「オラクル、嫁に来い」

「あー…」

両手をがっしり握って言われ、オラクルは天を仰いだ。

始まったよ、と些かうんざり思う。

Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-16-

「オラクル、なあ」

「あのなあ…」

ずいずいと迫ってくるオラトリオからは、アルコールが芬々と漂う。

ちらりと目の端で確認した本日の酒量は、日本酒の一升瓶が二本。

酒に弱いわけではないオラトリオが正気を失うには少ない量のはずだが、この有り様。

ため息とともに手を振り払うと、オラトリオの顔がくしゃりと歪んだ。

「お~ら~く~る~ぅう」

吐き出される声がもう、正気ではない。

逃げるように距離を開けたオラクルを恨みがましく見つめ、オラトリオは駄々っ子そのものの甲高い声を上げた。

「そうやって俺を拒絶するのかあっやだやだやだやだ、嫁に来いったら来いったら来いよぉおおおまえが嫁に来てくれないって言うなら、死んでやるぅううう!」

一応いっしょに飲んでいただけあって、オラクルもそこそこ酒が回っている。普段なら温厚に笑って流すのだが、今はそうもいかない。

「ああもう、騒ぐな今何時だと思ってるんだ近所迷惑を考えろ、このたくらんけ!」

手近にあった絵本で、ぎゃんぎゃん喚く頭を引っ叩いた。

するとオラトリオは、ホラー映画のモンスターのようにがっしりと、オラクルの服を掴んだ。

「じゃあ嫁に来い。俺といっしょに暮らすと言え」

「…」

オラクルはため息をつく。救いようがない。

その態度に、オラトリオは妙に真剣な顔になって背筋を伸ばした。

「今ならもれなく、三食おやつ付きだぞ?」

「…私はどれだけ食い意地が張っていると思われているんだ」

「しかもセットで毎晩のマッサージも付いていくるまあすてきなんてお買い得☆」

「なんの通販だ、それは」

呆れながら、コップを掴むと口に運んだ。

締切り明けの妙なテンションで手を出した有名酒造の純米大吟醸なので、水もかくやの飲みやすさだ。ついついピッチが速くなるから、酔うのも早い。

「だいたい、おまえにマッサージなんかさせると、ろくなことにならない。すぐにおかしな触り方して」

冷徹に指摘してやると、酔っ払いは悪びれもせずにだらしなく笑った。

そのだらしなさたるや、百年の恋も醒めるレベルだ。醒めないので、百年以上愛せるのだろうと判断する。

「そんなん、おまえが敏感だからだろう。ちょっと触ると、すぐ感じちまうから」

「おまえの触り方がやらしいんだ!」

オラクルは真っ赤になって叫んで、だらしなく崩れる頬をつねり上げた。それでもオラトリオはでへでへと笑ったまま、頬をつねり上げるオラクルの手を取る。

加減もなく力任せに引っ張って、自分の胸の中へとオラクルを抱えこんだ。

「嫁に来いよぉ、オラクル。いっしょに暮らしたいくらしたいくらしたい」

「…」

酔っ払いの相手めんど!

