お子さまというものは、時として非常に難しいことを訊いてくれる。

Life Time with...

「………難しい、というのも、……おかしいかな……」

「ぁん?」

キャンバスに向かいながらぽつりとこぼしたオラクルに、傍らでパソコンに向かっていたオラトリオが耳ざとく反応する。

互いに、仕事の最中だ。そして締め切りが微妙に微妙な感じで、迫っている。落としたところで拾ってもらえる人気作家――というところまでは、まだ行っていない。

締め切りまでに仕上げるのは、当然。

落としたが最後、――

考えたくない未来なので懸命にならなければいけない現状なのに、オラトリオはほんの些細なつぶやきも拾う。

落とすわけにはいかないから、どうしても家族のために働かざるを得なくなるオラトリオの家ではなく、オラクルのアパートに缶詰状態になっているというのに。

つぶやきがなによりも、オラクルのものだからだ。

もうひとつ言えば、オラクルの考えごともいい加減、仕事から逸脱している。

「なんだ計算でもできないのか俺のシメがあと三時間後で、おまえの……」

「おまえは私をなんだと思っているんだ、オラトリオ」

とりあえず筆を置き、オラクルはオラトリオを睨んだ。

しかしこういったやり取りは、日常的なことだ。それこそほんの小さな子供の頃、まだ二人が、なんでもない従兄弟同士でしかなかった頃からの――

「『オラクル』だと思っているがな………オラクル?」

「ん………」

睨んだのは、わずかに一瞬。

オラトリオが即座に減らず口を叩いている間に、オラクルは俯き、考えこんでしまっていた。

呼ばれても、返るのは生返事。

それもそれでよくあることなので、オラトリオがさらに応えを促すことはない。

イラストレータという肩書き以上に『芸術家』であるオラクルの思考は、あちこちに行方不明になりやすい。

一瞬前と一瞬後が繋がらずに、常人から見ればなにがあってそこに飛んだかと思うような飛躍を遂げる。

気が向けばまた、会話は再開される。

わかっているから、オラトリオは再び、パソコンの液晶へと目を戻した。ざっと進捗を確認し、ため息をかみ殺す。

夏休みの宿題は、入って一週間で終わっていたタイプだ。

しかしこと仕事――文章に関する限り、余裕を持って仕上げられたことがない。たまに、自分の職業適性について悩みもする。

家族の生活を支える主夫である以外に、特に就業に関して問題はないオラトリオだ。会社員や営業マン、店舗接客スタッフなど、一通りは器用にこなせる――のは、学生時代のバイト経験で証明済みだ。

