こころを埋めたのは、歓喜だった。
「結婚しよう、オラクル」
言われて、押し倒されて。
唐突過ぎて、思わず跳ね除けたけれど、確かにそのとき、自分が感じたのは歓喜だ。
これで彼は私のものだ。
Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-12-
「この酔っ払いがああああ!」
コードが飛び出してきて、オラトリオを引き剥がす。キレた弟に、ラヴェンダーが容赦ない鉄槌を下す。
あまりの驚きと喜びに眩んで身動きが取れないオラクルの肩を、つつ、と寄ってきたエモーションが労わり深く抱いた。
「ご災難でしたわねえ、オラクル様」
きょとんと、した。
災難?災難なわけがない。あのまま好きにしてくれて構わなかった。いや、大勢がいるところだったから、ちょっとは構うが。
硬直したからだは感情を表さず、頭の中でだけぐるぐると思いが渦巻いて。
容赦なく酔っ払いを叩きのめす兄の姿を見ながら、エモーションが小さくため息をつく。
「オラトリオ様ったら、すっかり正体を失くしてしまわれて。正気でいらっしゃったら絶対、こんなことなさいませんでしたでしょうに」
「え?」
またもや、言われたことが理解できない。
正気なら。正気なら?
「オラトリオ様きっと、酔いが醒めたら後悔なさいますわ。お兄様たちもいらしたから、笑える失敗で済みましたけれど。オラクル様、赦してさしあげてくださいまし」
「…失敗」
そこまで言われて、初めて思い至った。
オラトリオは酒を飲んでいた。それも、半端なく。
行儀良く嗜むコードしか知らなかったからすっかり失念していたが、酒はひとを変えるのだ。思いもよらない行動に駆り立てる。
正気だったらしない。
そんなことない、あれは彼の本音だ。
後悔する。
そんなことない、あれは彼の本音だから。
言い切れなかった。
従兄弟が、時としてひどく繊細で脆いことを知っている。自分に対して、なにかしらの線引きをして、注意深く触れていることも知っている。
そんなことはない。あれは…――
翌朝になって、エモーションの言葉は裏付けられた。
コードに叩きのめされて男前を台無しにされたオラトリオは、周りからさんざんにからかわれた後で。
「覚えてないんだ、ほんとに、全然。俺、おまえに…」
問う声が、怯えて震えていた。見つめる瞳が、気弱に揺れていた。こぼれ落ちそうな脆いこころ。
ああ、ほんとうだ。
こんなにも、怯えて。後悔して。
正気でやったことなら、こんな反応しない。
ではやはりあれはアルコールに操られた、本意ではない行動だったのだ。
これでもし、ふたりきりで飲んでいて、「最後」までしてしまっていたら。
それを、つぶさに覚えていたとしたら。
「ほんとうに、全然、まったく覚えてないのか?」
「…ああ」
念を押した自分に、オラトリオはほとんど泣きそうだった。そんなこと、あの強気の仮面を被る従兄弟は絶対認めないだろうけれど。
だれよりも繊細で、傷つきやすいひとなのだ。
とても脆くて、弱いひとなのだ。
もしも最後までしていたら、もしも覚えていたら、死んでしまうかもしれない。いや、死んでしまうだろう。
あんなにうれしかったことも、しあわせだったこともなかったのに。
こころを弄ばれた痛みは確かにあって、悲しさは世界を滅ぼすほどだったけれど。
安堵のほうが、大きかった。
自分の痛みより、従兄弟を襲う痛みのほうがもっと厄介で、性質が悪い。もしかしたら、従兄弟は永遠に失われていたかもしれない。いや、きっと失われていた。
失わずに済んで、よかった。傷つけずに済んで、よかった。
自然と、笑みが浮かんだ。安堵と、よろこびと。
「よかった」
つぶやいた言葉に嘘はない。
こころから、そう、思った。
***
オラトリオから、猛烈にアルコール臭が漂ってくる。臭いだけで酔えそうな気もするくらいだ。それだけ飲んで、酔っていないと考える根拠もない。
だが、いつもとなにかが違う。
そもそも、正体を失くすほど酔っ払ったオラトリオの口癖は、「酔ってない」だ。
こんなに堂々と、酔っ払っているなどと主張しない。
だからといって、それだけで酔っていないとは言えない。酔っている。確かに、確実に、疑いようもなく。
「な、全部言っちまえ。言葉にして、吐き出しちまえ。俺に全部、聞かせてくれ」
甘い声が囁く。
アルコールに浸かって、ねっとりとまとわりつくように重くなった唾液のような、甘い声。そこには、甘さだけでなく、苦味もあるのだけれど。
「なあ、オラクル」
「酔っ払い」
どこか縋りつくように微笑むオラトリオを、睨んだ。
「だっておまえ、酔っ払いなんだから」
「そうだ。俺は酔っ払いだ。だから」
「なに言っても、仕方ない。ほんとうのことじゃなくて、全然思ってもないことでも、言ったりやったりするのは仕方ないんだ。だって、酔っ払いなんだから」
言い募る途中で、オラトリオの瞳が驚愕に染まっていく。それから、痛ましい色に。
なにかしらがっくりと疲れ果てて、オラトリオはオラクルの肩に顔を埋めてきた。むかっ腹は立ちながらも、跳ね除けるまでには至らない。
好きにさせておくと、深い深いため息が吐かれた。
「おまえさ…………普段俺が、あれだけしてても、そう思うわけ…?いったいこの頭ん中はどうなってんだ…」
どうなってるかと問われれば、常に答えは決まっている。
「おまえでいっぱいだけど」
答えると、オラトリオのからだががくっと落ちた。膝に顔を埋めて、低く呻いている。
ややして、がばりと身を起こした。その顔は、どこか必死だ。
「ちゃんと確認しとこう」
「うん?」
「おまえ、俺が好きなんだよな?」
肩をがっしりと掴まれてそんな確認をされて、オラクルは呆れる。
いつもいつも、そう言っているではないか。オラトリオが好きだと。
「好きだよ」
「それって、どの好きだ」
「…うん?」
訊かれた意味がわからず、首を傾げた。オラトリオの瞳は真剣だ。
「だから、どういう好きかってことだ。従兄弟としての好きとか、友達としての好きとか、いろいろあるだろう」
いろいろ。
言われて、ちょっとだけ昔を思い出した。
私はおかしいの?
戸惑って訊いたオラクルに、エモーションが微笑む。とびきり優しく、慈しみ深く。
おかしいことなんてありませんわ、オラクル様。
そんなふうに好きになれる方がいらっしゃるなんて、とても素敵なことですのよ。
どうか、そのお気持ちを誇りに思って、大切になさって。
エモーションの温かい励ましは、オラクルの指針になった。あの日から、ずっと。
「そんな括り、意味がない」
だから、胸を張って言う。目を見張るオラトリオに、微笑みすらして。
「全部だから、意味がない、そんな括り」
「…」
これは、この気持ちは誇りだ。
それだけ好きになれたことは、好きであることは。
ばかだな、と思うこともあるけれど。
「全部だ。どれかひとつじゃない。従兄弟としても好きだし、親友としても好きだし、相棒としても好きだし、…恋い焦がれもするし」
「…」
言葉もないオラトリオを、まっすぐに見つめる。
「一個だけなんて、無理だ。全部、ひっくるめて好きなんだから」
オラクルの告白を聞いていたオラトリオの、暁色の瞳が揺れる。大きな手で口元を覆い、徐々に俯いてしまった。
ため息がこぼれる。
「…おまえ、全力で俺のこと好きだな…」