夢から覚めて、ああそうだ、お茶を淹れようと思った。

夜ではない。昼寝だ。ほんの軽い、短時間の眠り。

そこで目が覚めて、お茶を淹れようと――

サンクティアス・マグダレィナ

「いや。たぶん、もっと強迫的だったかも」

「ふぅん?」

そんな過程を経て淹れたお茶を啜るオラトリオが、テーブルを挟んで目の前に座り、同じくお茶を啜るオラクルをカップ越しに見る。

まだ熱いそれからは、ゆらゆら、白い湯気が立ち上っている。

――この、再現率は。

「『お茶を淹れよう』じゃなくて、『お茶を淹れなくちゃ』」

「そりゃ、確かに強迫的だ。どれくらいの時間、水分を摂ってなかったんだ」

説明したオラクルに、オラトリオの言葉は混ぜっ返しているようだが、実のところ真剣だ。

この従兄弟ときたら絵を描くことに夢中になると、食べることのみならず、飲むことも忘れる。いや、絵を描いていてというならまだ、理解も出来る。

――なんか、気がついたら忘れてた………そういえば人間って、飲み食いしないと倒れる生き物だったな……。

激しく嫌な予感を覚えて、オラクルの一人住むアパートに様子を見に行って。

迎えた従兄弟の顔色に、体のふらつきに、最後に飲み食いしたのは、いつだ、――と。

そんな問答を、何度くり返したことか知れない。

とはいえ今日に関しては、嫌な予感に駆られて様子を見に来たわけではない。行く約束になっていた。次の仕事の打ち合わせと、スケジュール合わせだ。

基本はコンビで活動しているオラトリオとオラクルだが、単品の仕事も受け付けていないわけではない。

この予定合わせは、今後の仕事を受けるか受けないかというときに、かなり重要な意味を持ってくる。もちろん、選り好みや門前払いができるような身分ではないのだが、そうだとしても。

特に予感に駆られることもなく、約束の時間になったからと訪れたオラトリオに、オラクルは淹れたてのお茶が入ったポットを掲げてみせた。

「珍しいな」

掲げられたオラトリオは、軽く瞳を見張ってつぶやいた。

たまたまおやつにしようと思っていて、という、タイミングの合致によってお茶が用意してあることはあったが、そうでなければ、事前に用意されていることは少ない。

オラクルがオラトリオを歓迎していないのではなく、来るときの手土産だ。

必ず、ではないが、こういった余裕のある打ち合わせのときなどには、オラトリオは高確率で手作りのおやつを持ってくる。

事前にオラクルに、なにこれを持って行くから、と通告するわけではない。

オラクルが迎えると、威張ったような、照れ臭そうな、複雑な表情でバスケットを渡す――

中身はスイーツのこともあれば、ちょっとつまめる軽食のこともあるし、和洋中も、なんでもござれだ。

先にお茶を用意しておくと合わないこともあるので、オラクルはオラトリオが来てから用意する癖がついた。

だから今日のように、来ることがわかっていた時間に先にお茶が用意されていたというのは、ひどく珍しい。

ダイニングテーブルにお茶のセットとおやつを置き、向かい合わせに座って、さてとまず出た話題がこれだったのは、ある意味ひどく自然なことだった。

「寝ていた時間くらいだよ。一時間とか、そこら。今日は食べるのも飲むのも、きちんと時間通りにやったんだ」

軽く上目になって思い起こしつつ答えたオラクルに、オラトリオはしたり顔で頷いた。

「よしよし、偉いぞ。人間の自覚が芽生えて来たな」

「またそうやって!」

オラトリオが持って来た手土産は、マドレーヌだった。ただし、貝殻型ではない。使い捨てのアルミ型に入った、丸いものだ。

目の前の皿に置かれたひとつを取ったオラトリオは、さくさくとアルミ型を剥ぎ取り、中身を取り出す。あとは口に放りこむだけとなったそれは、オラトリオの口に入らず、また皿に戻された。

オラクルの前に。

――たまにうっかりしたオラクルは、アルミ型を取らずに口に入れてしまう。そのうっかりのタイミングがどう訪れるかわからないため、オラトリオはあらかじめ、アルミ型をすべて取っておいてやるのだ。

