放課後に部活の予定もない日だった。

とりあえずはまっすぐ家に帰り、家事担当の長兄が用意してくれているはずのおやつで腹ごしらえをしたら、遊びに――

帰り道を急ぎながら漠然と組み立てていたシグナルの予定は、家に帰りつくより先に脆くも崩れた。

ふわ*ふわ

「おっ、シグナルくん、いートコに♪」

「えっ?!あれ、オラトリオ、なん………んっ?!」

家まではあと二、三分というところでシグナルを呼び止めたのが件の、家事全般を担う長兄――オラトリオだった。

呼び止めるのみならず、オラトリオは大きな腕に隠れるように抱いていたものを、シグナルに押しつけた。

偶然の出会いに目を剥きつつも反射で受け取ったシグナルだが、すぐさまびしりと固まった。

押しつけられたのは、最近出来たばかりの新しい弟。

受け取ったシグナルと同じくぽかんきょとんと目を丸くしている、――おくるみにくるまれた、赤ん坊。

「お、おらと………」

「悪ぃ、ちょっと急用夕飯までには戻るから、お守りよろしくな、『おにぃちゃん』っ☆」

「おらと………っっ!」

――本当に急用なのだろう。

シグナルがきちんと受け取ったのだけ確かめたオラトリオは、足早に離れながら端折りに端折った説明を叫んで、姿を消した。

「お………らと、り……なん………」

残されたシグナルは事態を呑みこみ切れないまま、呆然と兄が消えた方向を見つめる。

まっすぐ家に帰ったらおやつを食べて、遊びに――

不安定な抱かれ方に癇癪を起こした末弟が上げる悲鳴のような泣き声で、すべての予定がきれいに崩れ去ったことを、シグナルはようやく悟った。

***

「………なにをやってるんじゃ、おまえは……」

「こ、こーどぉおお………っ!!」

インターフォンの連打音と、悲鳴のような赤ん坊の泣き声と――

尋常ではない二重奏で呼び出されたコードは、堪え切れずにため息をこぼした。開いた玄関扉の向こうに立つのは、これ以上なく情けない顔を晒す、幼馴染みの弟分だ。

未だ中学の制服姿のシグナルの腕には、まるで生まれたてのように顔を真っ赤にし、力いっぱい泣き喚く赤ん坊がいた。

赤ん坊の仕事は泣くこととはいえ、いくらなんでも泣き方が尋常ではない。

理由は明らかで、あからさまに不慣れな様子のシグナルの抱き方だ。どこかしらが痛むか、苦しいか、単に不安定だという以上のものを、赤ん坊は感じている。

シグナルの悪気如何の問題ではないが、事態は意外に急を要していた。

「まったく……!」

素早く見て取ったコードは小言を後回しにし、シグナルの腕から彼の弟を奪い取った。姿勢や服を整えながら抱いてやり、緊張に硬くかたく強張る体を軽く揉み解してやる。

「ぅぇええっ」

「貴様まで泣くな!」

「べそっ!!」

弟は未だ泣き喚いているが、コードが受けてくれたことで肩の荷が下りたのだろう。

情けなく三和土に崩れたシグナルが上げたべそ掻き声に、コードはぴきりと額を引きつらせた。

――そうやって厳しい表情で叱咤の声を上げるコードだが、その腕に抱かれた赤ん坊の泣き声は徐々に徐々に鎮まり、体は本来のやわらかさを取り戻して安堵にほぐれる。

「きゃぁう♪」

「よし………」

「はぁぅううううっ!」

「どこで寝る気だ、シグナル一度立てまったく、これしきのことで……!」

泣き止むのみならず、ご機嫌な笑い声すら上げた赤ん坊に、ようやく心底から安堵したシグナルは、そのまま三和土に転がりかけた。

こまめに掃除をしているから汚いとは言わないが、制服で転がる場所でもない。

爪先を飛ばして立ち上がらせると、コードはぷりぷりと小言をこぼしつつ、シグナルを伴って居間に戻った。

現在、この家にいるのはコードだけだ。他の家族は学校だ仕事だと、出払っていない。

つまり、客人をお茶や菓子でもてなすにしても、コードがやらなければ自動では出て来ないが、両腕を塞ぐ赤ん坊の存在だ。

そしてその赤ん坊をコードに託した相手は、そうまで気張らなければいけない客ではない。

