「いいか、オラクル」

渋面の従兄弟を見上げ、オラクルもまた、わずかばかり眉をひそめる。しかし多分に、理由は違う。

なんだか、胃が痛そうだなーと。

花の下にて、春

常々おちゃらけて、頼もしいおにーさんキャラで通しているオラトリオだが、実際のところは線が細い。繊細で、細かいことを気にして、くよくよと悩む。

一方、芸術家肌で奇矯な言動も多く、繊弱極まりなさそうなオラクルの方が、細かいことを気にせず、むしろ豪胆で頑丈だ。

オラクルは、当然だと思っている。

絵を描くこと。

オラクルが考えることはそれのみで、他事になど一切意識を振り分けない。

――いや、一応、コイビトのことやその健康にも、わずかばかり気を遣ったりはするが、くよくよ悩んだりしない。

そういう細かいことは従兄弟の仕事だと、割り切って。

「………んもしかして、それがまずいのか?」

「聞け、オラクル!」

つい、自分の思考に囚われたオラクルに、堪忍袋の緒が切れたオラトリオが叫ぶ。

「そもそもおまえというやつは!!冬に雪が降れば、その中に埋まり!!春に桜が咲けば、花吹雪の中に埋まり!!どうしてそうも、地べたに転がって埋まりたがる?!」

「どうしてと言われても………」

叫ぶオラトリオの前、地べたに正座したオラクルは、困ったように視線を彷徨わせる。

近所の公園に、桜が咲いた。

ぽかぽか陽気だった。

――これでも、きちんと配慮はしているのだ。公園の真ん中に転がったら迷惑だろうから、隅っこ。

隅っこだけれど、日当たりが良くて、桜のそば。

場所探しにはそれはそれは苦労して、そのうえで、地べたにごろんして、舞い散る花びらに埋もれること、――半日以上。

学校帰りの信彦が見つけて、ちびのところへ遊びに行くついでに、「ねー、オラクル埋まってんよー。朝がっこーに行くときに、すでにあそこにいた気がすんだよねー」と、オラトリオに進言し――

現在に、至る。

「……………でもほら、雪だと命に関わるけど、桜だったら」

「おだまりなさい!!」

「………」

キレた従兄弟に金切り声で叫ばれて、オラクルは大人しく口を噤んだ。そうやると、彼と犬猿の仲の某編集者にそっくりだ、とかなんとか思いつつ、その考えは胸に忍ばせておく。

