最上のガーディアン

守護者が降りてくる気配を感じて、オラクルはカウンターに広げた仕事の片をつけ始めた。

進行中のもののいくつかは副人格に割り当て、どうしても主人格である自分がやる必要のある仕事だけ残す。

それも手早に片づけている間に、図書館の中にオラトリオが転送されてきた。素早く組み上げられたCGは束の間揺らぎ、すぐさま安定して、オラクルに瓜二つでまったく違う彼の姿を映し出した。

「おかえり、オラトリオ…」

笑顔で立ち上がる。応えはない。あれ、と首を傾げて、気がついた。

物凄い、不機嫌。

「オラトリオ?」

「来い」

仏頂面で吐き捨て、命じるのみならず、オラトリオは乱暴にオラクルの腕を取る。

「えちょっと、なんだ?!」

強い力にカウンターから引きずり出され、図書館の奥へと連れて行かれる。

説明もないまま、永遠に続く本棚の果てに存在するプライベヴェート・エリアの扉の前へ。

「オラトリオ?」

カウンターに置いてきた仕事の処理を副人格へと回し、オラクルは癇癪を起す寸前のかん高い声を上げた。

仕事の邪魔をされるのは、好きではない。片がつくまで待てなかったのか、詰りたい。

だがオラトリオは構わず、厳重に閉められた錠を開くと、オラクルをプライヴェート・エリアへ押しこんだ。のみならず、主にオラトリオの休息のためにオラクルがつくった、キングサイズのベッドへ、オラクルのからだを放り投げる。

「いった?ちょっと、オラトリオ、おまえほんとに」

スプリングとクッションの利いたベッドに放り投げられたところで、大した痛みは感じない。それでも、乱暴に扱われれば腹が立つ。

すぐさま跳ね起きたオラクルの上に、コートの襟元だけを緩めたオラトリオが伸し掛かってきた。

その表情はまるで侵入者でも前にしたかのように冴え冴えと冷たい。

「…っ?」

かなりおかんむりだ、と気づいて、オラクルはオラトリオの下で身を竦めた。

なにがこれほど相棒を怒らせたのだろう。

高速でログを漁るが、こころ当たりがない。

とはいえ、この検索にはあまり意味がない。オラクルは世間知らずで、人の機微に疎く、なにが相棒の癇に障るかを今ひとつ理解しきれていないのだ。

鮮血色のブローチが外され、動揺するオラクルのこころのままに激しく瞬くローブが開かれる。シーツに縋った手に、手袋を外したオラトリオの手が滑りこんできて、痛いほどに強く握られた。

ここまで来れば、オラトリオがなにをしようとしているのか、鈍いオラクルでもわかる。

「待って、オラトリオ、なんで?こんな、いきなり」

「うるせえ」

不機嫌に言い捨てたオラトリオのからだが、オラクルへと沈みこんで来る。繋いだ手の境界線があやふやになる。解けていくオラトリオのくちびるが、悲鳴を上げるオラクルのくちびるを塞いだ。

***

オラトリオが侵入ってくる。境界が融けて、熱を持って。受け入れる準備も出来ていないオラクルがまず感じるのは、苦痛と恐怖。

怒っているオラトリオはいつもより熱く、全身がとげとげに尖って痛い。そんなからだで、オラクルの中へと強引に押し入ってくるのだ。痛みも怖さも普段とは比べものにならない。