なにより、一時預かりですら満足にこなせないがために、コードを頼って来たのだ。茶や菓子を用意するからちょっと抱いておけと言っても、無理だろう。

もうひとつ言うと、幼いころから諸々勝手知ったる相手だ。この家に来たことも、数知れず。

適当に用意して自分でやれと言えば、うっかりすべて出来る。

「まったく、たかがお守り程度で、そうも狼狽えおって………」

「だって………」

「きゃっきゃふっんきゃっ♪」

「……………」

ぶつくさとこぼすコードの表情は厳しいが、腕の中の赤ん坊はご機嫌なままだ。小言をこぼしながらもおもちゃとして与えているコードの指にくすぐられ、明るく笑う。

コツを得た扱いだ。一朝一夕のものではない。

言い訳の言葉を呑みこんだシグナルは胡乱な表情で、手慣れた様子のコードを見た。

「なんか、馴れてるね、コードカルマみたいに、仕事ってわけでもないのに……」

カルマは保育士だが、コードは道場主――古武道の師範だ。

生徒として『子供』を預かりはするが、ものの性質上、面倒を見るのは歩けるようになった年齢の子供から。確か今、いちばん小さな子供でも五歳にはなっていたはずだ。

そして五歳の子供の扱いに慣れていることと、とかく泣くことですべての欲求を伝える赤ん坊の扱いに長けることは、まったく違う。

現に、シグナルだ。

シグナルもまた、コードの道場に通う生徒のひとりで、未だ中学生とはいえ、古参として小さな子の面倒を見る立場にある。

こう言ってはなんだが、シグナルの子供の扱いはうまい。子供同士で波長が合うんだろうなどと、コードや長兄に腐されたりからかわれたりはするが、うまいものはうまい。

が、弟の面倒は見られない。

赤ん坊と子供は、違うのだ。それはもう、明確になにもかもが。

「ふん」

畳敷きの居間だ。背筋をぴしりと伸ばし、胡坐を掻いて座る師範に対し、シグナルは潰れるようにべたりと座りこんだ。そうやって、コードの腕の中で寛ぐ弟を、身を乗り出すようにして覗き込む。

目の色は、澄んで屈託ない。歪むこともなく、出来たばかりの弟をまっすぐに見つめている。

「………ふん」

鼻を鳴らしたコードのくちびるが、ほんのりと綻んだ。

抱き方のまずさは言葉を失うほどだが、シグナルが弟に対して愛情を持っていないわけではない。興味や関心がないわけでもなく、けれどおいそれと手も出せないでいる――

「俺様をなんだと思っている、シグナルカシオペア家の長子だぞ」

「それが……」

なんだと問い返す察しの悪い弟分に、コードはわざとらしく眉をしかめてみせた。

「俺様の下に何人、きょうだいがいるのか忘れたか全員のおむつを替えたし、抱いてミルクを飲ませもした。ついこの間まで末っ子だった貴様と違ってな、シグナル」

「って、だって、コード………」

コードがいわゆる弟妹狂で、彼ら彼女らに近づく有象無象を問答無用で蹴散らす恐怖の『長兄』だということなら、もちろんシグナルも熟知している。しかもここ最近のことではなく、コードがまだ幼い、子供のころからずっとそうだということも。

が、それとこれとは別だ。

弟妹を狂的に溺愛することと、赤ん坊の彼らの面倒をなにくれとなく見ることは、イコールで繋がらない。

なにしろ、生まれたての乳飲み子でも置いて出張に行ってしまうシグナルの両親とは違い、コードの『親』はきちんとした――

「自分のきょうだいだ。恐れて遠巻きにしているだけでは、絆もへったくれもない。――というのが、おばあさまの教育方針でな。俺様は初めから、おしめを替えたりミルクをやったりと、なにくれとなく面倒を見るように促された」

「へえ……」

まじまじとコードを見るシグナルの目が、微妙に変わったような気がする。

それも失礼な話だなと密かに思いつつも指摘する愚は犯さず、コードは笑いながら、腕の中でくつろぐ赤ん坊に視線を落とした。

「考えが変わるぞ。おしめを替えて、ミルクをやって、腕の中で眠らせて………この小さく脆いものは、俺が――『兄』たる俺様が守るべき、守らなければならない存在なのだと。痛感し、心底まで染み入った」