ただその時代の経験で証明されたのは、自分は文章を書くことで生きていきたいという、どうしようもない渇望もだ。

従兄弟が迷いも躊躇いもなくイラストレータになると決めたのに、半ば強引に乗りかかって、ライターの道を選んだ。

おまえひとりで、マネジメントができるわけないとかなんとか、理屈はつけたが――

「理屈じゃないよな」

「ぁん?」

オラクルがこぼした言葉に、オラトリオはまたも素早く反応した。

相変わらず考えこんでいる風情のオラクルだが、今度は先とは違う。きちんと、体がオラトリオのほうを向いている。

つまり今度は独り言ではなく、問いかけ。会話の再開か、新規の会話の開始か――

「なにが理屈じゃねえんだ?」

オラトリオには説明しなくてもなんでも筒抜けだと思いこんでいるオラクルは、常に言葉足らずだ。

そうでなくとも思考が飛躍する癖があるというのに、さらに説明不足となると、まずはなにを考えたかを訊くことから始めなくてはならない。

液晶から顔を上げたオラトリオを、オラクルはひどくまじめに見た。

「いつから好きだったのかなんて訊かれても――答えようがないだろうだって、」

「待て。お待ちください、オラクルさん」

もう一度言うが、オラクルは言葉足らずだ。誰に対してもそうだが、オラトリオに対しては、ことにひどくなる。

思考が筒抜けだと信じさせるようなことをしたのはオラトリオだが、もちろんそんなことはない。

きちんと説明してもらわなければ、理解しきれない。たとえどんなに愛があっても。

「誰にだ誰に、誰のことをいつから好きだったのかって、訊かれた?」

「えだから、オラトリオのことを………」

言いかけて、さすがにオラクルも黙った。

わずかに上目になって記憶を漁り、こくんと頷くとオラトリオに顔を戻す。

「この間、おまえのとこに夕飯を食べに行っただろうでも早く行ったから、多少暇だったじゃないか。そのときに少し、シグナルと話をして……」

「で、おまえはいつから俺のことが好きなんだと、訊かれたわけか?」

「そう」

ようやく繋がった話に、オラクルはこくんと頷く。

オラトリオのほうは目を眇めると、パソコンを置いたテーブルに頬杖をついた。

オラトリオの三人いる弟のうち、中の弟は、時として幼稚園児である下の弟よりもさらに無邪気で幼い。

幼いと言おうか、頑是ないと言おうか。

どちらにしても、オラクルとはまた別の意味で、思考が飛躍している。

その飛躍した思考同士でどういう話をしたか、聞いたところで理解はできないとしても――

「で?」

「答えられなかったんだ。すぐに。そんなの、考えたことがなかったから」

「………へえ?」

オラトリオの中の弟を『幼い』と表現するのは、こういうときの対応だ。なぜなぜなぁにが解消されないと、それこそ幼児なみのしつこさで食い下がってくる。

さらなるなぜなぜなぁにの連打攻撃に、最後にはプロレス技をかけてしまう――オラトリオの場合だ。

おにーさんいそがしーのよ、シグナルくん、ちょこーっと自分の頭で考える癖をつけようかあとかなんとか叫びつつ、体の下には技を極められてもがく中の弟がいる。

オラクルだと、どう連打されても力技には訴えないだろう。従兄弟であって兄弟ではないからという関係性以前の問題で、本人の性格だ。

「ちょっと考えてみるって答えて――考えてたんだけど」

「思い出せねえ?」

「難しいこと訊かれたなあって」

「ああ………」

どうやら新規の会話ではなく、再開のほうだったようだ。

この間、とオラクルは言ったが、もっとも直近でオラトリオのところに夕飯を食べに来たのは、三日前のことだ。

そろそろ締め切りだぞと、スケジュールの確認がてら訪れたオラクルに、夕飯を食べていけよと。

その三日前――から、今日まで。

地道に、考えていた、と――

「……………まあ、ありだよな…………」

「オラトリオ?」

「いんや……………」

残念な方向でオラクルへの理解に溢れる過保護者は、たどり着いた結論をいつものこととしてあっさり割り切った。

性悪さを見せて笑うと、訝る瞳を向けるオラクルに首を傾げてみせる。

「俺のことを好きだって、そう思ったときだろそんな難しいか?」

からかうように訊いたオラトリオに、オラクルは生真面目な顔でこくんと頷いた。

「難しいよ。嫌いだと思っていた時期がないんだから」

「あー、いや………」

――おそらくシグナルが訊きたかったことと、オラクルの思考の筋道には、多少のずれがある。

シグナルが訊きたかったのは、『好き』は『好き』でも、いわば『Like』から『Love』となった時期についてだ。

それまで、単なる従兄弟、単なる親友、単なる相方――

そういったものだったのが、いつから『生涯の伴侶』とまで思うようになったのか。

つまり、恋に落ちた時期だ。

どう説明したものかと悩むオラトリオに、しかしオラクルはまじめな顔まま、首を横に振った。

「おまえは初めから、私にとって全部だった。それが当然だと思っていたんだ。だから、そういう思考が一般的ではないと気がついて悩んだ時期なら答えられるけれど、いつから好きなのかと訊かれても、『初めから』としか答えようがない」

