「はい次」

一枚片付けると、三枚渡される。三枚を片付けると、九枚。

この調子で重ねていくと、算数的にとてもおもしろい問題が作れる。算数嫌いの信彦に解かせてやったら、きっと楽しいだろう。

Jack & Jill

「じゃねえよっ、オラクルってめえ、俺に仕事押し付けんなてめえがやれっ!!」

山と積まれたファイルをひっくり返し―…たら、確実に自分の首が絞まるので、崩さないように注意しつつ、カウンターを叩いて立ち上がったオラトリオに、容赦なく叩きつけられるファイル。

「やってる。おまえの倍々。おまえ三十件で、私百件」

「数の問題じゃねえよ複雑なやつばっかり回してきやがって」

「悔しかったら一件の処理スピードを上げてみろ。おまえが並列計算で私より早くなったら逆転してやる」

「担当野の違いってやつを考慮しろよ、この世間知らず!」

「なんだと!」

オラクルが即座にばちっと指を鳴らし、どこからともなくファイルの豪雨が降り注ぐ。避けもせずに素直に打たれて、オラトリオはカウンターの下に埋まった。

「きりきり働け、ひよっこ」

「がんばれよ~、オラトリオ~」

そしてさらに降り注ぐ、外野からの冷たい声援。

仕事に追われる<ORACLE>を尻目に、優雅に茶を嗜むコードと、修行と称してコードに引っ張って来られたシグナルだ。

シグナルは、自分相手には無敗を誇る兄が、オラクルには負け負けなのがちょっと愉しい。

シグナルの心証は圧倒的にオラクル派だ。「優しいオラクル」が、オラトリオに理不尽な扱いをするわけがないと思い込んでいる。

「あ、オラトリオ。五件追加」

「おぉまぁえぇは、鬼かああああ!!」

もうこの山の中で寝ちゃおっかな、と一瞬考えたオラトリオに、オラクルは容赦なく仕事を足した。我慢できずに起き上がったオラトリオに、オラクルがにっこり笑う。

「私今百五十件。おまえ三十五件」

「…っがあっ!」

言葉にならずに叫び、オラトリオは乱れたダーティ・ブロンドを撫でつけもせずにくるっと振り返った。

忙しさもどこ吹く風でお茶をしている師弟を睨みつける。

「だいたい、俺らがこんなにきりきりしてんのに、なんでそこでお茶してられるんだそれも、かわいい女の子が並んでいるんならともかく、男ばっかりそうじゃなくても電脳空間には女の子が少なくてビタミン補給が追いつかないってーのに、男率を上げるな!」

「ビタミン補給?」

「なんのビタミンを補給できるっつーんじゃ、あほんだら」

きょとんと首を傾げる奥手のシグナルだ。

コードはヒステリーを起こしたオラトリオの扱いに長けている。けっと行儀悪く吐き出して斜めに笑い、頭を掻き毟るオラトリオを見もしない。

「ああもう、男ばっかりの空間で仕事漬けとかなんの試練なんだ?どうして電脳空間には女の子が少ないんだ!」

「そういえば、少ないね。ぼく、エモーションさんしか知らないや」

オラトリオのヒステリーにまともに応対して、シグナルが首を傾げる。

愛妹の名前に、コードの眉間に皺が寄った。

この場合、シグナルの彼女に対する感情が母親への思慕と同様で、妹の感情もまさに「母」であるとわかっているから鉄拳制裁には乗り出さないが。

「それは<ORACLE>での話だ。公共空間だの、地下空間だのに行けば、それなりにそれなりのがいる」

「へえ、そうなんだ?」

もの知らずのシグナルは素直に言われたままに信じ、一方のオラトリオは駄々っ子そのままに足を踏み鳴らした。

「あんなのいやだあウイルス塗れだとか、違法サイトへの釣りだとか、しかもだいたいにして、会話が楽しめる知性がない!」

「贅沢な」

コードが鼻で笑う。

電脳空間といえば、ほぼ<ORACLE>しか知らないシグナルは想像がつかずに眉をしかめ、首を傾げた。

よくも悪くも最先端の完成された製品にしか会ったことがないので、一般社会の出来がどれくらいなのかよくわからないのだ。

「オラトリオは女の子好きだからなー…。オラクルが女の子だったら、全然問題なかったんだろうけど」

なんの気なしにつぶやく。

ヒステリーを起こしている守護者に関しては放置プレイ推奨のオラクルは、騒ぎには耳を貸さずに黙々と仕事を片付けている。

普段話しているときにはあまり思わないのだが、こうやって淡々と仕事をしている姿を見ると、やはりオラトリオとよく似た面立ちだと思う。女性的な雰囲気とはまったく相容れない。