こっちだって酔っ払っているのだ。常にも増して強情さが強化されている。

オラクルは鼻を鳴らした。

「そんなにいっしょに暮らしたいなら、おまえが私のところに嫁に来い」

「俺が旦那だぞ」

「どっちにしろ家事するのはおまえだ」

「それもそうか」

酔っ払いは三段にも達しない論法で納得し、しかし至極情けない顔になって懊悩し出した。

いいなあ、とオラクルはわずかに悔しく思う。

オラトリオが懊悩しているのは、家を出ることに抵抗があるからだ。

家には、まだまだ世話が必要な小さい弟たちがいる。彼らを放り出すことが、オラトリオにはどうしてもできないのだ。

それはたとえ、こうして正気を失うほどに酔っ払っていても。

そんなに愛されて、大事にされて、彼のきょうだいはいいなあ、と思う。

酔っ払っているときくらい、自分ひとりを優先してくれたって、ばちは当たらない。

どうせ酔っ払いの戯言だとこっちだってわかっているのだし、それを素面のときにまで持ち越そうなんて思ってもいないのに。

「どうせ五分もかからない距離に住んでるんだぞ。それでいいだろう?」

「やだい!」

「ちっ」

懊悩しながらも即答され、オラクルは素面なら絶対にやらない、痛烈な舌打ちを漏らした。

オラトリオを押しのけると、コップを取って酒を注ぎ、ぐいぐいと煽る。

空になったコップを、だん、と荒々しくテーブルに置いた。

「いいか、私は画材道具を捨てる気もなければ、遠いアトリエに仕舞う気もないからな。そのスペースを確保できもせずに、嫁に来いなんて片腹痛い!」

「わあ、オラクル男前だー」

宣言したオラクルに感嘆の声を上げたのは、オラトリオではない。

部屋には入らず、扉の影で見物していたシグナルだ。その腕には、幼児とも思えない訳知り顔で、にひにひ笑うちびを抱えている。

背後にはラヴェンダーまでも立っていて、呆れたように目を眇めていた。

そう、本日の宴はオラクルの家ではなく、オラトリオの家のリビングで催しているのだった。

以前ならオラトリオの醜聞をできるだけ伏せるために、オラクルの家以外では共に飲まなかった二人だ。しかし紆余曲折の末に、晴れて付き合うことになった。

そのため、オラクルはオラトリオとふたりで飲む場所を選ばなくなったのだ。

その結果としての、ギャラリーだ。

「おまえたち、そこを退け。さもなければこのつまみを運べ」

そこへ、ほかほかと湯気を立てるつまみの皿を持ったパルスが、呆れ顔でやって来た。

主夫である兄が締切りなどで仕事に追われているときには、家事を担っているパルスだ。オラトリオほどではないが、それなりのものが作れる。

それが災いして、こうしてつまみ係をおおせつかってしまっているわけだが。

「あ、パルス、それうまそう。僕も食べたい!」

「やめんか、シグナル、この胃袋大王がっさっきあれだけ夕食を食っておいて、どこに入るか!」

「だれが胃袋大王だよ健康な高校生男子舐めんな、寝太郎大学生!」

きゃんきゃん叫ぶ弟たちに、ラヴェンダーがゆらりと身を起こす。がっと伸びた手は、パルスが持つウインナー炒めの皿から、大振りのウインナーをつまんでいった。

「あ、こら、ラヴェンダー!」

「ああっ、ずるいよ、ラヴェンダー僕も!!」

「やめんか、シグナル!」

ちびを下ろして本格的に向かってくるシグナルに、パルスは容赦なく蹴りを繰り出す。

食べ物が絡んだときの弟は危険だ。なにしろ本人も言う通り、健康な高校生男子なのだ。食欲魔人こわい。

「…あれ、私たちのつまみだよねえ…」

別に腹が空いているわけではないが、なんだか悔しくなるオラクルだ。つい、つまみの行方を見守ってしまう。

そんなオラクルの首に、オラトリオの腕が回った。酔っ払い特有の加減も知らない勢いで、胸の中に抱えこまれる。

「俺以外見てんな!」

「…わーあ…」

ため息しか出ないオラクルだ。

全身を引きずりこまれて、完全に抱えられてしまう。

そのうえで苦しいほどに締め上げられるから、もうため息も出ない。

「オラトリオおにーさんは、ちっともかわりませんねえ」

ほてほてとやって来たちびに感心したように言われ、オラトリオは得意そうに笑い、オラクルは天を仰いだ。

「どうせ、相変わらずなのだろう」

弟たちの間に不和の種を蒔いたラヴェンダーもやって来て、冷徹に指摘する。

オラクルは苦笑に顔を歪めた。

「うん、まあね」

そう、これで潰れて寝てしまって、明日の朝になればオラトリオは、「嫁に来い」などと駄々をこねたことをすっかり忘れている。

子供のように振る舞ったことも、なにもかもすべて。

ただ、以前と違うとしたら。

素面に戻っても、言うことが変わらないということ。

――いいじゃねえか。嫁に来いよ。いっしょに暮らそうぜ。

笑って、けれど真剣に言われること。

相変わらずといえば相変わらずなのだけれど、その幸福な一致があるから。

「オラクルくんがおよめさんにくるの、さんせーですよ」

まじめな顔で言うちびに、オラトリオは乱暴に手を伸ばした。酔っ払いらしく、手加減なしに撫でる。

「いいこと言うな、ちび!」

ゆったゆったと揺れながら、ちびはあくまでまじめに言った。

「そしたら、おかーさんとおとーさんの顔かくのに、こまりません」

「いや、そこは私たち描いちゃだめだから!」

慌てるオラクルに、出来た幼児はこっくり頷いた。

「だいじょうぶですよ。カルマくんにちゃんと教えてもらいました。おかーさんはオラクルくんで、おとーさんはオラトリオおにーさんなのです」

「あのな、ちび」

そういうことじゃなくて、と説明に苦悩するオラクルに、ちびははにかんだ笑みを浮かべた。

「でもほんとはただ、家族ふえるの、うれしーななのです。オラクルくん、いつおよめにきますか?」

「そうだな。私も弟どもも、歓迎するぞ?」

ちびとラヴェンダーにまで迫られ、オラクルは頭を抱えた。オラトリオが呵々と笑う。

きょうだいに恵まれた男だ。彼が掛けている愛情は、決して無駄になっていない。

大きく嘆息すると、オラクルは笑うオラトリオの両頬をつねりあげ、それから期待満々の目で見る彼のきょうだいをきっと睨んだ。

「何度も言うが、私は画材道具を捨てる気もなければ、遠くのアトリエにまで通う気もないんだ。まず、それ用の部屋を用意してから言ってくれ!」

「…」

ラヴェンダーとちびが顔を見合わせる。

きょうだい四人で、すでにいっぱいの家だ。確かに、お道具付きお嫁さんを迎えるスペースはない。

だからといって、オラトリオが遠くに婿に行ってしまっては困る。

「そうだな。じゃあ、せめて、隣を借りるか」

「おとなり!」

機転の利くラヴェンダーが代替案を見出し、ちびが歓声を上げる。

オラクルは眉をひそめた。

「隣って、空いてないだろ」

指摘してやったオラクルに、敏腕が過ぎる若き弁護士は、やっちゃいけない顔で笑った。

「なに。出て行けばいいのだろう?」

「…っ」

酔っ払っているオラクルなのに、背筋に寒いものが走り抜けた。

オラトリオが、ひゅう、と口笛を吹く。

「姉さん、さっすが頭の冴えが違う!」

「ふん、当たり前だな。まあ、任せて…」

「だめだったら!!」

叫ぶオラクルに、腹黒きょうだいが揃って、にんまりと笑った。

「大丈夫。穏便にやるから」

「なにを?!」

酒に酔っている暇もない。一難去ってまた一難どころか、多難が降りかかってきたようだ。

それでも、オラトリオの腕はオラクルを放すことはないし、オラクルがオラトリオから離れることもない。

だから、どんな難事にも立ち向かっていける。

――たとえばそれが、肝心の恋人が差し向けたことだったとしても。

END