そもそもオラトリオは、甘いものが苦手だ。幼い弟や従兄弟が好きだから作るだけで、口にはしない。

過保護な従兄弟によって安全が保証されたマドレーヌを取りながら、オラクルは顔をしかめた。

「すぐにひとのことを、ばかにして確かに私は、ちょっとヌケてるかもしれないけど」

「大丈夫だ、オラクル」

新しいマドレーヌを取ってアルミ型を剥ぎ取りつつ、オラトリオは真顔でオラクルを見据えた。

「ちょっとじゃない。かなりだ。自信を持て」

「……………………………」

混ぜっ返されているならまだしも、おちゃらけが基本姿勢の従兄弟が、まったく真剣そのものだった――

オラクルは瞳だけで天を仰ぎ、手に取ったマドレーヌをぱくりと咥える。

口に広がる、バニラとバターの香り。

焼き立てらしく、まずはさっくりとした歯ごたえで入り、噛んでいるとタフィーのように濃厚に、とろりと蕩けていく。

これを食べながら、しかめっ面は難しい。

難しいことに挑戦するかどうかを悩みつつ、オラクルはひと口めを咀嚼し、ふた口めで、敢えて挑戦する意義はないと放り出した。

「んー♪」

「わかりやす…………」

「んー?」

「いえいえ。どうぞお食べください」

「んー♪」

美味しいものを食べているときに、深く考えるのは無理だ。美味しさで、ほっぺたどころか、脳が蕩けているのだから。

「んで?」

「んぃ?」

「いや、あのな………」

すべてのアルミ型を取り去ったオラトリオは、マドレーヌを食べることに真剣になってしまった従兄弟に肩を落とす。

再びカップを手に、その香りを嗅いで気力を掻き立てて、オラクルを見た。

「なんでそんな、お茶を淹れなくちゃってな、強迫観念に駆られたんだ夢でも見たのか、そういう」

「んー………ふめって、いふか」

「飲みこみなさい」

「ふぁい」

オラクルは大人しく頷き、口に咥えたマドレーヌを咀嚼することに集中する。

夢、は、見た。

夢らしく、ひどくおぼろげで曖昧で、残ったものは、わずかな欠片――

「待て、新しいやつを咥える前に、話しておけ。気になるから!」

「あ、そうか」

内容を思い返すことに熱中するあまり、オラクルの手は自然と次のマドレーヌに伸びてしまっていた。

オラトリオにやわらかく除けられて、オラクルはその手でカップを持つ。

マドレーヌを食べている間に湯気は落ち着いて、すぐに口をつけても火傷の心配もない。

――この、温度計算は。

「おまえの夢」

「俺?」

「うーんー。おまえの夢っていうか………おまえが疲れているから、お茶を淹れなくちゃって。思ってる夢」

「…………………」

夢の中、オラクルはひたすらに思っていた。

オラトリオが疲れている、なにか自分に出来ることはないのか。

仕事を肩代わりしてやっても、プライドの高い彼にとっては、精神的な負担になるだけ。

慰める言葉も、撫でる手も、思いやる自分が、疲れている彼の矜持を傷つける――

「なんか、面倒くさいよな、おまえって」

「なにぃっ?!!」

あくまでも、夢の話だ。夢の中の、オラクルが思っていたオラトリオの、印象。

目を剥いたオラトリオに構うことなく、オラクルはお茶を啜る。

ほんのりとした、酸味と甘み――なにより、その香り。

疲れている相手に出来る数少ないこととして、夢の中のオラクルは、必死でお茶を淹れていた。

淹れようとして、なにがいいのだろうと。

そこで目が覚めたので、オラクルは続きとして、お茶を淹れなければと思った。

疲れを癒す、やさしいお茶――

オラクル自身にこだわりはないのだが、幸いなことに、凝り性の従兄弟が入り浸る家だ。実家住まいの姉妹も、なにくれとなく、面白いお茶を見つけたと言っては、持って来てくれる。

