「オラトリオってさー、酒癖相変わらずなんだな。よくオラクルに捨てられないよなー」

「あ?」

玄関で忙しく靴を履きながらつぶやいた三男に、オラトリオは眉をひそめた。

Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-03-

朝からこっち、姉にもそんなことを言われた。忙しさに紛れて追求を忘れていたが、これは聞き捨てならない。

オラクルに捨てられる、など。

「なぁにかな、シグナル…」

「邪魔だ、オラトリオ」

弟を捕まえて捻りあげようとしたところで、オラトリオは逆に姉に捻りあげられた。自分より遥かに小柄なからだにいとも容易く押しのけられ、オラトリオはげんなりとため息をつく。

「シグナル、忘れ物はなかろうなでは行くぞ。私の弟でありながら遅刻するような愚を犯すなら」

「わあわあ、大丈夫だってばまだまだ全然余裕!」

「きりきり行くぞ、さあ行くぞ、愚弟」

「耳掴まないでーーーーっ!!」

「いってらっさーい」

騒がしく出ていくラヴェンダーとシグナルに、すっかり存在を忘れられながらもお見送りの義務を果たし、オラトリオは伸びをした。

あとは、ちびのお支度を手伝って、保育園に送って。

帰ってきたら、溜まっている家事を片付けなければいけない。

ここ数日、締切り前で余裕がなかったため、いろいろなところを手抜きで済ませた。

幸いにして、今日は天気もいい。部屋中換気して、洗濯物をまとめてして。

とりあえず洗面所に向かい、洗濯物を仕掛ける。

ちびはポケットに食べかけのチョコレートや飴玉を入れっぱなしにして忘れるし、元気いっぱい暴れてくるシグナルの服はどれもこれも泥染みがひどい。

パルスは大学がないと何日でも同じスウェットを着たまま洗濯に出さないから、あとで部屋に強襲をかけて裸に剥かなければいけないだろう。

ラヴェンダーの服は素材が繊細だから別分けにして洗わないといけないのだが、本人が無頓着に洗濯籠に放りこんでしまうので、いちいち確認して選別しなければならない。

「…」

シグナルのシャツの泥染みを手洗いで落としながら、オラトリオは不機嫌に眉をひそめた。

――よくオラクルに捨てられないよな。

軽く投げられた言葉が、ちくちくとこころを刺して不快だ。

オラクルと自分の関係をあの弟に理解できるはずもないとは思うが、傍から見れば捨てられないのが不思議なほどに自分の酒癖が悪いとしたら、それは由々しき問題だ。

なにしろ、記憶がない。

どういうわけか、理由は見当がついているが、オラクルと飲んだときの自分は酔っ払うのが早い。

あっという間に泥酔して、気がつくと布団の中で朝を迎えている。いつ布団に入ったのか、どうやって布団までたどり着いたのか、さっぱり記憶がない。

ただ、時折、おまえが騒いだせいで私が近所のひとに怒られた、とオラクルに当たられることがあるから、泥酔した自分は、ちょっぴりやんちゃをしているかもしれない、とは思う。

しかし、とにかく記憶がない。

朝になってどうのこうのと言われても、覚えていないものは覚えていないから、懲りることもない。

しかもアルコールの残らない体質のせいで、目覚めはすっきり爽やかで晴れ晴れしているから、なおのこと。

いっしょに飲んだ従兄弟のほうはそこまでアルコールが抜けないらしく、飲んだ次の日はわりと疲れ気味にぼんやりしている。だから今朝も、朝食を食べさせるためにうちに連れてきたのだ。

「…んなこたねえと思うが」

二十歳で酒が解禁になり、おおっぴらに飲めるようになってからこっち、あの従兄弟とは何度も飲んでいる。

捨てられる、と言うなら、とっくに捨てられていていいはずだし、そもそも付き合うのが嫌なら嫌だと言う。

シグナルは勘違いをしているが、彼らの従兄弟は決して、人が好いだけのぼんやりさんではない。

オラトリオがびっくりするくらい、嫌なことは嫌だとはっきり言うし、自分の意見を押し通すことにかけては、あの過保護キングのコードも音を上げるくらいの強情っぷりなのだ。

