ざ、と一際強い風が吹き、スケッチブックがばたばたとページをはためかせた。

目の前を覆う、桜吹雪。

「あ……」

はたと我に返ったオラクルは、瞳を見張って目の前の光景を眺めた。

視界を埋める、あたたかでやわらかな吹雪――

ちぇり・ちぇり・ふらわー

「…っ」

風が止んで衝撃が過ぎ、平静を取り戻したオラクルは傍らを見、それから公園を見渡した。

いない。

ベンチの隣に腰かけていたはずの、オラトリオ――いつの間にか、姿が見えなくなっている。

「ん……」

だからといって、大して慌てるでもない。スケッチに夢中になったオラクルを置いてオラトリオが遊びに行ってしまうのはいつものことで、けれど終わる頃を見計らって、必ず戻ってくるからだ。

ゆえに、下手に慌てて探したりするより、ここでのんびりと待っていた方がいい。

オラクルは固まった体を伸ばし、瞳を細めて空を見上げた。

抜けるような青空だ。

こんな天気のいい日に花見をやらずにいつやるか、とオラトリオに誘われて出掛けた、近所の公園。

平日の昼間だというのに、やはりいつも以上にひとがいた。

シートを広げて花見に興じる、主婦と思しき女性たちとその幼い子供たちに、飲酒年齢を確認したくなるような、学生らしき若者の一団。

ぽつぽつと等間隔で置かれているベンチには、散歩途中の老人や、営業回りの休憩と洒落込んでいるのだろう、スーツ姿のサラリーマン――

だれもが桜の傍に集まって、和み、この春を堪能している。

ベンチのひとつに座って夢中で描きとめたそれらは、きっと後で見返して、しあわせな気持ちにしてくれるだろうけれど……………

「お、終わったか」

茫洋としていたオラクルに、明るい声が降ってくる。

傍らに立ったひとを見上げて、オラクルは顔を綻ばせた。

「おなかすいた」

「おいおい」

無邪気に手を伸ばされ、オラトリオは呆れたように肩を竦める。

その手に持つのは、桜餅の入ったプラスティック・パックだ。近くの和菓子屋にでも行って、買って来たのだろう。

「花の次は食欲かよ」

「花も団子も、どちらもおいしいじゃないか」

「ある意味素直だよなあ」

感心したような、呆れたような。

微妙な表情で言いながら、オラトリオはオラクルの隣に座った。

輪ゴムを外してパックを開くと、オラクルへと差し出す。

「ほらよ」

「ありがとう」

顔を綻ばせて受け取り、オラクルは早速ひとつ、つまんだ。

ぱっくりと一口齧って――笑み崩れる。

「なんだよ?」

「おいしい」

「そりゃ良かったな。全部おまえのだから、残さず食え」

「ははっ」

いやそうに顔を背けて言う甘いもの嫌いに、オラクルはまたも笑う。

甘いもの嫌いのくせに。

「愉しいか」

「しあわせだよ」

微妙に不貞腐れたような問いに、オラクルは甘い吐息とともに答えた。つまんだ桜餅を口に放りこみ、今が盛りと咲き誇る桜を眺める。

「空は気持ちよく晴れていて、桜はきれいに咲いていて、みんな愉しそうでしあわせそうで」

言いながら新しい桜餅を取り、ぱっくりと齧りつく。

食べるたびに、笑み崩れてしまう。

甘いもの嫌いのくせに――

「桜餅はすごくおいしくて、それで隣にオラトリオがいる。これ以上なく、しあわせだろう?」

「俺はいちばん最後かよ」

そっぽを向いたまま腐すオラトリオが、照れているだけだということくらい、お見通しだ。

ひねくれて、ねじくれて、それでなお、オラクルのことを激しく愛するひと。

曲がって、歪んで、まっすぐにオラクルが愛するひと。

桜餅を口に放りこみ、オラクルはそっぽを向くオラトリオを、微笑んで見つめた。

「でも、いちばん大事なのはそこだけだ」

「あ?」

振り向いたオラトリオに、オラクルは公園をぐるりと指で辿ってみせる。

「空は曇っていても、いっそ雨でもいい。桜が咲いてなくて、それどころか枯れ木でも構わない。みんなつまらなそうで、どこかあくせくしていて、でもそれも気にならない」

指で辿りながら数え上げ、オラクルは再びオラトリオを見て笑った。

「桜餅が失敗していて全然おいしくなくても、別にいいよ。でも、隣におまえがいないのは、だめだ。どれが欠けても全部揃っても、おまえがいるといないとで、世界はまったく逆転する」

