ずいぶん重いデータが<ORACLE>に入場するのを感じて、オラクルは顔を上げた。

仕事の合間にぼんやりしていたところだったのだが、どうも「オラクル」が相手をすべき客人のようだ。

とりかへばや/追補

オラクルが知るだれよりも丁寧に礼儀正しく、彼は<ORACLE>執務室へと入場を果たした。

「やあ、カルマ」

「こんにちは、オラクル。ご無沙汰しております」

上品に微笑み会釈した彼は、A‐ナンバーズ統括の地位に就いて忙しくしている、カルマだった。

もともとは市長を目指していただけあって、物腰のやわらかさと優雅さは、他のA‐ナンバーズの追随を赦さない。

「久しぶりだね…そもそも、電脳空間にダイブすること自体、久しぶりじゃないか?」

カウンターの向こうで立ち上がって微笑むオラクルを、カルマは煌めくブリリアント・グリーンの瞳を見張って、ちょっと驚いたように見た。

なにか言いたげに横を向き、それから顔を戻して、そつなく微笑む。

「お陰様で忙しくしています。<ORACLE>にもなにくれとなくご助力いただき、感謝しております」

「うん。いつもご利用ありがとう」

知の巨人、電脳図書館<ORACLE>の管理脳は、拍子抜けするほどに無邪気に応える。

カルマはこほ、と咳払いして、どう話したものか考えた。

このひとの相方のオラトリオとなら、同じA-ナンバーズのよしみもあって、幾度となく会話を交わしているし、性格も知っている。

だがオラクルとなると、実はそれほど、話したことがない。

もちろん市長となる過程で、幾度となく<ORACLE>とコンタクトは取ったし、A-ナンバーズ統括となった今でも、なんだかんだで頻繁に利用している。

しかし、こうして<ORACLE>の主人格である「オラクル」と話をするのは、滅多にないことなのだ。

それこそ、同じA-ナンバーズのよしみで、カルマのナビゲータはオラトリオが引き受けがちだったこともあるし、窓口プログラムの「オラクル」と話すだけで済む用事が多かったなど、いろいろ理由はあるわけだが――。

だから、こうして「オラクル」と相対してしまうと、どうしたらいいものか、いまいち距離感を計りかねる。

世間知らずとか、凶悪に無邪気とか、いろいろ聞いてはいたけれど…。

「それで、今日はわざわざここまで来たりして、どうしたんだそんなに大変な用事なのか?」

「…ああ」

水を向けられて、カルマは麗しい顔をしかめた。

「コードを探していまして」

「コード?」

きょとんとするオラクルに、カルマはため息をついて肩を竦める。

「ちょっと話したいことがあったんですが…電脳空間に逃げられてしまいまして。そのままもう、一週間、捕まえられないんです。エモーションに頼んでみたりもしたんですが、これが」

