海が見たい。

従兄弟が言いだしたのが、すでに夕方だった。

求おう、其がいらえ

「というわけで行ってきます」

「待てこら」

夕飯の支度を始めようとしたところでやって来て、玄関先でそう告げられた。そう告げるオラクルの恰好は、遠出するものではない。

いつものラフなシャツに、ジーンズ。履き潰したスニーカに、スケッチブックと色鉛筆のセットを入れただけの、キャンバス地の鞄。

おそらくその中に財布を入れてはいるだろうが、携帯電話を持っているかどうかは怪しい。この従兄弟は、携帯電話は携帯するものだという意識が、さっぱりない。

「とりあえず夕飯を食っていけ。付き合ってやるから」

「待てない。行ってきます」

「言うことを聞け!!」

押し問答の挙句、ちょうどよくもさっと起きてきたパルスに、エプロンを押しつけた。

寝惚けている寝太郎大学生は、さっぱり話が見えないふうにきょとんとしていたが、オラトリオが用意しようとしていた夕飯のメニューを見ると、ようやく目を覚ました顔になった。

「ちょっと待て。私にこれが作れると」

「材料を無駄には出来ねえ。やるんだパルス。おまえは出来る子だって、おにーさんは信じてる☆」

「また適当なことを、貴様!!」

猛抗議する弟を放り捨てて、すでに玄関から半ば出かけている従兄弟を追って、ほとんど着の身着のまま、財布と携帯電話だけ持って、飛び出した。

「どこ行くんだ」

「海」

「よし、日本地図を買って見せてやろう、オラクル」

海、の単語だけでどこかへ行こうとしていたらしいオラクルに、オラトリオは牙を剥きだして笑う。

やはり強引にでもついて来てよかった。そしてついでに確認した鞄の中に、予想通りに携帯電話が入っていなくて、再び自分の行動に確信を持つ。

ついて来て正解だ。

――ある日突然、公衆電話から電話がかかって来て、どこにいるんだと訊いたら「海」とか答えられる。どこの海だと訊いたら、「だから、海」と。

従兄弟はそういうことを本気でやりかねないから、恐ろしい。

ふわふわおっとりした世間知らずのくせに、妙な行動力に溢れているから厄介なのだ。

「あと何分で海が見たい」

威嚇したオラトリオだが、本当に本屋に入って日本地図を求めたりはしなかった。ただ、オラクルの希望を訊く。

「うーん。急ぎじゃないけど、今日中」

考えたオラクルは、疑問もなく答える。そこのところのオラトリオへの信頼感は、幼いころからの調教の成果だ。

「んじゃ、ちょっと足を延ばすか。鎌倉あたりにでも」

「大仏?」

「海じゃねえのかよ」

「鎌倉って、海あったっけ」

「よし、やっぱり日本地図を買ってやる、オラクル」

そんな会話をしながら、帰宅ラッシュの電車に揉まれて、鎌倉を目指した。

普段、こんな時間帯の電車には乗り慣れない、自由業の二人だ。ぴったりくっつくというより、ぎゅうぎゅうに押し潰される感覚に、オラトリオはうんざりして天を仰いだ。

オラクルの手が、縋るように胸元を掴んでいる。人ごみに行きつけない彼には、ずいぶんな体験だろう。

人酔いなどしていないかと思って見下ろせば、どこか愉しそうにも見える。

オラトリオがいさえすれば、なにも怖くない――確かにそう調教済みだとも。

いくつか乗り継ぎを経て、すっかり暗くなったころに、鎌倉に着いた。

オラトリオとしては、どこかで夕食を摂りたい。

しかし、「海が見たい」に囚われている従兄弟が、食事に目を向けるはずがなかった。

こうなったらさっさと海に行き、堪能させてやって、適当なファミレスに連れ込む――

覚悟を決めて、オラトリオは暗い道を海へと辿った。

やがて潮の香りが濃くなり、潮騒が耳を打つ。

