なにをする気も起きなかった。力無くベッドに横たわって、じっとすること何時間だろう。
正直。
飽きた。
Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-09-
「…」
オラクルはため息をこぼして立ち上がると、すっかり暗くなった部屋の電気を点けた。
飽きっぽいわけではないのだが、絶望は長続きしない。
オラクルの精神は強靭に出来ていて、いつまでもぐじぐじとしていることを良しとしないのだ。
「とはいえ…」
さすがに、料理をしてきちんとした食事を摂ろうと思うところまでは、回復していない。冷凍ピザをレンジで温めて、もそもそと食べた。
一昨日まで、オラクルもオラトリオもきちんとした食事を作る余裕など全然なくて、冷凍食品をフル活用していた。おいしくないだの飽きるだの言い合いながら食べていたのだが、今日は殊更にまずい。
とはいえ味の大半が精神状態に由来していることはわかっているから、残すこともなく口に押しこんだ。
これこそ自分が強靭であるとわかる瞬間だ。
従兄弟のほうが繊細であることを、オラクルは知っている。
強気で頼りがいのある「おにーさん」キャラで通している従兄弟だが、あれでなかなか線が細い。細かいことを気にするし、引きずるし。
傷つきやすくて脆い壊れものだから、取り扱いには細心の注意が必要。
一言で表すなら、
「めんどくさい」
つぶやいた声が、バスルームに溶けて消えた。
食事をしている間に、お湯を溜めておいたのだ。入浴は手軽な気分転換方法だから、こういうふうにへこんだ日などは、欠かせない。
たっぷりの湯を張った狭いバスルームは、換気が悪いせいもあって、うだるような暑さだった。冬はいいが、夏は地獄だと、従兄弟などはぼやく。
オラクルは気にいっている。暑さでぼやける頭は、過ぎると吐き気を催すが、大体において気持ちいい。
ゆらゆらと揺れる湯に頭をくるくると回しながら、オラクルは深いため息をついた。
頼ってくれればいいのに、と思う。
世事に疎い自覚はあるけれど、それ以外の部分では結構骨太なのだ。オラトリオひとりくらい、支えて立てる自信がある。どうしてもひとりで立ちたいというなら、止めないけれど。
けれど、傷ついたときに、ひとりで泣かれるのは嫌だ。私がいるだろうと叫びたくなる。なんのためにおまえは私を囲っているんだと、詰りたくなる。
傍にいることを、忘れないで欲しい。
どうして自分がおとなしく囲われているのか、その理由くらい考えてもいいはずだ。
コードの元からは飛び出した自分が、オラトリオの傍には居続ける理由を。
オラトリオはオラクルのことを鈍いだのなんだのと文句を垂れるが、オラトリオだって相当鈍いと思う。
コードなどは、優柔不断なのだと言うが。
考えて、理由に気づいて、できることなら。
「…欲深になって良くないな、人間というものは」
思考ゲームをその一言で断ち切り、食事をしたときよりすっきりとした心持でお湯から上がった。
からだを拭いてパジャマを羽織ると、頭から水滴を垂らしながら、冷蔵庫へ向かう。
オラトリオがいれば、バスタオルを持ってすっ飛んでくるだろう。風邪を引くとかなんとか、小言を垂れながら。
だが、今ここにはいないので、どうでもよい思考だ。
「うーん」
冷蔵庫の中を確認して、唸り声が漏れた。
いろいろあって好きになれない酒だが、夜、お風呂でからだが温まると、どうしてかビールが飲みたくなる。好きになれない以上、買い置きもしてないから、ないわけだが。
買いに行こうかな、と少し考えた。近くのコンビニまで、五分。大した距離ではない。
時計を確認すると、夜の十時を回っていた。
コードには、夜中にふらふら出歩くな、と言いつけられている。女の子じゃないんだから大丈夫だよ、とは返しているのだが、心配してくれるのはありがたいと思う。だから普段は、言いつけを守る。
どうしても飲みたいものかと言われれば、そんなでもないと答える。
ならば買いに行く必要もないが、今日の気分は、一杯引っかけてから眠りたい、ちょっとしたヤサグレモード。
その一杯引っかけるのがビールなら、弾ける炭酸に合わせてこころの棘も弾けて消え失せてくれそうな、アル中のごとき言い訳。