「あ、ちょっと弊害」

「ぁあ?」

「ごほんっ!」

思わず漏らされたシグナルの言葉に、コードはちらりと横目を向けた。シグナルは即座に目を逸らし、だけでなくわざとらしい咳払いまでして、白を切る。

追求することはせず、コードは腕の中の赤ん坊に視線を戻した。

力いっぱい泣いて、疲れたのだろう。寛いだ赤ん坊は、全身をさらに弛緩させて眠りに入った。

安堵感に包まれて眠る赤ん坊の表情は、抱くものにとってもこれ以上なく、安堵感と幸福感をもたらすものだ。

小さく、やわらかく――容易く壊せるその体を無防備に預けるさまは、あなたを信頼していると、あなたが好きだと、言葉に因らずに伝えるもの。

言葉に因らない分、強烈なまでに心身に刻まれるもの。

この安堵感と幸福感を知らないなど、もったいない。

いい機会だし、この新米成り立て『おにぃちゃん』を、ちょっと『鍛え』てやるか――

「………ん?」

眠る赤ん坊を眺めて知らず微笑んでいたコードのくちびるに、わずかに熱を持ったものが触れて離れた。

ほんの一瞬の、接触。

一瞬だ――であっても、確かに触れた。くちびるに。

だが、触れた相手と、触れ合った場所と、触れられた理由だ。

あまりに想定外の事態が重なったコードは、機敏に反応することもできず、傍らに座るシグナルをきょとんとして見た。

「………シグナル?」

「えあれあれえ……?」

微妙に間抜けな声で呼ぶと、シグナルは狼狽えたように視線を泳がせた。その狼狽え方で、シグナルの行動が無意識だったのだと、意識した行動ではなかったのだと、知れる。

知れるが、そうだとすると――

「えちょ、………あれ僕、いま、………?!」

「おい」

腕の中に、すやすやと眠る赤ん坊がいる。

無断でくちびるを奪った相手にしたい『仕置き』はあるが、赤ん坊を刺激せずに出来るものでもない。

なによりも、『奪った』張本人がもっとも、意想外の事態だと慌てふためいてる。

なにかしら失礼な話だなと内心は思いつつも言葉にせず、微妙に気が抜けたコードは小さなため息ひとつで、有耶無耶に流してやることにした。

同じ男同士で、単なる幼馴染み――道場の師範と生徒、それ以上の関係でもないのに、うっかりでくちびるを奪った相手にため息ひとつで済ませてやるなど、温情も甚だしい。

いい加減、自分はシグナルに甘い。それも、昔から。

――おそらく本人が訊いたなら、お仕置きも恐れずに猛然と反論するだろう感想を抱くコードに、おろおろが最高潮に達したシグナルは腰を浮かせた。

赤くして青くしてと目まぐるしく顔色を変えながら、叫ぶ。

「どうしよう、コード僕、今の、ファーストキスだ!!」

「知らんわっっ!!」

「んげっ!!」

一瞬、赤ん坊の存在を忘れた。

いくらなんでも無視しきれない言葉を吐いたシグナルに、コードは胡坐を掻いていた足を崩すと素早く、蹴りを放った。

おろおろのあまりに常以上に諸々が疎かになっていたシグナルは、中途半端に放たれた蹴りでも避けられず、鳩尾にまともに食らってうずくまる。

「まったく、仕様のない!」

ぷりぷりと叫びつつ、コードは座り直して腕の中の赤ん坊を覗き込んだ。

すやすやと眠って、起きる気配もない。それだけ疲れたということか、意外に肝が据わっているのか――

「………少しは弟を見習え。情けのない」

コードはくちびるを歪め、ぶつくさとこぼした。しかしその声に、いつもの厳しさや強さはない。微妙に、揺らぐものがある。

幼馴染みの弟分で、道場に通う生徒。

なにより、同じ男。

確かに『可愛がってきた』少年だが、そのファーストキスの相手が自分だと知って、腹が疼いた。

そんな自分を持て余し、コードは小さなため息をこぼす。

どういうわけか――

深く考えることを止めて久しいが、どうしてもどうあっても、自分はシグナルに甘い。