よく考えればよかったと思っても、後の祭りだ。

Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-11-

オラトリオはこの一週間ほど、オラクルの家に泊まりこんで、いっしょに締切りに追われていたのだ。

たまに食材の買い出しなどで外に出かけるときも、逃亡防止、とかなんとか理由をつけて、ずっとふたりで行動していた。

だれかがオラクルに触れる隙など、それこそ微塵もなかったのだ。

加えて、あの痕。

新しいものだった。色鮮やかに、白い肌を彩っていたのだ。一週間より前についたものではあり得ない。

以上を鑑みれば、付けた主など考えるまでもなかった。

自分だ。

オラトリオが酒に酔い潰れてからオラクルがだれかと密会して、という可能性もあるが、それは随分と低いように思えた。

今朝目覚めたとき、オラクルはオラトリオの腕の中にいたのだ。

勝手に抱き枕にしていたわけではない。オラクルはオラトリオの肩口に顔を埋めるようにして、パジャマ代わりのスウェットにしがみついていた。

だれかと密会して、そんな痕を付けられるようなことをして、それでもこんなふうにオラトリオに接するような性格ではない。それくらいの信頼感はある。

彼がいかに世間知らずで、常識がぶっ飛んでいても、基本的に貞淑なのだ。

だから、結論はそういうことで。

オラトリオは、ずいぶん明後日な怒りをぶつけたことになる。

とはいえそうなるとわからないのが、オラクルがどうして「オラトリオじゃない」などという嘘をついたかだ。

隠しごとも嘘も無駄だと長年かけて教えこんだから、オラクルはこちらが罪悪感を抱くほどに素直に、なにもかもを打ち明ける。

そのオラクルが、嘘をついた。

ショックは並大抵のものではなく、世界は一瞬、暗黒に呑みこまれた。

だが、すぐに思い直した。同じ失敗は一度で十分だ。

オラクルが軽い気持ちで嘘をつくはずがない。

必ず理由があるはずで、それが納得できるかどうかはまた別としても、きちんと探り出さなければいたずらに溝が深まるだけだ。

だが、正攻法で攻めて、口を割るようには思えなかった。

あれでオラクルは強情だ。押し通すと決めたことは押し通す。嘘をつくと決めたなら、それがばれても理由など言わないだろう。

やわな風情でいて、だれよりも芯が強いのだ。オラトリオなど、とても敵わない。

けれど、手がないわけではなかった。

強情さや強靭さでは負けるが、人を謀ることにかけては、オラトリオに遠く及ばない。

どこまでも素直で純粋なのも、オラクルという人間だ。

騙すことに罪悪も感じず、オラトリオは考えを巡らせた。

***

「酔ってるさ。どれだけ飲んだと思ってる。素面なわけねえだろ」

「…」

自信満々に言うオラトリオを、オラクルはひどく困惑して見つめていた。

実際、酔っていることは自覚している。ただ、それが判断力を皆無にするほどではないし、記憶を失くすほどの泥酔ではないというだけだ。

普段より気が大きくなっているのも確かだし、行動が大雑把にもなっている。

だが、少なくとも自分がなにをしているか、把握できている。なにをしようとしているか、目的を見失ってはいない。

「…そう、だよな」

ややして、オラクルは小さくつぶやいた。

瞼が落ち、瞳が隠される。どこか苦悶しているような表情に、こころがざわめいた。

無邪気にもあどけない顔が、苦悶に彩られることによって、常にない艶やかさを見せている。

舐めるように見てしまって、ふと気がついた。

オラクルの髪の毛がびしょ濡れだ。押し倒した床に、小さな水たまりを作っている。どうやら、自分が来る直前に風呂に入っていたものらしい。

どんなに言って聞かせても、オラクルは髪の毛を拭かない。

風邪を引く。

小さく舌打ちして、オラトリオはオラクルの上から退いた。残念な習性で、どんな状況でもオラクルの面倒を見ずには済ませられない。

洗面所に行き、バスタオルを持って帰ってくる。

床から半ば起き上がったからだに、タオルを投げた。傍らに膝をつき、手を伸ばして頭を掻き回す。

「…っ」

「いつも頭拭けって言ってんのに。一人暮らしで風邪引いたりしてみろ。師匠に連れ戻されるぞ」

あらかた水気を拭き取ってから、床に出来た水たまりを拭く。