「オラトリオ!」

手加減して、と悲鳴を上げるオラクルに、オラトリオは応えない。ますます深く侵入して、からだの中を荒らしまわる。

からだの中でオラトリオが膨張していくのがわかる。

熱量が半端ではない。

中から灼けてしまいそうな危惧に、オラクルは震え上がった。

オラトリオが決して自分を傷つけないことはわかっている。それは信頼ではなく、厳然たる規律だ。

オラトリオは決して、オラクルを傷つけない。

それがわかっていても、オラクルは恐怖に悲鳴を上げて泣いた。

今日のオラトリオは乱暴で、気遣いがない。いつものような甘やかさがなく、容赦なくオラクルを暴いていく。

「オラトリオ」

侵入したオラトリオによって、プログラムが掻き回される。

奏でられる音は調律が狂って、思考が掻き乱される。

オラクルを構成するすべてが、掻き崩される。

塞がれたオラクルのくちびるから、細い悲鳴が途切れずこぼれ続けた。

恐怖は空間を震わせ、苦痛は統御を揺らがせる。

「オラトリオ、おねがい」

ほとんどシステムダウン寸前まで追い詰められながら、それでも弾き出すことをせずにオラトリオを内に抱えこんだまま、オラクルはなにをともなく懇願した。

「おねがい、オラトリオ…」

恐怖と苦痛に塗り潰されながら、声が甘い。

追い詰められ、追い込まれながらも、守護者に対しての絶対の信頼がある。

悲鳴を上げ、泣き叫びながらも、揺るがない想いがある。

何度も懇願をくり返すと、無言で暴れまわっていたオラトリオが、ようやく言葉をこぼした。

「おまえは俺のものだ。おまえは俺のものだ、オラクル!」

叩きつけられる想いは、嫉妬。焦燥。怯え。

感じ取って、オラクルは乱れ飛ぶ思考を必死の思いで取り纏めた。

繊細で、傷つきやすい、半身。

だれかに、オラクルを取り上げると脅されたのかもしれない。

オラクルが取り上げられてしまうと、危機感を抱いたなにかがあったのだ。

追い詰められているのは、オラクルではなくオラトリオのほう。

「そうだ。私はおまえのものだ、オラトリオ」

苦しい演算を継いで、オラクルはオラトリオを抱きしめた。オラトリオは相変わらずとげとげしていて痛いが、原因がわかって恐怖は治まった。恐怖が治まれば、苦痛を堪えることも簡単だ。

オラトリオに欲されている。求められている。

それだけで、瞬く視界が煌めく。

飛び散らかった感覚を集めて、構成し直す。からだの奥に、じん、と痺れが走った。それは熱とともに全身に広がり、甘い吐息となってこぼれる。

「私はおまえだけのものだ、オラトリオ」

抱きしめて囁く声は、熱に浮かされて融けた。とろりと蕩けてオラトリオのすべてをやわらかに包みこむ。

「おまえだけが、私を好きにしていいんだ」

すべてを呑みこみ赦す言葉に、からだの奥でオラトリオの激情が爆ぜた。

***

「…だるい…」

オラクルはぶっすりとつぶやいた。

事後は常にだるいものだが、今日は無茶苦茶にされたこともあって、普段以上にだるい気がした。

ふかふかのベッドに沈みこんで目を開けているのもやっとで、手を上げるのすら億劫だ。滅多にないことだが、演算もきつくなっている。

「…悪かった」

顔をしかめるオラクルに背を向けて、ベッドの端に座ったオラトリオが小さく謝る。

「一時間くらい、奉仕に励め」

今ひとつ誠意に欠けたオラトリオの声に、オラクルはぴしゃりと命じた。

乱暴にしたことについて後悔していることは伝わるのだが、どこかで拗ねている感じもする。おまえが悪いんだぞ、と言い出しそうな、そんな気配。

案の定。

「そもそも、おまえが悪いんだろうが」

言った。

背中を向けたままで、顔も向けず、オラトリオは尖った声を出す。

逆ギレの拗ねモードだ。なんて性質の悪い。

「私がなにをした」

とげとげと訊き返すと、相変わらずそっぽを向いたまま、そのからだだけがぎしりと軋んだ。

「なにをしたじゃねえよおまえ、自分の立場がわかってんのかよ?!」

「立場?」

「<ORACLE>は上位者専用ネットだってことだよ!」

苛々と吐き出され、オラクルは首を傾げる。なにを今さら。

「当たり前だろう?」

それがなんだ、と訊き返すと、オラトリオはトルコ帽を跳ね飛ばして、きれいに撫でつけられたダーティ・ブロンドをがしゃがしゃ掻き回した。

「当たり前だじゃねえよ、よくもそんな口聞けたな、おまえ…!」

「だからなんなんだ。わからんぞ、はっきり言え」

あまり自覚はないのだが、鈍いことには自信を持っていいらしい。人の機微に疎いから、遠回しに言われても見当をつけることができない。

悪びれもせずに高飛車に訊いたオラクルを見もせず、オラトリオは明後日に吐き出した。

「信彦だよ。メル友ってなんだ!」

「…え」

単語の並びに、しばし意味を考える。

信彦。

メル友。

ややして、こころ当たり発見。

だが、そのうえで首を傾げた。

「なにって、メル友だけど」

「っがあ!」

オラトリオが天に向かって吼える。だんだんだん、と足を踏み鳴らした。

「<ORACLE>は上位者専用のクローズネットだって言ってんだろうがおまえと遣り取りできんのぁ、選ばれた登録者だけなのそれがなに一足飛びにメル友になってんだよ?!」

