「ぼくはかえりましぇぇえええええんっっ!!」

オラクルにひっしとしがみつき、ちびはあらん限りの力を振り絞って絶叫した。

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ちびの声は大きい。

所は、オラクルのアパートだ。壁の厚さは大したことがない。

ご近所迷惑も甚だしいがそれ以前に、当のちびを抱いたオラクルと、叫ばれたオラトリオに被害が甚大だ。

冗談でも比喩でもなんでもなく、きぃいんと耳鳴りがする。

床に座り込んでいたから大過なかったものの、オラクルはくらくらと目を回して倒れかけた。その前に仁王立ちしたオラトリオも、軽く耳を押さえて眩暈と戦う。

一応、オラトリオはちびの兄だ。日常的に面倒を見ているから、多少の慣れはある。

しかしそれでなんとかなるほど、甘いちびの声ではない。

「あの知らないひとたちがどっかいっちゃうまで、ぼくはかえりましぇんったらかえりましぇえんっ!!オラクルくんのおうちにいますぅうううっ!!」

「ぁああもう、叫ぶな叫ばなくても聞こえるっ!!」

耳を押さえながら、オラトリオも負けじと叫び返す。

くわんくわんと目を回しつつも、オラクルは宥めるように、しがみつくちびの頭を撫でた。

「知らないひとって………」

オラクルが記憶している限り、従兄弟の家には今、『知らないひと』など来ていないはずだ。

いや、むしろ――

「自業自得なんだけどよ、あのひとらの」

「…………つまり、『忘れて』るのか…………………」

さくっと吐き出したオラトリオに、オラクルはため息をついた。駄々を捏ねるだけでなく、ベソを掻きながら懸命にしがみつくちびの頭をよしよしと撫でる。

従兄弟の家に現在、『知らないひと』など来ていない。

きょうだいの両親が、久しぶりに帰って来ているだけだ――そう、久しぶりに。

仕事忙しさに年単位で家を空ける、存在感なきに等しいご両親が。

珍しくも帰省した彼らはしかし、子供たちのことを愛していないわけではない。

しっかり者の長女に正座でこってり絞られつつもうはうはし、微妙に醒めた空気を醸し出す長男や、親がいようがいまいがどうでもいい次男、割と素直にうれしい三男に、これでもかと構いつける。

もちろん、かわいい盛りの末っ子、ちびにも。

が、悲しいかな――肝心のちびのほうは、あまりに不在の期間が長かったために、両親のことをすっぱんと忘れ果てていた。

そもそも、大きい兄がすべての家事を完璧にこなし、生活に不自由はない。その他のきょうだいにしても、なんだかんだとちびと遊んでくれるし、外にも老若男女問わず、たくさん友達がいる。

ちびの世界は、広い。

両親不在であることが、一般的な不自由と繋がらないほどに、この幼児の世界は広大で鷹揚だった。

ために、ちびは実の両親恋しさに駄々を捏ねることもなく、どころかすっぱんと忘れ去った。

おとーさんですよおかーさんですよと言われても、ちびにとっては知らないひと。

知らないひとなのに、なんだかべたべたしてくる。いっしょにお風呂に入ろうとか、寝ようとか!!

基本的に懐っこい子なのだが、なにかしらいろいろと耐えかねたらしい。

ちびは齢わずか三つにして『家出』を敢行し、歩いて五分の距離にあるオラクルのアパートへと転がり込んだのだ。

それをオラトリオが連れ戻しに来た、と。

「ちび………お父さんとお母さんだろう?」

宥めるように頭を撫でつつ言ったオラクルに、ちびはさらにきゅううっとしがみついた。ぐりぐりと、オラクルに擦りつく。

「僕のおとーさんとおかーさんは、オラトリオおにーさんとオラクルくんなんですぅっ!」

「あああ……………」

ちびのことは抱きしめつつも、オラクルはがっくり項垂れた。両親不在の弊害が、こんなところにも。

「ごはんつくって、おそーじおせんたくして、おかーさんみたいですけど、オラトリオおにーさんはおとーさんで、オラクルくんはおかーさんなんです。ちゃんとカルマくんに教わりましたっ!」

