「お久しぶりです、オラトリオ。締切りお疲れさまです」

麗しの保父さんが、からかうように上目使いで笑う。そうすると保父にあるまじき色気が振り撒かれ、ここが保育園だということを忘れそうになる。

Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-06-

オラトリオは人懐っこい笑みを浮かべ、手を上げて髪を掻き混ぜた。

「まったく。毎回毎回、どうにかなんないのかと自分でも思うぜ。来られなかった間、変わったことはないか?」

「そうですね…っ?!」

上げた手が素早く動き、すらりと立つカルマの襟を広げた。隠された肌が瞬間覗き、オラトリオは納得して頷いた。

「相変わらずだな」

「っの、変態!」

雷光のごとく振り抜かれる手刀をあっさり避け、オラトリオは後ろに飛んで距離を取る。

「怒るな怒るな。これでも心配してんのよ」

「余計なお世話です!」

いきり立って叫び、襟元を押さえて、カルマもオラトリオとの間の距離を計った。攻撃しようというより、これ以上悪さをされないための距離だ。

「大体あなた、ひとのことを心配していられる立場ですか」

「だから心配するんだろ」

言い募ろうとしたカルマに声だけは軽く言い、オラトリオは笑って肩を竦めた。

カルマが言葉を呑みこみ、ため息に変換して吐き出す。

「私とあなたでは、全然、違います」

「そうだな」

「あなたには望みがある。臆病なだけでしょう」

オラトリオが笑う。言葉を吐き出そうと口を開き。

「オラトリオおにーさーんっお帰りのじゅんびおーけーでーす!」

「おう」

元気いっぱい走ってきたちびが抱きついてくるのを、オラトリオは軽く受け止めた。

「忘れ物はねえかー?」

「あいっ」

勇ましく手を上げるちびを肩に乗せ、オラトリオはカルマに笑いかけた。

「で、話は戻るけどよ。ちびに変わったことはなかったか?」

「…そうですね」

人懐こい笑みに、カルマは小さくため息をつく。

職場でなにをしているのかと思う。

昔馴染みという気安さと、秘密を握られているせいで、どうにも頭の切り替えがうまくいかない。

「締切りで、しばらく遊んであげていなかったのでしょう寂しかったようですよ。今朝、オラクルに駄々をこねてました。できるだけ、遊んであげてください」

「おやおや」

オラトリオは肩の上のちびを抱え上げると、頭の上で振り回した。ちびが楽しい悲鳴を上げる。

微笑ましく見つめていたカルマだが、ふと思いついてオラトリオに近づいた。

「それから」

「ん?」

保父さんというよりは夜の蝶という顔で、カルマはオラトリオの首をつついた。

「オラクル、悪い虫がついているようですねえ」

滴るように意地悪な声音に、オラトリオは思いきり顔を歪めた。

***

「それでー、おかーさんの顔、よくわからないので、オラトリオおにーさんの顔をかいたです」

「う~ん。やっぱ写真くらい飾っとかないとだめか…。でも最近のなんてねえし…」

帰る道々、オラトリオの頭の上に乗せられたちびは、保育園であった出来事をこれでもかと喋った。

ここしばらくパルスに相手をさせていたのだが、あの弟はお世辞にも子守りがうまいとは言えない。

シグナルのほうがまだ子供の扱いはうまいのだが、部活が忙しくてあちらも暇がない。

確かにこりゃ溜まってるわ、とおとなしく聞いていたオラトリオだが、さすがにこの話題には顔をしかめた。

お母さんの絵、という画題で、オラトリオを描いたと報告するちびの声に、寂しさは滲んでいない。

あからさまに男の絵を描けば周りの園児にいじめられもするはずだが、おませっこでポジティブシンキングな彼は、それを大した問題だと思っていないのだろう。

姉がいて、兄がいて、たくさんの親戚がいて、大きい友達もいる。

世界が保育園で閉じていないから、余裕を持ってそんな話ができる。

だが、オラトリオとしてはこころが痛む。

自分はそれほど割り切れなかった記憶があるから、弟が不憫にも思う。

仕事熱心な両親を恨むような年齢も過ぎたけれど、やはりこういうときは少し、恨みがましい。

「それでですね、おとーさんの顔もよくわからないのです」

「だよなあ」

然もありなん、と頷くオラトリオの頭の上で、ちびはあくまで前向きだ。

「だから、ラヴェンダーおねーさんをかこうとおもったですよ」

「…それ、配役逆にしねえ?」

思わずツッコむ。

家庭的な役割を考えると、ちびの思考回路は至極まっとうだが、事情を知らない者が見ればクエスチョンマークの大安売りだ。

だが、ちびはマイウェイを突っ走る。

「でもですね、おとーさんとおかーさんというものは、夫婦なんだって。らぶらぶあっちっちーなんだから、きょうだいをかいちゃだめだってフラッグくんがいうんですよ。だから、オラトリオおにーさんとらぶらぶあっちっちーの夫婦なのはオラクルくんだから、おとーさんの顔はオラクルくんをかきました」

「ごふっ」

幼児の無遠慮な言葉の暴力に、オラトリオはよろめいた。

頭の上で不安定に揺れたちびは、事情もわからずに楽しい悲鳴を上げる。

「ちび、あのな…」

「そしたら、カルマくんがね。ふたりはまだ結婚してないから、夫婦じゃありませんよって。じゃあなんですかってきいたら、オラトリオおにーさんはまだまだ悪い虫のいきから出ていませんって」

「…いたいけな子供になに教えてんだ、あんにゃろう…」

唸るオラトリオに構わず、ちびは無邪気に言葉を重ねていく。

「でもね、朝、オラクルくん、ちがうっていってたんです。オラトリオおにーさんじゃないって」

「…あ?」

話の飛び先が見えず、オラトリオは胡乱な声を上げる。

頭の上で髪の毛を掻き混ぜるちびを抱き上げて胸の前に持ってくると、よく伸びる頬をむにょんと引っ張った。

「なにが俺じゃないって?」

「悪い虫です。カルマくんが、オラクルくんに、虫がついてますよっていったら、オラクルくん、オラトリオおにーさんじゃないって」

幼児なりに言葉を裂いて話してくれているのだが、やはりさっぱりだ。

だが、今日のオラトリオには思い当たる節が大量にあった。帰り際のカルマの示唆もある。

虫というのは十中八九、オラクルの首元に刻まれた。

オラクルは気がついていなかったそれをカルマが指摘した。

答えて、オラクルが。

「俺じゃない?」

「あい。それでね、カルマくんが、オラクルくんとオラトリオおにーさんだったら、オラトリオおにーさんのほうがおとーさんなんですよっていうんです。でも…」

「俺じゃないだと?」

すでに話が飛んでいるちびに関わらず、オラトリオは呻くようにつぶやいた。

幼児の話だとはいえ、聞き捨てならない。

悪鬼のごとき形相になった兄に気がついたちびが、きょとんとし、それからひどく大人びた顔で肩を竦めた。

「ちび、悪いなちょっと、信彦んとこで遊んでてもらえるか。おにーさん、急用思い出しちゃった☆」

「でしょうねえ」

声だけは妙にハイトーンで言う兄は、三歳児にもわかる暗雲を背負っている。

これが次兄や三兄だったら、顔を引きつらせて逃げに入っているところだが、末っ子は姉並みに肝が据わっていた。

はは~んと薄笑いを浮かべ、大魔王と化した兄の胸をぽんぽんと叩いた。

「オラトリオおにーさんは、ほんっとーにオラクルくんのことが好きですねえ。はやく結婚したらいーのに」