「……」

瞳を見開いてオラクルを見つめていたオラトリオは、ふと眉をひそめた。

恐る恐ると、桜餅を指差す。

「失敗してるか?」

「おいしいって言ってるだろう」

オラクルは声を上げて笑った。

新しい桜餅をつまんで、ぱくりと齧る。

微妙な表情で眺めるオラトリオに、オラクルは食べかけの桜餅を振った。

「おまえは絶対に、私に失敗作なんか食べさせないだろう。ちゃんとおいしいって」

「…」

「おまえが私のためにつくってくれたものだ。世界でいちばん、おいしい」

笑うオラクルに、オラトリオはわずかに仰け反った。視線が怪しく彷徨う。

オラクルは笑いながら、桜餅を口に放りこんだ。

「なんで――俺がつくったって、わかった?」

オラトリオは恐る恐るといったふうに問う。

家にはちゃんと重箱があるのを、知っている。手作りだとばれないように、わざわざ店で使われるような、安いプラスティック・パックを使ったのだろう。

俺様のすぺさるすいーつを堪能しろ!!などと押せ押せで主張することもあるかと思えば、ひどくひねくれた供し方をすることもある。

オラクルはぺろりと指を舐め、ヒネクレコイビトへと首を傾げてみせた。

「どうしてわからないと思ったんだ?」

「……」

渋面で考えこみ、オラトリオは手を伸ばすと、桜餅をひとつ取った。

表から裏からじっくりと眺めた末、ぱくりと一口で放りこむ。

咀嚼する顔が徐々に引きつり、最後にはがっくりと項垂れた。

「あめぇ…………」

甘いもの嫌いは果てしなく落ち込んで、だらりと舌を垂らす。

「おいしいのに」

呆れてつぶやいて、オラクルは最後のひとつをつまんだ。ぱくりと齧る。

「………店のとおんなじような味じゃねえのか?」

果ての結論に、オラクルはちょっとだけ眉をひそめてみせた。

「お店じゃ絶対に出せない、こんな味。おまえが私のためを思って、私のためにつくってくれたものだぞ世界にひとつしかない、おまえだけの味だ」

「…」

口の中に残る甘さに、涙すら滲ませて見つめるオラトリオに、オラクルは渋面を一転、微笑んだ。

「世界でいちばん、おいしいんだ。わからないわけがないだろう」

「…」

しばし見つめ合ってから、オラトリオはふいとそっぽを向いた。きれいに撫でつけた髪を、無残に掻き回してしまう。

「あー………あのな」

「うん」

最後のひと欠けを口に放りこんだオラクルに、オラトリオは空になったパックを指差した。

「ちょうど終わったし、家に帰らねえ?」

「えー」

オラクルは眉をひそめる。

まだいい陽気だ。いや、時間的には今より、これからのほうがもっと。

きっと、家の中よりも外で過ごすほうが、ずっと気持ちいいのに。

そのオラクルに、オラトリオはさらに頭を掻き毟った。

「キスしてえんだよ………!!おまえのこと抱きしめて、めちゃくちゃにキスしてえのっ!!」

「……」

駄々っ子の声に、オラクルは瞳を瞬かせた。

ややして横を向くと、上品に口元を押さえて、そっと吹き出す。

「おーらーくーるぅっ!!」

笑うな、と叫ぶ駄々っ子に構わず、オラクルは笑ったまま、満開の桜へと目をやった。

今が見ごろだ。

そしてなによりも、いい天気で、公園にはしあわせが満ち溢れていて。

「どうしようかな」

つぶやきながら、スケッチブックを撫でた。