暗い中に開けた景色に、オラクルはぽつりとつぶやいた。

「海だ」

「どこに連れて行かれてると思ったんだ、おまえは」

「海」

「訊いた俺が悪いんだな?」

慨嘆するオラトリオの言葉を聞かず、オラクルはさっさと浜辺に下りていった。そのまま、すたすたと砂浜を歩いて行く。

「なにを探してんだか……」

ぼやきながら、オラトリオも浜辺に下りる。さっくりと飲みこまれた足に、掛かる砂は冷たい。夜が来て日が溶ければ、すぐにもぬくもりを失う。

すたすたと歩いて行くオラクルを、適度な距離を開けて追いつつ、オラトリオはぼんやりと海を眺める。

潮の香りや潮騒は、ひとによっては恋しいとか、懐かしいとか、興奮材料になるとか、いろいろするらしい。

オラトリオは、あまり好きではない――茫々と、呼ぶ声が聞こえるような気に襲われるのだ。

ここに還れと。

あまりに莫迦らしいから、だれにも言ったことはないけれど――昼間であっても夜であっても変わりなく聞こえるその声は、あまりいい気がしない。

俺が還る場所はそこじゃない。

俺が還る場所は――

「オラトリオ」

「っ」

いつの間にか立ち止まって、海に見入っていたオラトリオの前に、オラクルがいた。夜闇の中でもきらきらと輝く瞳が、じっと見上げてくる。

「……気が済んだか?」

「どこでもいいやと思ったんだけど、違うみたい」

「………マジか」

あっさり返される答えに、オラトリオは天を仰ぐ。自分が住んでいる街と違って、星がきれいに見える。

しかし慰められない。

海に執心するオラクルが、目的の「海」を見つけるまで、他事に気を遣るわけがない。夕飯がどこまでも遠のいていく。

「どういう海を探してんだ」

空腹を堪えて、オラクルを見下ろす。オラクルはきらきら輝く瞳で、じっとオラトリオを見つめた。

そのまま、数秒。

「オラクル?」

「うん」

答えを求めるオラトリオをじっと見つめたまま、オラクルは頷いた。頷くだけ。

「オラクル」

「違うんだけど、ここで合っているみたいだ」

「は?」

意味がわからない。

瞳を瞬かせるオラトリオをじっとじっと見つめ、オラクルは顔を寄せた。軽くくちびるが触れる。

海にも入っていないのに、潮風に晒されていただけで、なんだか塩味に感じられるキスだ。さらに空腹が募る。

オラクルはにっこり笑った。

「もうしばらく、こうしていていいか?」

「こうして?」

意味がわからないオラトリオにそれ以上答えることはなく、オラクルはじっと見つめてくる。

なんだろう、もしかして、オラトリオの瞳に映る海が正解だとか、そういう――

戸惑う瞳は一点に定まらず、うろうろ彷徨う。

夜の海を見つめ、星の光る空を眺め、なにより輝く瞳に戻る。

還れと声が呼ぶ。

答える。

俺が還る場所は、そこじゃない。

俺が還る場所は、ここだ。

こいつのところだ――

「よし、帰ろう!」

「あ?」

元気いっぱいにオラクルが言い、呆然とするオラトリオの手を引いて歩き出した。

「ん、なんか目が回る………?」

「腹が減ったんだよ、そりゃ」

結局なんだったんだ、と訊くより先にこぼれたオラクルの言葉に、世話焼きの血が勝った。

「そもそもおまえ、昼飯は食ったか?」

「食べたんじゃないか?」

「自分のことだろうがもっとはっきり答えろ!」

「じゃあ、食べなかったかもしれない」

「はっきり!!」

叫びながら、オラクルの手を握り返した。

握れば、きちんと握り返してくれる手。

ここが、還る場所。

オラクルが笑って、振り返る。

「食べたか食べていないか、覚えていない!!」

自信たっぷり、はっきりこぼされた答えに、オラトリオはオラクルを引き寄せ、抱きしめた。