこれもまた、荷物と同じようにおとなしく受け取った。

「おまえも入れよ」

「え、大丈夫だよ」

「電車に濡れたからだで乗るな、迷惑な。向こう着いたら、好きなだけ濡れろ」

叱るような語調だが、オラトリオの声はこれ以上なく甘い。クオータに向けていたのとは比べものにもならない蕩けるような表情を浮かべて、全身で愛しいと叫びながらオラクルを見つめている。

「今の時間なら混んでないし…」

「おまえが濡れるなら俺も濡れるぞ」

「えー」

ごちゃごちゃと言い合いながらエントランスを出ていくふたりを、クオータは呆れて見ていた。

結局、最初に彼が言ったとおり、躊躇いも衒いもなく相合傘で歩いていくふたりだ。

「いい加減、羞恥心が壊れ果てていますね」

つぶやくと、クオータは眼鏡をかけ直し、職場へと戻った。

そろそろ編集長が会議から戻ってくるはずだ。お茶を淹れて、なにか甘いものを。

嵐の去ったエントランスで、受付嬢は小さくため息をついた。

いい男が揃いも揃って変人ばかりとか。

世の中って、ほんとにうまくいかない。