「それは、使ってみたいメールソフトがあったからだけど」

あっさり答えたオラクルに、オラトリオは再び吼えた。

というか、そろそろなんというか。

いい加減だるくて、一眠りもして掻き乱されたプログラムを落ち着けたいところなのだが、この守護者の様子ではそうもいかないらしい。

軋むからだに鞭打って、ゆっくりと起き上がる。

クッション性に富んだベッドにしたことが、今は少し悔やまれた。ふわふわして、眩む視界を定めるのが大変だ。

「どっちかっていうと子ども向けな感じだったし、おまえはそういうの使うの嫌がるじゃないか。だから、信彦に頼んだんだ」

「あのなあ、論点が違うゲームすんのはおまえの好きだ。メールソフト使ってみたいってのもおまえの好きだよ。だけどなあ、それは相手を選べ登録者でもない、規定要件をなんにも満たさない信彦に…」

そっぽを向いたまま言い募るオラトリオの首に、腕を回した。うなじから頬へと撫で上げ、頑なにオラクルを見ない顔を振り向かせる。

きつい言葉と裏腹な、気弱な表情。

手酷く扱ったオラクルからの、拒絶を恐れる残念な守護者。

頼りなく揺れる暁色の瞳を覗きこんで、オラクルはぶすっと告げた。

「抱っこ」

「…」

咄嗟に応じられない守護者に、オラクルは両手を伸ばす。

「だれかさんのせいで、だるいんだ。起き上がってるの大変なんだぞ。抱っこ」

「…」

重ねて命じても、しばらくの間オラトリオは微動だにしなかった。

だからといって自分から乗り上げることはせずに、オラクルは手を伸ばして、彼の守護者を待つ。

ややして、ため息とともに、オラトリオは態勢を整え、オラクルを膝の上に乗せた。

しどけなく広い胸に凭れかかったオラクルは、そっぽを向かれないようにオラトリオの頬に手を添え、不安に揺らぐ瞳を覗きこむ。

「私ははっきり言えって言ったぞ?」

「…っから…っ」

「違うだろう。そんなお説教がしたかったなら、あんなことする必要ない。痛かったし、怖かったんだぞ?」

「…」

ゆらゆら、いつも強気な瞳が揺れる。

激しい後悔と、それを押しのけるなにか強い感情。そんな感情任せに行動した自分への嫌悪感と、またそれを抑えこむ二重三重の感情の重ね。

放っておくと、この守護者はあっという間にストレスで使いものにならなくなってしまう。

葛藤を言葉にできないオラトリオに、オラクルは微笑んだ。

「嫉妬したって、言え。それだけのことだろう?」

「ってめえ」

引きつったオラトリオのくちびるに、オラクルは素早く口づけた。

渋い顔で黙りこんだオラトリオの頬を撫で、耳を引っ張る。

「嫉妬したんだろう信彦と私がメル友になって」

「…っ」

ぐるぐる、オラトリオの咽喉から威嚇音がこぼれた。そんな音が出るような構造ではないはずだが、限界を超えればなんでもできるものらしい。

しばし唸っていたオラトリオは、やがて、大きくため息を吐くと、微笑んで見つめるオラクルをきつく抱きしめた。

「そうだよ、嫉妬したよ俺に断りもなく、直通回線開きやがって。俺の知らないとこで、おまえがだれかと遣り取りしてるなんて考えたら、腸煮えくり返ったよそれが信彦だなんてわかった日にゃ、もう滅茶苦茶だ。おまえ、俺をストレスで殺したいのかよ」