「なにを教えてるのかな、あの保父さんはっ!」

――まあ主に、否定しようもない家庭の現状というものだ。

子供相手に言うべきでないことも存在するが、隠しておくほうがまずいこともある。

上手い具合にそれを見極めて、オブラートに包みつつも包み隠さず子供に明らかにするのが、有能かつ優秀なカルマという保父さんだった。

なによりも、オラトリオとオラクルの仲は、いわば町内公認だ――末っ子ひとりが知らないというほうが、いっそどうかしている。

オラトリオといえば、連れ戻しには来たものの、親に合わせろと無理強いしたいわけではなかった。ちびの反発心もわかるし、戸惑う気持ちも十分に理解できる。

とはいえ、このままにするわけにはいかないのも確かだ。

「まあ、おまえの言い分もわかるけどよ。じゃあ、いっしょにお風呂だの、寝るだのいうのは止めさせるから、せめても夕食をいっしょに食うくらい」

幼子の妥協点を探ろうと放たれた言葉に、ちびの体が膨らんだ――一部比喩で、一部現実に。

「いーやーでーすぅうっ!!」

鼓膜がきぃいんと鳴って、オラクルは軽く目を回した。

ご家庭内でいろいろあった結果、どうやら現在のちびは完全にへそを曲げている状態らしい。

いつもなら簡単に頷いてできる譲歩が、さっぱりできなくなっている。

「あのなあ、ちび!」

「僕はきょぉは、オラクルくんちにおとまりですっオラクルくんとおふろはいって、だっこだっこでいっしょにねるんですぅっ!!」

「やれやれ………」

ため息をついたオラクルは、苦笑しながらちびの背中をぽんぽんと叩く。

きゅううっとしがみついて喚く幼子は、どうも一度、頭を冷やす時間が必要なようだ。

おそらく一晩経てば、多少の落ち着きを取り戻すはずだ。その間にオラトリオが両親に、ある程度の節度を言い聞かせておけばいい。いや、事情を知ればおそらく、ラヴェンダーから正座で説教が再び下るだろう。

双方ともに落ち着けば、明日にはちゃんと家族水入らずで過ごせる。今日一日で両親がまた、仕事に出てしまうわけでもない。

ここは、焦らないことが肝心――

『当事者』ではない分、冷静にそう見切ったオラクルは、ぐすぐす洟を啜る幼子の頭にぽへんと頬を乗せた。

「わかった。いいよ、ちび。今日はうちにお泊まりして」

「おらく」

「そーぉーはーいーくーかーぁあ…………」

表情をぱっと喜色に輝かせたちびがなにか言うより先に、ひどく不穏な声が落ちてきた。

ぎょっとして顔を上げたオラクルは、ちびを抱いたままわずかに後退さる。

暗雲背負った大魔王さまが、ご降臨なさっていた。

「オラトリオ……」

「オラクルと風呂入っていっしょの布団で、抱っこ抱っこでねんねだぁんなこたぁ、一千万年早いんだよ、ちびっ!!」

「意味不明だぞ、オラトリオ!」

齢わずか三歳の弟に本気で凄む成人の兄に、オラクルは呆れて叫んだ。

三歳だ。相手は。

一千万年早いというより、普通に考えると、今だから赦されるのではないか。

しかしオラトリオは、聞く耳を持たなかった。きっぱり頭が飛んでいる。

「ちびっ俺とオラクルを取り合う気か?!ヤんのか、おまえさん!」

「おーらーとーりーおぉおおっ相手は三歳児だぞなにを本気になっているんだ、恥ずかしいっ!」

ちびをぎゅうっと抱いて、オラトリオから半ば体を背け、守りの態勢に入ってオラクルは叫ぶ。

腰を浮かせて、いつでも逃げられるようにもしての、抗戦だ。

明後日に頭を飛ばしてしまったオラトリオといえば、めげもしなければ怯みもしない。残念至極な感じで、むしろふんぞり返った。

「恥ずかしかろうがなんだろうが、知ったことか俺はこの点でだきゃぁ、誰にも譲らねえぞ!」

「どうしてそう、偉そうなんだ!」

オラクルは跳ねるように立ち上がると、ちびを抱いたままオラトリオの前に行った。片手を伸ばすと、オラトリオの鼻をぎゅむむっとつまんで捻り上げる。

「ひょんなことしても…………っ」

「おーらーとーりーおーぉおっ………っ」

「はふぅん」

きりきり睨み合う恋人たちの間から、微妙に過ぎるため息が上がった。

オラクルに抱かれたちびだ。

さっきまではベソ掻きの、非常に幼児らしい態度だったちびだが、今はなにかひどく大人臭いと言うか、似非臭い詐欺師の雰囲気を漂わせていた。

思わず黙って見つめたオラトリオとオラクルに、ちびは抱っこされたまま、ひょいと肩を竦めてみせる。

「オラトリオおにーさんは、ほんとにオラクルくんが好きですねえ」

「ちび…………」

「おうよ。好きだとも!」

がっくりと項垂れたオラクルに対して、腐された兄、オラトリオのほうは自信満々に胸を張った。

「だからおまえさんが、オラクルと風呂だの抱っこ抱っこでねんねだの、ぜってぇに認めらんねえの。いくら三歳児でもだというわけで、ちび」

「ぼくはかえりましぇええんっ!!」

――油断していたところで、音波攻撃が来た。

思わずふらついたオラクルの腰を、オラトリオが咄嗟に抱いて支える。

図らずも『おとーさん』と『おかーさん』にサンドされる形になったちびだが、構わない。『おかーさん』にしがみついて、『おとーさん』にべえっと舌を出した。

「ぼくはきょぉは、オラクルくんちに泊まるんですぅっオラクルくんちの子になるんですぅっ!!」

「ちび………」

くわんくわんくらんくらんと世界を揺るがせつつ、オラクルは諦めのため息をついてちびの背中をあやすように叩く。

オラトリオのほうは、オラクルの腰を抱く腕に力を篭めた。

感触にオラクルがはっとして顔を上げるのと、同時。

「だったら今日は、俺も帰らねえっっ!!」

――ぐらんぐらんぐわんぐわんと世界を揺るがせつつ、オラクルは考えていた。

あとで、ちびとオラトリオとを引き連れて、隣近所にお詫び行脚に行かなければならない。さもないと大家さんから呼び出しのうえ、正座でお説教を食らう。

それはまんま、男夫婦に子供一人な光景だったが、オラクルがそのことに気がつくことはなかった。