「…っ、お、かしい!」

それでもがんばってオラクルの頭にリボンなどつけてみて、堪えきれずにシグナルは吹き出した。

あまりに阿呆な想像に、突っこむことすら面倒くさくなったコードはそっぽを向いて干菓子をつまんでいる。

「なーにがおっかしいのかな、シグナルくん♪」

「ぐえ!」

声だけ妙にハイトーンで、オラトリオがシグナルに近づく。電脳空間ですら弟相手には無敵を発揮して、失礼な想像で笑い転げるからだを押さえつけた。そのまま、稼働限界まで技を掛けまくる。

「ぎゃー!!」

「はっはっは、シグナルくん、からだやわらかーい♪」

八つ当たりにしても行き過ぎの兄の指導に、だが戦闘型のシグナルは抗しきれずに悲鳴を上げるだけだ。じたばたもがくが、きれいに技が極められているときの常で、ちっとも抜け出せない。

「いい加減にしろ」

「あだっ」

妙に怖い笑顔で弟とじゃれるオラトリオの頭を、音もなく近づいたオラクルがファイルで払う。

「弟に八つ当たりするな。ほんっとにおまえは隙があれば遊びに流れるんだから」

「う~っ」

唸りながら、オラトリオはシグナルを放した。シグナルはべちゃっと床に潰れる。からだが痛くてすぐには立ち上がれない。

その頭のところにしゃがみ込み、オラクルが心配そうに覗きこんだ。

「大丈夫か、シグナル?」

「えへへ…」

「放っておけ、オラクル。そんなでも戦闘型だ。これくらいでどうこうなるほどヤワじゃありゃせん」

「そうそう、おにーさんにどうこうされちゃうような最新型じゃないって」

「コードぉ、オラトリオぉ!」

オラクルには照れ笑いを返したシグナルは、コードとオラトリオの冷たい発言に奮起して立ち上がった。一瞬ふらつくが、しっかりと立つ。

「いつか見てろぉおおお!!」

今すぐにふたりをどうこうできる実力がないのはいくらなんでも身に染みているシグナルの怒声は、とても情けなく響いた。

コードとオラトリオが揃って性質の悪い笑みを浮かべる。

一方のオラクルは、経験値微量のために世間知らずのおぼっちゃんのシグナルとはまた違った意味で箱入り息子だった。

どこからどう聞いても負け犬の遠吠えだったのだが、にこにこと邪気なく微笑んで頷く。

「大丈夫だ。シグナルならきっとすぐに強くなるから」

優しく請け負って、歯噛みする頭をよしよしと撫でる。

そんな子供扱いをされるとシグナルのプライドはずたずたなのだが、オラクルの笑顔を見ていると不思議と慰められてしまう。

「あはは…」

苦笑いして撫でられるに任せたシグナルの背筋に、一瞬、冷たいものが走った。ぎょ、として原因を探す間に、オラクルの優しい手が離れる。

「そぉんなのに、そんなにやさしくしてやる必要はねえんだぞ」

「おまえはほんとに、弟に厳しいなあ…」

引き離したのはオラトリオで、オラクルを後ろから抱きしめて肩に顎を乗せ、きょときょとしているシグナルを冷たく見ている。

呆れたようにつぶやき、オラクルは駄々っ子のようなオラトリオの頭をぽふぽふと叩いた。

「そうじゃねえって。そいつ今、おまえに対してすっげえ失礼なこと考えてたし」

「失礼なこと?」

きょとんとしたオラクルに、原因探しを一旦中断したシグナルが慌てた顔になる。

「いや、だって!オラトリオが悪いんじゃんか女の子がいないいないって叫ぶから!」

「女の子?」

ますますきょとん、としてから、オラクルは目を眇めた。すぐ傍らにあるオラトリオの顔をじとっと見る。

ふい、と顔を逸らしたオラトリオに、小さくため息をついた。