「エモーションにも捕まえられないのか。それはなかなかだな」

感心したように言うオラクルの声に他意はなく、カルマは苦笑した。

普段、一癖も二癖もあるひととばかり付き合っている身には、確かに「凶悪な」と付けたくなるほど素直だと感じられる。

「それで、どうしてここに?」

不思議そうに続けたオラクルに、カルマの苦笑が深まる。二重三重に鈍いひとだ。

「こちらにお邪魔していないかと」

「コードが?」

驚いたように問い返してから、思い当たったようにオラクルは眉をひそめた。

「まあ、来ていても不思議はないな…。よく、知らぬ間に入りこんでは、適当に過ごして帰っていくから…」

正規利用客に対しては、どこまでも鈍感な管理脳だ。

首を振ると、オラクルはふわりと浮き上がってカウンターから出た。カルマの前に立ち、優雅に手を振る。

「今、探査を掛けてみるから。少し時間がかかるから、カルマはそこのソファに座ってどうぞ」

来客用ソファを指し示されて、カルマは一瞬、躊躇った。

しかし結局、頭を振ると、どこか困ったような微笑みを浮かべて、高い位置にあるオラクルの顔を見上げる。

「オラクル、その前に…訊いておきたいことがあるのですが」

「うんなに?」

探査用のウィンドウを起動しようとしていたオラクルが、きょとんとカルマを見下ろす。

その無邪気過ぎる表情を気まずく眺めながら、カルマは首を傾げた。

「こちらに、今日、オラトリオが?」

来ているのか、と訊かれて、オラクルは身に纏う雑音色をわずかに瞬かせた。

慣れているものなら――それこそ、コードなどならわかっただろう。

その色は、寂しい、とか、恋しい、とかいう色だ。

だが、あまり生のオラクルと接したことがないカルマにはわからない。静かに答えを待つ。

「…来てないよ。来る予定もないけど。オラトリオにも、用事?」

「そうではないんです」

オラクルの返答に、どこか途方に暮れて、カルマは困ったように高貴な瞳を瞬かせる。

思慮深い彼はひどく躊躇ってから、おとなしく次の言葉を待つオラクルを見上げた。

「その、オラクル…。あなた、どうして、オラトリオのコートを着ているんです?」

「…」

オラクルが纏う雑音色が、主の内心そのままに、激しく明滅した。

これは詳しくないカルマにも、なんとなく意味がわかる。

動揺だ。

一瞬の明滅のあと、オラクルはわずかに天を仰いだ。

「忘れてた」

あっさり言って、肩に羽織っていたオラトリオのコートに手を掛ける。

大柄なオラクルでさえ大きい、たっぷりとしたコートを手に取ると、くるくると畳んでいった。

現実空間のコートであったなら絶対に無理な大きさまで畳むと、さらに圧縮をかけて手のひらサイズにし、データに変換して、胸につけた血色のブローチに仕舞う。

「休憩中だったんだ。うっかりしてた」

「ああ、それは…失礼しました」

恥じらいもしない、淡々としたオラクルの態度に、かえってカルマのほうが恐縮してしまった。

たぶん自分は、見てはいけないものを見て、してはいけない指摘をしたはずだ。

こういう場合の普通の反応といったら、照れるなり、逆上するなり、惚けるなり…まあ、なにかありそうなものではないか。

それが、一瞬、色を煌めかせただけで、あとは淡々としているとか。

これまで周りにいなかった、というより、存在することがあるとも思わなかったタイプ過ぎて、どうしたらいいか対応に困る。

「よかった、言ってくれて。コードに見られたら、怒られるところだったよ」

心底から安堵したように、オラクルは言う。

カルマは困ったまま、どうにか微笑んで首を傾げた。

「怒られるんですか?」

「うん。オラトリオに依存し過ぎだって。男子たるもの、もそっとしっかり己の足で立たんかって」

笑いながら言って、オラクルは探査画面を起動させる。自分が持っているコードのデータを呼び出して、<ORACLE>全体に探査を走らせ始めた。

「お茶淹れるよ。悪いけど、ほんとに時間掛かるんだ。カルマから隠れてるんだったら、分かりやすいところにいるとは思えないし…」

「ああ、お気遣いなく」

言いながら、示されるまま、カルマは来客用ソファに腰を下ろした。そのカルマの前に、茶器のセットが展開され、用意されていく。

「カルマが今いるのは、どこだっけ?」

「シンガポールですが…」

「そうか。シンガポールの気温は…――。そうだな、じゃあ、冷たいローズヒップティなんかおいしいかな。ガムシロップとミルクはどうする?」

「そうですね」

考えて、カルマは目の前に展開されるデータを読んだ。普通なら読み取りできるデータではないが、カルマは特殊だ。

分析結果は、再現率98%。

現実空間のお茶を、98%の確率で、プログラムとして再現している。

「あなたのおすすめはなんですか?」

ためしに訊いたカルマに、向かいに腰を下ろしたオラクルは、わずかに首を傾げた。

「きんきんに冷やして、ちょっと甘くすることかな。…でも、カルマはどうなんだろう。オラトリオが言うには、私は『子供舌』だから、なんでも甘くしたがるって。オラトリオなんかだと、甘くしないで、ミルクをたっぷり入れて飲みたがるよ」