そのオラクルが、飲もうと誘うたびに断らないのだから、驚くほどの迷惑をかけているわけではない。

はず。

「だよな。大丈夫だいじょうぶ」

言葉だけは力強く断言して、オラトリオは洗面所を出た。

そろそろちびをお着替えさせて、保育園に連れて行く時間だ。

「ちーびー」

オモチャが置いてあるリビングにちびを探して行くと、ちびはすでにきっちり身支度を整えて、オラクルと積み木遊びに興じていた。

「お、なんだ準備万端だな?」

「あいっオラクルくんがお手伝いしてくれましたー!」

すごいすごい、と頭を撫でてやると、ちびはふんぞり返った。オラトリオは笑って、オラクルを見下ろす。

「…っ」

目に入ったものを信じたくなくて、思考回路が止まった。

オラトリオの不自然な沈黙に気がつかないオラクルは、口を開いてなにか言おうとし、言葉より先にあくびをこぼす。

「…やっぱねむ…」

目をこするオラクルは、いつもと変わった様子もない。

凝固するオラトリオを、いつもどおりのやわらかな瞳で見上げた。

「あのさ、オラトリオ。ちびは帰りがてら、私が保育園に連れてくよ。だからおまえは、家のこと片づけてなよ。家事、溜まってるんだろ?」

「…あー、ああ」

オラトリオの思考が、錆びた音を立てて鈍く回転し始める。

オラクルは不思議そうに首を傾げた。

「オラトリオ聞いてるか?」

「あー、聞いてる。聞いてる…つか、おまえさ。眠いなら、俺のベッドで寝ていけよ。ちびを送ってくるくらい、なんでもねえし。そうでなくても締切り明けなんだ。疲れてるだろ?」

「んー」

髪を梳き、頬を撫でると、オラクルは目を細めた。だが、ふいにオラトリオの手を振り切り、笑う。

「だめだ。それじゃおまえの寝る場所がなくなる。それに、おまえが一所懸命家事やってるとこで私が寝てるんじゃ、なんだか落ち着かないし」

「そんなの気にすんなって。うちのパルスくんなんて、ぐーすかぴーと爆睡さんだぜ?」

逃げられても追いかけて、再び捕えたオラクルの髪を掻き混ぜる。細くやわらかな髪は、指に気持ちいい。

オラクルが笑って首を振った。

「だめだって。それに、寝たら帰れなくなる」

「別にいいだろ、そんなの。着替えだって置いてあるんだし。どうせだからしばらく泊まりこんだって、俺は全然構わねえぜちびだって、いいだろ?」

「あーい。オラクルくんいるのうれしいでーす!」

じゃれ合う兄たちを生ぬるい目で見守っていたちびが、元気よくオラクルの膝に乗る。オラクルは笑ってちびを抱きしめた。オラトリオの暁色の瞳にちりりと焔が走る。

無邪気な笑顔のオラクルが、そんなオラトリオを見上げた。

「でもだめだ。今日は帰る」

「…」

オラトリオはわずかに天を仰ぐ。

抱きしめられたちびが、不満そうな声を上げた。

「かえっちゃうですかー、オラクルくん。あそんでくれないですかー」

「今日はね。また今度来るから、そしたら遊ぼう。とりあえず今日は、私が保育園まで送るから」

「あーい!」

聞き分けのいい末っ子は、良い子の返事をしてオラクルに抱きついた。

「オラクルくんとほいくえんー♪」

「このちび…」

オラトリオは咽喉の奥で小さく唸る。

弟がオラクルに懐いているのは悪いことではない。

悪くはないが、だが、苛立つ。

オラクルに無条件に愛されて、かわいがられて、そんなふうにべったり張りつくなど。

これは俺のだぞ。

主張したいが、するべき寄る辺もない。

従兄弟同士であるというほかに自分たちを表す言葉はないし、それは弟とオラクルにも当て嵌まって。

「ほんと、遠慮なんかいらねえんだぞ」

ため息とともにつぶやくと、オラクルは困ったように目尻を下げた。だが、断固として主張は変えない。

「遠慮なんかしない。今度、オラトリオの家事が溜まってないときに、またな」

ほら見ろシグナル。

オラトリオはこころの中でぼやく。

この強情っぷりったらどうだ。押しても引いても言い分を変えやしねえ。

「そろそろ行こうか、ちび。忘れ物ないか?」

「あい全部いれましたです!」

ちびが通園鞄を引きずって来て、中身をぶちまける。

いっしょに中身を仕舞うオラクルを見下ろして再度確認し、オラトリオは歪む口を隠すために煙草を咥えた。

「それではオラトリオおにーさん、いってくるです!」

「おう、行ってこい。オラクルもな、車に気をつけろよ。なんか見つけても飛び出すな。ぼーっとすんな」

「はいはい。私は子供か」

おざなりに返事をしながら、オラクルは笑っている。

ちびと手を繋ぎ、空いたほうの手を愛らしく振った。

同じ顔だ同じ顔だと言われるが、従兄弟がやるとどういうわけか、ほのぼのとかわいらしい。

適当に手を振り返し、見送る背が十分小さくなったところで、オラトリオはセットし忘れた髪を乱暴に掻き混ぜた。咥えた煙草を噛み潰す。

「なぁあんだ、あれはぁああ…」

オラクルの、襟元。小さく、覗いた。――あんなもの、昨日、あっただろうか?

「まさか、酒癖悪ぃって、セクハラしてるとかじゃねえよなあ…?」

そうだったらいい。

最悪には違いないが、まだそのほうがいい。

自分以外のだれかが、あの肌に触れたなどと言われるよりは、ずっと。