「………………あー………」

今度は別の意味で、オラトリオは唸った。

構うことなく、オラクルはわずかに瞳を伏せる。

「理屈じゃないんだ。………エモーションの受け売りだけどね。そういうものは理屈ではありませんから、お心の向くままにお生きなさいって言われて」

「待て、お待ちくださいオラクルさん」

本日二度目となるストップをかけて、オラトリオはどこか恐れを含んだ瞳でオラクルを見つめた。

「それ、おまえがいくつの――ああいや、お嬢がいくつのときの話だ」

「え?」

問いに、オラクルはしぱしぱと瞳を瞬かせた。

質問の答えを探るというより、問われたことの意味を理解するまでの時間をかけてから、オラクルは不思議そうに吐き出した。

「三つ。三歳」

「早熟にも程があるっ!」

堪え切れず、オラトリオは叫んだ。

カシオペア家のきょうだいは、弟妹狂の冠を被る兄も含めて皆、それぞれがそれぞれに独特の発展を遂げているが、それにしても――

もうひとつ言うなら、エモーションが三歳だったときのオラクルの年齢だ――その年になって、幼児に諭されて納得して、どうするのか。

さすがに今回はオラクルだから――の、一言で済ませていいような気が、しない。

しかし三歳児に諭されて納得してしまったオラトリオの従兄弟にして恋人は、当然入ったツッコミに理解不能という反応を返しただけだった。

「私はおまえに会ったときから、おまえがすべてだし――嫌いになったこともない。ちょっと苦しい時期はあったけど、そのときも結局、おまえのことが好きだから苦しいだけだったし………」

「っかった、わかったって!」

熱烈だ。

あまりに熱烈な告白を重ねられて、オラトリオは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。

天然もここまで来るともう、犯罪だ。タイホしちゃうぞ☆とかなんとか、言いたくなる。

とはいえ現状、オラトリオもオラクルもかなり必死な仕事の途中――

「っぁあああああっ!!」

「どうした?!」

突如悲鳴を上げたオラトリオに、オラクルはぎょっと瞳を見張る。

がばりと起き上がったオラトリオは、腰を浮かせたオラクルに、珍しくも涙目を向けた。

へらりと力なく、くちびるが緩む。

「………データ、きえた………」

「でーた、きえた………」

しばしその意味が理解できず――というより理解したい気がさっぱりしなかったため、オラクルはつぶやいたまま、空白の表情を晒した。

オラトリオは、テーブルに突っ伏したのだ。パソコンを広げて、ほとんどいっぱいになっているテーブルに。

避けても収まり切れない体は、パソコンのボタンにも――

締め切りまで、あと三時間弱。

「オラトリオ、バックアップは」

「ふ、ふへへへへh………………ふっへへへへへへh」

「私にはいつも、ああだこうだと言うくせに………っ」

「ふへーっへへへへへへh!」

怪音で笑うオラトリオに、オラクルは諦めて椅子に腰を戻した。

自分は絵描きだ。文章はオラトリオがなんとかするしかない。

冷たく聞こえても、どうしても補填できない才能がある。

せめてここでオラクルができることと言えば、自分まで落とすようなことがないように、絵を仕上げること――ペアで仕事をしている以上、オラトリオが上げられなければ、せっかく描いた絵もお蔵入りだが。

「畜生、今こそ見ろ夏休みの宿題を最速、夏休み開始前に仕上げたこともある、俺のこの腕っぷし!」

「………」

涙目のまま液晶に向き直ったオラトリオは、今度こそ集中し、凄まじい速さでキィボードを叩き始めた。

ちらりと眺めてから、オラクルも絵筆を取る。

「………それでも、幻滅しないんだよなあ………」

好きは、好きのまま。

これくらいでは、とても嫌いになどなれない。

小さいころから結局、そのくり返しだった。くり返してくり返して、結局好きだとしか思わなかった。

いつからなどと訊かれても、答えようがない――意識することもないときから、好きだったのだから。

強いて言うなら、『一目惚れ』。

「………そうか。そうだな…………」

ぺたりぺたりとキャンバスに絵具を乗せながら、ようやく下りた胸の閊えに、オラクルのくちびるは笑みを刷いていた。