どうすると問われて、カルマは小さくため息をついた。だが、それを目の前のひとに悟らせずに、そつなく微笑む。

「では、あなた流の飲み方で。きんきんに冷やして、ちょっと甘くしてください」

「わかった」

うれしそうに微笑む管理脳は、彼と話したひとすべてから、凶悪なほど素直で無邪気だと聞かされてきた。

たびたび<ORACLE>とコンタクトを取った限りでは、確かに知識偏重なところはあるが、そこまでとは思わなかったのだが。

「所詮は、副人格か…」

聞こえないようにひとりごち、カルマは早くコードが見つかることを祈った。

オラトリオ、と口にしたときの、オラクルの声の甘さ。

瞳に宿る光の、やわらかさ。

いたたまれなくなるほど、オラクルは甘く熱っぽく、オラトリオを語る。

オラトリオに依存していると、コードが怒るとオラクルは言ったが、おそらくは違うだろう。

あのきょうだいおばかさんは、オラクルがオラトリオに「熱を上げている」のをわかっていて、おもしろくないのだ。

さんざん、ひよっこの未熟者のと腐しているオラトリオに、かわいい「弟」が夢中なのが赦せないのだろう。

「どうぞ」

クラッシュアイスがたっぷり入った、トールグラスに注がれた深いピンク色の液体に、カルマはやわらかく微笑んだ。見た目からして、期待させるものがある。

「いただきます」

礼儀正しく断って、添えられたストローに口を付ける。

吸い上げると、濃厚なローズヒップの香りが鼻を抜けていった。たっぷりのクラッシュアイスで、これでもかと冷やされた液体が通ったあとには、重すぎないさっぱりした甘みが爽やかに残って、舌が心地よい。

甘くしてくれ、と頼むと、舌が爛れそうなほど甘くしてくれる地にいるカルマは、その上品な甘みに顔を綻ばせた。

「おいしいです」

こころから素直に言ったカルマに、向かいに座ったオラクルの顔が華やかに開く。

「よかった」

笑って、オラクルもまた、自分に淹れたお茶に口を付けた。にこにこと微笑む顔が、子供のようにも見える。

あのオラトリオと同じ顔であることは、自分のコンピュータ・アイにははっきりとわかる。

最新型で規格外のシグナルがさんざん、似てないってと騒いでいたが、比率や配置を突き合わせてみれば、悪意を感じるほどにオラトリオとオラクルの顔は同じだ。人間の双子だとて、ここまでの相似性はないというほどに。

だが、そこまでわかっていて、なお――オラトリオには感じない、かわいらしさを、オラクルには感じる。

似てないから癒される、より、似ているのに癒される、ほうが余程不思議だ。

緩むこころに苦笑いしながら、カルマは向かいでお茶菓子を選んでいるオラクルを、そっと見た。

「…あのコート…」

「ん?」

「…あれ、オラトリオの、ですよね」

オラトリオの衣装である、という以上の意味を持たせて訊いたカルマに、クラッカーのオープンサンドをお茶菓子に用意したオラクルが、やはり照れるでもなく笑う。

「うん。オラトリオのだよ。出かけるときに、貸してもらってるんだ」

衒いもなく言って、オラクルは身に纏う雑音色をあたたかに瞬かせた。

「あれ着るとね。オラトリオに抱きしめてもらってるみたいな気になって、落ち着くんだ」

「…」

訊いたことを、ちょっと後悔したカルマだ。

オラクルの声は邪気がなさ過ぎて、それこそ邪推なんてするのが恥ずかしくなるようだが、言っている内容を冷静に考えると、あまりにあまりな気がする。

冷静に、ごく冷静に考えて、オラトリオとオラクルはどちらも成人男性としてつくられていて、どちらかが子供というわけでも女性というわけでもない。

普通に言って、抱きしめてもらう必要も必然性もないのだが。

「香りが残してあるから、寂しいときとかも、ちょっとほっとする」

オラクルの声は甘い。そのうえ、言っている内容がどこまでもおかしい。

全身がむず痒くなるような心地に襲われて、カルマはわずかに身じろいだ。

シグナルがなにも言っていなかった以上、自分の推測は邪推でしかなく、それはオラトリオはともかく、オラクルにはとても失礼だ。

オラクルは笑って赦すだろうが、その兄と守護者は笑って看過はするまい。

敵に回すとどこまでも厄介な二人だ。以前タッグを組んで、さんざん好き勝手に掻き回された手痛い記憶は、生々しい。

またタッグを組まれたら、と考えると、油断している今のうちに奈落に埋めたくなる。

「ええと、その…」

言葉に詰まるカルマに、オラクルが顔を上げた。

「見つけた」

虚空を見つめ、つぶやく。

大いに救われた顔で、カルマはソファから腰を浮かせた。

「あああ、また、あんなとこ潜りこんで…っもう、どうしてこのアクセスキィはこうも勝手に、<私>の中を歩き回れるようになっているんだ?もう一度オラトリオといっしょに改訂し直さないと…!」