さすがに今ここでそれを言った場合の惨事は、いくらニブイのとろいののろいのと腐されていても、想像がつく。

オラクルは黙ったまま、ぷりぷりしているオラトリオを見上げる。

「そもそもだな、朝早くに来たんだったら、ベンチが空いてるだろうがどうして、シートも敷かない芝生もない地べたに転がる?!」

「ベンチを占有したら、迷惑じゃないか」

物凄く意外そうに、非常識だな、とばかりの声音と表情で言われ、オラトリオは軽く身を折った。

やっぱり、胃が痛そうだな、とオラクルは考える。

どこか他人事だ。

もちろん、オラトリオは単なる従兄弟であると同時に仕事上のパートナーで、そして人生で唯一もっとも大事な、コイビトだ。

だが、それとこれとの感情が、多少常人と違うのも、オラクルだった。

「だったら、公園にいちんっちじゅう寝転がってる成人男性の存在は、ご近所の幼児連れの親御さんたちにとって、迷惑ではないと」

「あー、それは……………」

そこを突かれると、さすがにオラクルにも反論はない。

そうでなくても自由業、不規則な生活で、昼間にぶらぶらしていることも多い。

不安定な業種だし、びしっとスーツで固めていたこともなく、親しくない相手には、多少以上に胡乱な目で見られているのだ。

一日中、公園でぼさっとしていたりしたら、なんなのあのひと、と警察に通報されても文句は言えない。

通報されないのは、オラクルの醸し出す空気が穏やかでやさしく、そしてあまりに独特だからだ。

ついでに、多少は付き合いのあるひとからの、「ああ、あのひと芸術家なんですって」という、本来的には一切フォローにならないフォローもあっての、娑婆生活。

「……………一日経ってるって、気がつかなくて」

ぼそぼそと言ったオラクルに、オラトリオは深いため息をついた。

「腹が減るのが、人間だ」

「うん。おなか空いたな」

応えてオラクルは、悪びれもせずにあっさりと言う。

オラトリオの渋面が、さらにひどいことになった。

胃が痛そうだな、と。

かわいそうだと思いつつ、オラクルが根本的に反省することはない。

オラクルの元々の性質もあるが、そういう彼を極大まで甘えさせてきたオラトリオの責任もある。

眉間を押さえて眩暈と戦いつつ、オラトリオは手に提げていた風呂敷包みを差し出した。

「とりあえず、握り飯」

「ありがとう!」

「ベンチで食え!」

「うん!」

――今日も今日とて結局甘やかして、説教もそこそこに、オラトリオはオラクルをベンチへと移動させ、急いで握ってきたおにぎりを渡してしまう。

差し出せばぱくぱくと面白いように食べるし、普段小食気味ではあっても、まったく拒食というわけではない。

それでも、食べることを頻繁に忘れるのが、オラクルだった。

「………んでなんで、埋まりたがるんだ、おまえは」

ぱくぱくと食べられるおにぎりが残りわずかになったところで、オラクルの隣に腰掛けたオラトリオは疲れたように訊く。

新しいひとつに口をつけようとしていたオラクルは、ちらりとオラトリオを見た。

それから、瞳だけ空へと向ける。

「埋まりたいんじゃなくて………空がいちばん見える恰好が、寝転がることだから、寝転がっているだけなんだけど」

「空、か?」

「うん」

頷きながら、オラクルはおにぎりにかぶりつく。

もぐもぐと咀嚼して飲みこみ、瞳を細めた。

慌てふためいて飛んできたはずのオラトリオだが、おにぎりはちゃんとお花見仕様だ。塩に、桜塩を使っている。

勢いづいて詰め込んでいたときには気がつかなかったが、腹具合が落ち着いて、味わって食べるようになると、おにぎりからはわずかに桜が香る。

生活の細かなところにまで、神経を行き渡らせているのがオラトリオだ。そこまで気を遣うから、結局、ストレスも溜めやすくなる。

「雪の季節は、雪が降る空を見上げたいし。桜の季節は、花吹雪に撒かれる空を見たい。見たいのは、空なんだ、どちらかというと」

「………空、ねえ」

つぶやいて、オラトリオは釣られたように空を見上げた。

そろそろもう、暮時だ。大分日が伸びて暗くなるのが遅くなったが、さすがにオレンジが入り出している。

「そう、空…………結果として、埋まっちゃってるけど」

「………」

夢中になるあまり、他事を忘れるのが、オラクルだ。

オラトリオは瞳を眇めて、おにぎりをぱくつく従兄弟を見た。

ひと時も、目が離せない。

離せないが、近場には住んでいても、所詮は別居。四六時中いっしょにいるようで、意外にいない。

常時監視していることは不可能で、今日のようなことは、ちょくちょくある。

確かにオラクルの言った通り、雪の中に埋もれられるより、今の季節ならば命の危険は少ないが――

「桜の木の下で花びらに埋もれてるって、洒落になんねえだろ」

「ん………あー。ああ」

ぼそりと吐き出され、オラクルはわずかに考えてから頷いた。

桜の木の下には、死体が埋まっている。

一部有名な、俗説だ。

春、桜の下で死にたいと、古人がうたにうたっていたこともある。

桜と死体の連想はあまりに容易く、それがおそらくオラトリオの不安を煽るのだろう。

オラクルは最後のおにぎりを口に入れ、もごもご咀嚼しつつ、空を見た。

「……大丈夫だよ」

ややして飲みこむと、そう告げる。

「なにがだ」

つっけんどんに返されても気にせず、オラクルはベンチの上でのびのびと体を伸ばした。

「私はおまえより先には、死なないから、絶対」

「………」

ひどく胡乱そうな視線が投げられたが、オラクルは体を伸ばした姿勢のまま、空を見つめていた。

「おまえを遺しては、死なない。期待を裏切って悪いけどね」

「誰がそんな期待」

「どう考えても、おまえのほうが繊弱で脆弱で、持ちそうにないし」

「………」

あっさりさらっと言われて、オラトリオはわずかに身を引く。

オラクルは笑って、ベンチに凭れていた体を起こした。無言のままに見つめてくるオラトリオへ、手を伸ばす。

頬を撫でると、顔を寄せ、その額に軽くくちびるを当てた。

離れて、また笑う。

「それになにより、私がどんなことをしても絶対、死ぬ前には必ずおまえが見つけて助けてくれるから。だから私が、おまえより先に死ぬことはない。決して」

告げられた内容に、オラトリオはゆっくりと顔を伏せた。片手で顔を覆うと、深いふたいため息をつく。

「……………畜生。甘やかし過ぎた。自分の首が絞まってる………」

今さら過ぎる言葉にオラクルは華やかに笑って、頭を抱える従兄弟を抱きしめてやった。