逡巡した一瞬。
「…？！」
玄関のチャイムが鳴り響き、心臓が跳ねた。
時刻は夜の十時を回っているのだ。こんな時間の来訪者に心当たりはないし、ろくでもないものの予感がする。
出ようかどうしようか迷った耳に、痛いほどのチャイムの連打と。
「オラクル！」
「オラトリオ？！」
上がった声に、さらに驚いた。
夕方の一件やらなにやら、いろいろ思うところはあるはずなのに、その瞬間になにを考えることもなく、ほとんど反射で玄関扉に飛びついていた。
「どうしたんだ、オラトリオ…」
鍵を開けるのももどかしく、扉を開く。
オラトリオが鍵を持っていて、この部屋に出入り自由なことも失念していた。
どうしてこんなふうに、チャイムを連打するのか。
理由を考えもしなかった。
開いた瞬間、オラトリオの顔を確認するよりなにより先に、アルコールがむわっと香った。
飲んでいる、こいつ！
閃いた思考が言葉になるより先に、オラクルのからだは動いていた。
「オラクル」
手を伸ばすオラトリオを跳ね除けて、開けたときと同じくらいの素早さで扉を閉じた。震える手で、もどかしい思いをしながら鍵を閉める。
数瞬、沈黙したオラトリオは、すぐにまたチャイムを連打した。それだけに飽きたらず、扉を叩き、ノブを回す。
「オラクル、オラクル！開けろよ、開けろ！」
「騒ぐな酔っ払い！入りたいんだったら、酔いを醒ましてから出直して来い！」
迷惑にも喚き立てるオラトリオに、怒鳴り返す。
ようやく立ち直ったところなのに、二日続けて酔っ払いオラトリオの相手などしたら、さすがに殺したくなってしまう。
殺せないことはわかっているが、殺したいと思うのも、しんどいのだ。
開けろと連呼していたオラトリオだが、五分もすると静かになった。
とはいえ、夜中の五分は長い。しかもオラトリオの声は、朗として響く。
明日になったら先手を打ってご近所巡りをしないと、苦情の嵐で住みづらくなるだろう。
そうでなくても、フリーのイラストレータなどという職種のために生活時間が不規則で、なにかと怪しげに言われていて肩身が狭いのだ。気をつけないと、小さなことでも大げさにされてしまう。
扉に耳をつけて外の様子を窺っていたオラクルは、ふと顔をしかめた。
オラトリオが黙ったのは良かった。だが、なにか不穏な物音が聞こえる。乱暴しながら歩いて回っているような。
やがて、その音も止んだ。
痛いほどの沈黙。
諦めたのだろうか。良かった。そう。良かった。はず。諦めたのなら。
激しくいやな予感に背筋を震わせて、オラクルは急いで扉を開けた。
扉の前に仁王立ちしたオラトリオと、しばし、見合う。
「…なにを、してるんだ、おまえは…」
「…」
ようやく訊いたが、声は咽喉に引っかかって掠れた。
オラトリオはお隣のお子さんの愛車、ごーてんごーという名前の三輪車を、頭上高くに掲げていた。その表情は恐ろしく研ぎ澄まされていて、とても男前だ。
答えは明らかだった。
扉をぶち破ろうとしている以外のなにものでもない。
頭を抱えるオラクルに、三輪車を放り出したオラトリオが抱きついてきた。
息苦しくなるほどにアルコールが香る。いや、息苦しいのはアルコール臭のせいだけではない。容赦なく抱きすくめられているせいだ。
「オラクル」
酒臭い息で熱く囁かれて、オラクルはため息を押し殺した。
懸命に呼吸を整えると、渾身の力でオラトリオを引き剥がし、部屋の中に放りこむ。
扉を閉め、鍵を掛けた。
放り出したいのは山々だが、そうなれば今度こそ、扉をぶち破られるだろう。ご近所巡りどころか、警察沙汰だ。
そうなったときのラヴェンダーの怒りは、自分のそれを遥かに凌駕して、恐ろしい。
彼女には、なんだかんだで情に流されてくれる、コードのような甘さがない。
いくらこのオラトリオの相手が嫌でも、こんな状態で自分のところに来たことに腹を立てても、あの姉上の前に転がすのは可哀想だった。
自分の甘さがほとんど滑稽で、怒りも萎える。
「オラクル」
床に寝転がったまま、呼ばれる。
オラクルは腰に手を当てて振り返り、わざと語気荒く言い放った。
「最悪だ、この酔っ払い。よくも私のところに顔を出せたな！」