電脳の長老はどこに潜りこんでいたのか、穏やかなオラクルが盛大に顔をしかめて、ぶつくさ言っている。

「どこです?」

すぐにも飛んで行こうとするカルマに、オラクルは軽く手を振った。

「そこ」

「…」

指し示されたのは、なに変哲ない、執務室の傍らにそびえる本棚の一角だ。

だが、カルマにはわかった。

オラクルの手によって、直通回路が開かれ、空間が繋げられている。

普通ならもっと回りこんでアクセスしなければならない領域を、この執務室と直で繋げているのだ。

「コード何度言ったらわかるんだ<ORACLE>のどこでもそこでも勝手に入りこむんじゃないたまにはアクセス制限の意味も考えて、殊勝らしく引き返せ!」

ソファから立ち上がったオラクルが、がみがみ言いながら、指し示した一角へと歩いていく。

「すんなり迎え入れるほうが悪いんじゃい。小言なら、きちんと仕事をしていないひよっこガーディアンに言え」

こちらはオラクルとはまったく別の意味で、悪びれるということを知らない声が応え、繋げられた空間からひょっこり顔を出した。

まずは怒り顔の弟を見て、それから、その後ろで微笑むカルマを認める。

「げ」

「げ、とはなんです、げ、とは…」

ちっともまずくなさそうに行儀悪く吐き出した先輩に、カルマは笑顔を最大限に明るくした。

回れ右して出て行こうとするコードの襟首を、素早く掴む。

「ご挨拶じゃありませんか、コード…。一週間も逃げ回ってくださって」

「逃げてなんかおらんわい」

「おかげで、シグナルくんがエララくんとのんびり」

「なんじゃとぉお!!」

今度は別の意味で回れ右しようとしたコードのプログラムを、カルマはがっちり抑えこんだ。

「こら、放さんかい、カルマ!」

「まずは私との話し合いが先ですすみません、オラクル。会議室をひとつ、お借りできませんか」

空間の一部を貸してほしい、と頼んだカルマに、未だしかめっ面だったオラクルは、にっこりと笑顔に転じた。

「もちろん。…コード。細雪で斬って逃げてみろ。向こう三週間、おまえには茶も茶菓子もなしだ!」

「…」

そんな手ぬるい罰でいいのか、とカルマは脱力しかけた。

しかし言われたほうのコードは、細雪を取り出そうとしていた動きを止める。

「…ちっ」

舌打ちまでしておきながら、たかが三週間のおやつ抜きに従ってしまう。

呆れて瞳を見張るカルマをわずかに睨んで、コードは偉そうにふんぞり返った。

「おとなしくしていてやるから、そっちに茶を用意しろ君山銀針に、蘇州月餅だ」

「また、そういう…」

ぶつぶつ言いながら、オラクルが手元にウィンドウを展開する。

「カルマ、そこの『扉』からシフトできるから」

「ありがとうございます」

優雅に頭を下げ、カルマはコードを引きずって、「ど○でもドア」にしか見えない、執務室に忽然と現れた扉に手を掛けた。

開いて内側に入れば、きちんと応接セットの揃った小部屋になっている。

そして、ローテーブルの上には、中国茶器と月餅の乗った菓子皿。

「…あなた、甘やかされてますね」

思わずつぶやいたカルマの手を振り切り、先にソファに腰掛けると、長老はふんぞり返った。

「これくらいがなんだ」

言いながら、月餅に齧りつく。あっという間に一個を食べ終えて、ため息をついた。

「相変わらず…」

ぼやく言葉の先は見えない。カルマはわずかに首を傾げたが、そんな場合ではないと思い直した。

こちらだとて暇ではないのだ。しかも。

「よくも逃げ回ってくれましたね。おかげで、私がどれだけ苦労したか」

苦労の最たるものは、実に今さっき経験したところだ。

いたたまれない最たるものも、ついさっき。

それもこれも、コードがこんなところに逃げ込んだりしたからだ。

恨み節全開のカルマに、決して悪びれない長老は、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。