漫画の爆発オチのような頭のまま、なにか考えているのを、そのままでも十分かわいくはあったのだが、生来の几帳面さできれいに撫でつけてやった。

「…酔ってる、よな?」

「酔ってる酔ってる」

低く確認されて、軽く請け負った。嘘はついていないから、気安いものだ。

「…どれくらい?」

突っこんで訊かれて、にっこり、誑かす笑みを浮かべた。

「たくさん」

微妙に答えになっていない答えを返して、ふいに真顔になって、ずいとオラクルに顔を近づける。

「どうして言わなかった」

「え?」

飛び先がわからないオラクルが、虚を突かれた顔で瞳を瞬かせる。甘い色だ。付け込みたいだけ付け込ませてくれる。

「俺が毎回プロポーズしてることだよ。しかもおまえ、イエスって答えてたんだろ?」

「…そうだけど」

オラクルの瞳が揺れている。このまま、問われるままに答えていっていいのか、計りかねている顔だ。猛烈に鼻を刺すアルコール臭がなければ、突っぱねられていただろう。

オラクルは、酔っ払いのオラトリオだから相手にしてくれているのだ。

明日になればすべて、忘れ去っているはずだから。

「たとえ酔っ払ってたって、おまえがその場の誤魔化しでイエスなんて言うわけない。本気で俺と結婚していいと思ったから、イエスって言ったはずだ。俺が忘れてたんなら、嘘つきって詰っていいはずだ。よしんば、忘れてくれてせいせいしたってんなら、もう二度とおまえとは飲まないって言っていいはずだ。なんでそうしない?」

「…」

オラクルはしばし黙りこんでオラトリオを凝視し、困ったように首を傾げた。

「そういうの、惚れた弱みっていうんだって」

「あ?」

「エモーションが言ってた。好きになっちゃったほうの負けだから、仕方ないって。なにされても赦しちゃっても、自分でもばかだなあって思うことくり返しちゃっても、それが好きになるっていうことだから」

「…」

瞳こそ困惑に揺れているが、言葉には迷いがない。言っていることの意味は不明だが、自分に都合よく解釈しても良いなら。

「それはまあ、すごく腹が立つし、落ち込むし、もう二度と付き合うかって思うけど。殺してやりたいとも思うし、どこか深い穴に埋めてやりたいとか」

淡々と言って、オラクルは顔を歪めた。

「そう思うの、しんどい。だって、どんなでもやっぱり、好きだから」

「オラクル」

潤む瞳が、ひどく甘く見えた。

オラトリオはつい近づき、反射で閉じた瞼に口づける。オラクルは素直にくちびるを受け止めた。

いつでもそうだ。

オラトリオが酔っていようが酔っていまいが、オラクルは従順なほどに素直にオラトリオを受け止める。受け止めるだけで、反応がないのがネックなのだが。

瞼を舐めて離れると、いつもどおり、赤くなるでも青くなるでもなく、無邪気なほど平静に、じっとオラトリオを見つめる。

「おまえさ、俺が好きなんだったら、付け込めよ。恰好の弱みだろ。俺がおまえのおねだりに弱いのくらいは、いくらなんでもわかってるよな?」

あまりの反応のなさに、いつも挫かれる。

今日だとて酒が入っていなければ、ここまで押すことなど到底できなかっただろう。

わずかに弱気になりながら訊くと、オラクルは子供っぽく頬を膨らませた。

「そんなの。弱みに付け込んで、好きにしたって仕方ない。私はいつもいつも、おまえの弱みに付け込んだんだって頭のどこかで考えて過ごすことになるんだぞ。おまえだって」

「…いや、いい加減付け込んであげてくれよ…」

おまえに情けがあるなら、ここまでバレバレに手を出す自分になんらかの反応をしてあげてください。

つい、ぼやく。

受け止められているだけでは、不安だ。

頬を染めるなり、はにかむなり、そうでなければ拒むなりなんなりしてくれなければ。

なんの反応もないのでは、意図が不明で先に踏み込めない。そこまでの蛮勇の持ち合わせはない。

傷つけたいわけではなく、ひたすらに守りたいのだから。

「そもそもおまえが」

声を上げかけて、オラクルは口を噤んだ。ふい、と俯いてしまう。

これ以上は喋らない、のポーズだ。

ここまで来て、それはない。

オラトリオは手を伸ばすと俯いた頬を撫で、こめかみにキスを落とした。

「俺は酔っ払ってるんだ。好きなこと言っちまえ」