「そんなわけないだろう」

最後は泣きつくようになったオラトリオに、オラクルはちょっとだけ反省してつぶやいた。

薄々思ってはいたのだが、やはりオラトリオに一言もなかったのがいちばんまずかったようだ。

職責と、それだけでもない独占欲の強さを考えれば、オラクルがだれかとこっそりメールを遣り取りしているなんて、驚天動地を通り越して焼灼地獄。

それほど大した話をしているわけでもないし、直通回線を開いたというのも少し大げさな解釈なのだが。

「黙っていたのは悪かった。おまえに言ったら、絶対赦してくれないと思って」

「赦さねえよ。当たり前のこと訊くな」

だから言わなかったんだってば。

すっかり俺様王様モードに入った守護者の背中に腕を回し、肩に頭を凭せかけて、オラクルは目を閉じた。

どんなに言葉を重ねても、オラトリオが納得することはない。それがオラトリオの職責であり、存在意義そのものだからだ。

侵入者となりそうなものはすべて弾く。なり得ないものは存在しない。なにがどう転ぶかわからないのが現実というものであり、人間というものだから。

警戒心と猜疑心の強さは並大抵のものではなくて、そしてそのすべてがオラクルを守るため。

そんなオラトリオを納得させることは不可能で、だからオラクルが取るべき手段は。

「初めてできたメル友なんだぞどうしてもどうしても赦せないか?」

「…いやだ」

甘える声でねだると、揺らぎながらも頑固に言い張った。

顔をすりつけて、背中を撫でる。上目使いに、明後日のほうを向くオラトリオを見上げた。

「外でのおまえの話がいっぱい聞けて、愉しいのに」

「…っ」

ぐら、と巨体が傾いだ。オラクルは指を立て、オラトリオの背中をなぞり上げる。

「信彦はおまえのことが好きだよな。おまえのことが好き好きって、文面からすっごく伝わってくる。よくもあれだけ懐かれたな?」

首から生え際へとなぞりながら囁くと、悪戯な手を掴み、オラトリオはオラクルの瞬く瞳を覗きこんだ。

「あのな、あれはシグナルが信彦の兄で、その兄貴の兄貴が俺だから、それで懐いたのなにしろ俺ってほんっとに包容力があるかっこいーおにーさんだから」

自分で自分を絶賛するオラトリオには、わずかにいつもの調子が戻ってきている。

オラクルは無邪気に微笑んで肯定した。

「うん。オラトリオはかっこいいよ。仲のいい兄弟だっていうのも、わかる。見てて微笑ましい」

「だったら」

「私を除け者にするのか?」

ずばっと言うと、オラトリオがまずいものを突っこまれた顔で黙った。

オラクルはその男前な顔をじっと見つめながら、おねだりと拗ねを微妙にミックスした甘ったれ声で、巨体を揺さぶる。

「私は確かにおまえの兄弟じゃないよだけど、おまえが好きなことはいっしょなのに。おまえがかっこいいんだって、おまえが好かれてるんだって、ああやって聞けるのってすごくうれしいのに」

「……俺の存在は秘匿されるべきもので…」

「当たり前だろ。おまえは私だけの守護者なんだから。おまえみたいに素敵かっこいい守護者がいるなんて広まったら、あちこちから引く手数多で、そのうちだれかに取り上げられてしまうだろ」

きっぱり言い切ると、オラトリオは複雑に歪んだ表情を浮かべた。

「当たり前なのかよ…。つうか、取り上げられるわきゃねえだろ。だれが俺らを引き裂けるってんだ」

「そうだ。だれが引き裂けるんだ?」

「…」

今度こそ本気で、まずいものを突っこまれて、そのうえ呑みこめと強要されて、しかも断れないという究極の状態に置かれた顔で、オラトリオは黙りこんだ。

オラトリオの頭の中で起こっているであろう葛藤を感じながら、オラクルは掴まれたままの手を口元に運ぶ。手袋を外しているために露わになっている形の良い指先に、てろりと舌を這わせてキスをした。

「くそぉ…っ」

「降参?」

微笑んで訊くと、オラトリオは一瞬、夜叉面になった。しかし、ため息とともに白旗を掲げる。

「わぁったよ。好きにしろ。ただし、特別監査対象にはするからな」

「それこそおまえの好きにしていいよ。ありがとう、オラトリオ」

こころから無邪気に微笑んで、オラクルは首を伸ばすとオラトリオの歪む口にキスを贈る。だが次の瞬間には、からだから力が抜け、オラトリオの膝の上で頼りなく崩れた。

頼もしく背中を支える手が、オラクルのからだを抱き上げて、優しい仕種でベッドに横たえる。

「悪かったよ」

今度はこころからそう詫びて、オラトリオはいつにも増して白いオラクルの額にキスを落とした。

「精いっぱい勤労奉仕してやるから、寝てろ。適当に片がついたら、起こしてやる」

「ん」

すでに微睡みながら返事をして、オラクルは重い手を伸ばし、頬に添えられたオラトリオの手を掴んだ。掌を向けさせると、くちびるを当てる。

「オラトリオ」

「ん?」

「大好き」

つぶやいて、微睡みの中で微笑む。

冷静さを取り戻した今、手酷い扱いをしたことを猛烈に悔やみだしているだろう守護者に、これだけははっきり言っておかないと、訳の解らない方向へ走り出す可能性がある。

わずかに沈黙したオラトリオは苦笑すると、自分の手を掴んだままのオラクルの手をひっくり返し、その甲に恭しく口づけた。

「愛してる」

囁きは届いたかどうか。

力を無くしたオラクルの手を丁寧にベッドに乗せ、オラトリオは軽い足取りで部屋から出た。