「気にしなくていいよ、シグナル。オラトリオのこれは、すぐ嘘つくのとおんなじ、癖みたいなもんだから」

「すぐ嘘つくってなんだよ」

オラトリオが拗ねた顔になる。オラクルは気にしない。

兄が見せるあまりに子供っぽい表情に、シグナルはぽかんとした。なんだか、ずいぶんとずいぶんなものを見せられている気がする。

「それでなにが失礼なんだおまえのほうが、私に対して随分失礼な気がするが」

「…」

シグナルが意外に思ったことに、オラトリオは不機嫌に顔を背けてなにも言わなくなってしまった。

おもしろがって告げ口して、不愉快になったオラクルともども散々にからかわれると思っていたのに。

だいたいにして、口の減らないのが取り柄(と思っている)の兄がだんまりに入るなど、ついぞお目にかかったことがない。

「オラトリオ?」

顔をしかめて腕から抜け出し、正対する形になったオラクルが、オラトリオの頬に手をやる。

「おまえが女であればよかったのに、と言ったのだ」

「コード!」

ばりばりと(音がするものではないが)干菓子を食べていたコードが、おもしろくもなさそうに口を出した。

思わぬところからの敵の出現に、シグナルは飛び上がる。

「それで、女のおまえを想像して、似合わぬと笑っておった」

「コードぉおお!」

言うな、と飛んで行って実力で口を塞ごうとしたシグナルを、やすやすと組み伏せてからだの下に敷き、コードは茶を啜る。

きょとんとしていたオラクルは、座布団にされて暴れるシグナルと仏頂面のオラトリオ、澄まし顔のコードとを見比べ、無邪気に首を傾げた。

「似合わないかな?」

「…」

沈黙が図書館を支配した。

コードとオラトリオは半ばこの反応を(斜め三十二度くらいを行く発言をするだろうなという)想定していて、深いため息で世間知らずを嘆き、シグナルは想定外過ぎて唖然として。

「えっとぉ…オラクル?」

「まあ、そうか。考えてみれば、私が女だったらオラトリオの不満もあらかた片付くんだな」

「オラクル…」

検討しなくていいから!

三者三様の制止をさらりと聞き流し、オラクルはわずかに上目になった。身に纏う雑音色が、ちらちらと瞬いて、彼がなにかをシミュレーションしていることを知らせる。

「オラクル!」

焦れたようにオラトリオが叫び、オラクルの肩を掴む。その手をするりと避けて、オラクルは頭に手をやった。

「そうだな。髪の毛は、これくらいの長さか?」

「!」

言葉とともに、短く整えられた髪がばさりと広がり、背中までを覆う。

言葉を失くした三人の前で、オラクルひとりが楽しそうだ。

「からだの線も違うんだよな。うーんと、全体的になだらかで、丸く…」

なにを参照しているのか、ぶつぶつとつぶやきながらからだを撫でる。

とはいえ、もともとがからだの線のはっきりしない大振りのローブを着ている。なにがどう変わったかわからなかったが、シルエットが全体的に絞られ、やわらかな丸みを帯びた。

「あとは、身長か」

少し難しげに眉をひそめ、オラクルはいくつかのウィンドウを一瞬、展開した。

すぐに閉じると、そこにはラヴェンダーほどの背丈に縮んだ、幻想的な美女が立っていた。

「…っ」

「わ、コード?!」

ものも言わずに、コードがひっくり返った。

ようやく自由になったシグナルが確認すると、驚いたことにコードは気絶していた。物凄い顔でうなされているが、シグナルには理由がわからない。

どうしてあんな美女を見て、こんなふうにうなされるのか?