過保護さの加減で従兄弟と張り合える兄も、一人であろうと旨いものを飲めと言って、結構な高級茶を。

その中でオラクルが選んだのは、ローズヒップやハイビスカスといった、疲労回復効果があると言われるハーブをブレンドしたお茶だ。

いくつかのハーブがブレンドされているため、単品で飲むより香りが穏やかで、味もやわらかい。

仄かな甘みはあるが、砂糖を入れたわけではなく、あくまでハーブのブレンド効果だ。

甘いものが苦手なオラトリオでも、これならば美味しく楽しめる。

「まあ、そういうわけで…………あれオラトリオ?」

カップの中身がひと段落つき、視線を目の前のオラトリオに戻したオラクルは、きょとんとして瞳を瞬かせた。

従兄弟がテーブルに突っ伏している。撃沈状態だ。

いったいなにがあったのかと、きょとんとするオラクルに、オラトリオは突っ伏したまま、テーブルにいじいじと『の』の字を書いた。

「どうせな………どうせ俺は面倒くさいよ………口うるさいし、束縛するし、拘束するし、制限するし、重いったらないさ…………………」

「オラトリオ?」

ひとつ言うと、オラクルが『面倒くさい』とこぼしたのは、ほとんど無意識だった。完全な独白、独り言だ。

ついでに、面倒くさいのは『オラトリオ』ではなく、『夢の中のオラクルが思っていたオラトリオ』だ――なにが違うのかと言われそうだが、オラクルにとっては厳然として、違う。

だからどうしてオラトリオがへこんでいるのか、わからない。

しばらくきょときょとと瞳を瞬かせていたオラクルだったが、とりあえずカップをテーブルに置くと、新しいお茶を注いだ。

残り少なくなったポットを揺らし、いじいじしているオラトリオへと、にっこり笑いかける。

「お替わりは、オラトリオ?」

「ふっふーん…………」

いじけた鼻声を返した相手にも、オラクルは笑顔のままだった。

腰を浮かせると、やさぐれた目つきをしている相手の額に、くちびるを落とす。

「私を相手にするなら、面倒くさいぐらいの愛情があったほうがいい。そうでなければとてもじゃないが、私のことは背負いきれないだろう?」

「……………」

額に落ちたくちびるのささやきに、オラトリオはわずかに瞳を眇めた。

自分こそが、面倒くさいと言っている、オラクルの言葉――

そんなわけあるか、とつぶやいたのはくちびるだけで、オラトリオは突っ伏していたテーブルから顔を上げた。

腕組みして、椅子にふんぞり返って座ると、腰を戻したオラクルを睥睨する。

「だったら遠慮なく、面倒くさくさせてもらうが」

「うん」

いつも通りのオラトリオと考えて、オラクルはマドレーヌを手に取った。ぱっくりと、咥える。美味しい。

「今日はこっちに泊めろ」

「ん?」

偉そうに言うオラトリオに、オラクルはちょこんと首を傾げた。

泊まりたいなら泊まればいいが、問題はそこではなく。

「ちびたちの夕飯は?」

今日は特に泊まる予定でもなく、打ち合わせだけして帰るつもりだったはずだ。泊まるときにはあれこれとしてくる下ごしらえの類を、してきていないはず。

一家の主夫が突然出奔した場合の、主に年少の従兄弟たちのことを案じて訊いたオラクルに、オラトリオはさらに胸を逸らした。

「一度、帰る。んで、夕飯を食って、こっちに戻ってくる」

「ああ、それなら別に………」

「おまえもだ」

「は?」

瞳を見張るオラクルに、オラトリオはにんまりと笑う。

「おまえもいっしょに向こうに帰って、いっしょに飯を食って、いっしょにこっちに戻るんだ」

「……………」

「おまえは放っておくと、満足に飯も食わないからなアイアンシェフ:オラトリオおにーさんの、すぺしあるディナーにご招待してやろう!!」

「それは………」

反論もないし、願ってもないといえば、願ってもない申し出だが。

呵々と大笑するオラトリオを前に、もぐもぐはぐはぐとマドレーヌを咀嚼して飲みこみ、オラクルは軽く天を仰いだ。

「やっぱりおまえって、面倒くさいな………………」