首を捻るシグナルの前へ来て、オラクルが蠱惑的に微笑んだ。

「どうだ、シグナル。似合わないか?」

「うううう、似合うすごい、きれいだよ、オラクル。なんで?!」

無邪気さにおいてはある意味オラクルとためを張るシグナルは、素直な称賛の声を上げた。

基本の、オラトリオと同じ顔というのは変わっていないのに、きちんと美女に見える。

惜しむらくは。

「あとは、声、かなあ…」

「あ、そうか」

紛れもない美女の口からこぼれるのは、いつものオラクルの声だ。いい声ではあるが、女声ではない。はっきりとした男声だ。

オラクルがウィンドウを展開する。その瞬間にオラトリオの手が伸び、ウィンドウを握り潰した。

「オラトリオ」

「…」

これ以上はない不機嫌顔のオラトリオが、ぎりぎりと美女を睨みつける。オラクルはきょとんとした顔で見返し、わずかにタイトになったローブをつまんで一回転した。

「きれいじゃないか?」

「元に戻せ」

軋る歯の隙間から、ようやく声が絞り出される。

いつになくおかんむりらしい守護者の態度に、オラクルはしゅんとなった。

むっとした顔のシグナルが立ち上がる。

「なんだよ、せっかくオラクルがオラトリオのためにやってくれてんのに…」

威勢は続かなかった。

暗黒大魔王とでも言うべき眼光に見据えられて、シグナルのからだが勝手に後ずさる。

オラトリオのコピーロボットであるクオータの狂気を見ても、あまり怖いとは思わなかったのだが、今は違う。

オリジナルを超えるために作られたと嘯いていたクオータは、まだまだかわいかったのだと心底思った。

「オラクル」

「…」

低く促され、オラクルはするするとCGを解く。すぐさま再構成し直すと、そこにはいつものオラクルがいた。

怒られた子犬のようにしょんぼりして、十人いたら十人の同情を引ける態だ。

「…はっ」

気絶していたコードが目を覚ます。がばっと起き上がると、オラクルの姿を確認して安堵のため息をついた。

それから、ご降臨なさってしまった暗黒大魔王に気づき、すっかり気圧されている弟子を見やり、けっと斜めに吐き出す。

「シグナル、帰るぞ」

「え、う、わあ?!」

引き際に聡い長老だ。

情けない弟子の首根っこを掴むと、すぐさま光の帯となって<ORACLE>から飛び出して行った。

残されたのは、正当なる<ORACLE>の住人。

逃げ場もないオラクルと、オラトリオだ。

ちらちら、オラクルのローブが瞬く。それだけでなく、微妙に不安定にCGが揺らめいている。

オラトリオは深く深くため息を吐き出した。

「無茶するなよ。パーソナルプログラム弄るなんて、阿呆か、おまえ」

「CGくらいなら…ちょっとの時間なら、大したことないし…」

「阿呆なんだな、おまえ」

「…」

冷たく言い切られて、オラクルは反論もない。俯き、上目使いに守護者を見る。

そこにわずかに拗ねた色を見つけ、オラトリオは額を押さえた。

そんな反応で済むようなことではなかった。

頭脳集団アトランダムが与えたペルソナは厳密にして確固たるもので、おいそれと書き換えの効くものではない。髪の長さひとつ、背の高さひとつ取ってもかなりのものなのに、ジェンダーを弄るなど。

それが例えば、中身を弄らない外見だけの変化であっても、負担はかなりのものになるはずだ。

「悪かったよ」

結局、拗ねながらも折れたオラクルがつっけんどんにつぶやく。

そのからだを抱きしめて、オラトリオは泣いているような吐息をこぼした。

「おまえが女のほうがいいとか、そんなの思ったこともない。おまえがそのまんま、おまえであることが、俺にとってなにより大事なんだ」

「…えと」

「おまえとふたりだったら、それでいいんだ。女の子なんていなくても」

「…」

抱きしめられているというより縋りつかれているといった風情で、オラクルは小さく笑った。

独占欲の強い守護者。

不機嫌の原因は、大体わかっていた。

仕事が溜まっていることもそうだが、久しぶりの逢瀬に、コードとシグナルが入りこんだことが我慢ならなかったのだ。

ふたりきりだったら、仕事中であれなんであれ、オラクルに触れることができる。オラクルのことだけ考えていていい。

だが、他人がそこにいればそうはいかない。オラトリオの思考も他人に裂かれるし、なによりオラクルの思考も他人に振り分けられる。

副人格まですべて支配したいとは言わないが、せめて主人格のオラクルくらい独占したい。

「…仕事する気になったか?」

「悪かったよ」

笑って訊ねたオラクルに今度はオラトリオが謝って、乱れたままの髪を撫でつけた。トルコ帽を取りだし、頭に乗せる。

「さっさと終わらせる」

打って変わってきりっとした顔でカウンターに向かうオラトリオに、オラクルはくすくすと笑い続ける。

おとなしくファイルを広げだしたオラトリオとカウンターを挟んで向かい合い、自分もファイルを開いた。

だが、一瞬止まって、つ、とカウンターに身を乗り出す。

ちらりと目を向けたオラトリオに、にっこり笑った。

「まだ聞いてない。きれいじゃなかったか?」

目を見開いたオラトリオが、天を見上げ、くるりと瞳を回す。

笑顔のオラクルをまっすぐ見ると、微笑んだ。

「きれいだった。あんな美女、お目に掛かったことがない」

「…ふ」

満足そうに笑い、オラクルは首を伸ばしてオラトリオのくちびるにキスを贈った。すぐさまカウンターの向こうに戻り、上機嫌でファイルを片付けていく。

そういうおまえが、いちばんかわいいんだ。

つぶやいた言葉は仕事に夢中の相棒には届かず、オラトリオは苦笑して自分もまた、仕事に戻った。