「オラクル………」

ため息をついて、オラトリオはカウンターの中に入ると、手を伸ばした。

「自己管理も仕事のうちって言葉を知ってるか」

「………ぅるさいな」

執務室のカウンターにからだを凭せ掛けているオラクルは、ぶすっとして応える。

そのオラクルのからだを軽々と抱き上げて、オラトリオはカウンターから出た。

向かう先は、永遠の本棚の果てにあるプライヴェート・エリア。

過度の仕事によって疲れ切ったオラクルを、休ませる必要があるのだ。

under the rose

「仕方ないだろう………こんなことが頻繁にあるわけじゃなし……ちょっとくらい、無理をしたって………」

「ここまで忙しいんだったら、俺を呼べばよかったんだ」

「…」

不満げな沈黙が返る。

言いたいことはわかっている。

オラトリオだって暇じゃないだろう、だ。

確かにここ数日間、手の離せない仕事に掛かりきっていた。オラクルにコールされたら、軽く舌打ちくらいしていたかもしれない。

だけど、それはそれ、これはこれなのだ。

舌打ちして、俺にだって仕事があんだよとは叫んでも、オラトリオはオラクルの元に駆けつけることに否やはないのだ。

こんなふうに疲弊しきって倒れてしまう未来が予測できるなら、自分の仕事が恐ろしいことになるくらい、なんでもない。

そのあとにはオラトリオがオラクルに泣きついて、ふたりでまた掛かりきりになるとしても――

「なんのための俺なんだか、わからなくなるだろう」

「そんなの」

静かに言ったオラトリオに、オラクルが瞳を尖らせる。

「おまえは私の補助プログラムじゃない。おまえは守護者で、<ORACLE>監察官だ。お互いに、お互いの、きちんとした職分がある!」

きつく言われて、オラトリオは少し反省した。

疲れきっているオラクルに、責めるようなことを言うべきではなかった。いつもよりこころが尖っている彼は、ちょっとしたぼやきまで大袈裟に受け取ってしまう。

「悪かったよ」

だから、素直に謝る。

オラクルはまだ不満そうに、けれど怠さに勝てずにオラトリオの腕に身を沈めた。

いつもならわずかに計算している荷重も放り出してしまったオラクルのからだは、持っているのかいないのかわからないほどに軽い。

心許なく思いながら、オラトリオはプライヴェートエリアへと足を踏み入れた。

オラクルがつくった、オラトリオのための特別サイズのベッド。

スプリングの具合もマットの硬さも申し分なく、羽根布団のふんわりとした感触も気持ちいいそこに、オラクルのからだを丁寧に横たえる。

「とにかく、まあ、休めよ。あとのことは俺が引き受けるから」

「…」

不機嫌に、オラクルは顔を背ける。

完全に機嫌を損ねてしまったかと、オラトリオは苦笑した。

癇性なオラクルは、小さいことですぐに腹を立てる。

それでもいつもなら、大して引きずりもせずにころっと気分を変えるのだが、疲れていると強情さが増して、怒りを引きずってしまう。

応えがなくても受け入れて、オラトリオはオラクルの頭を撫でた。

「じゃあ、っ」

「…」

離れようとした手が、オラクルの白い手に掴まれる。珍しくも痛いほどに指が食いこんで、からだを引き寄せられた。

「オラクル?」

引き寄せられるままに屈みこみ、どうした、と甘やかす声で訊けば、身に纏う色が複雑に跳ねた。

そうやって色を躍らせて、しばらく。

逡巡と躊躇い、葛藤の末に。

「…………ぃかないで」

「…」

ぽつりとこぼされた言葉は、力無く、あまりに弱々しかった。

聞こえなかった、といえば、そのまま赦されるほどに。

オラトリオの手を掴んで胸に抱きこみ、オラクルは顔をしかめて瞳を瞬かせる。

「そばに、いて。ねむるまでで、いいから…………」

今にも泣きそうに、掠れて潰れた声。

癇癪を起こしても、文句を並べ立てても、ほんとうには決して我が儘を言わないオラクルだ。

弱り切ってようやく吐き出されたおねだりは、ひたすらに愛おしさを掻き立てて、オラトリオの咽喉を塞いだ。

「………ねむる、までで、いいから………ねたら、もう…………」

黙っているオラトリオに、オラクルの声は切なく掠れていく。

オラトリオはベッドに腰掛けると、上体を屈めて、オラクルの目尻にキスを落とした。

くちびるの辿る先から、熱を追うように涙が零れる。

「………っばかっ」

「お互い様だ」

詰られても笑って、オラトリオは抱きこめられた手をオラクルのからだに添わせる。わずかに動かして、ねこにでもするように顎を撫でた。

「いてやるよ。こうやって、傍に」

「………」

ほろほろと涙をこぼしながら、オラクルはますますオラトリオの手にしがみつく。

「いかないで」

「ああ」

「ずっと、そばにいて…………わたしが、ねても」

「………」

嘆願に、オラトリオは咄嗟に言葉を返せずに息を呑む。

オラクルは一度きつく瞼を閉じ、くちびるを噛みしめた。

再び開いた瞳は、相変わらず涙をこぼしながら、けれど。

「う」

うそだよ、と続く言葉を皆まで言わせずに、オラトリオは自分のくちびるでオラクルのくちびるを塞いだ。

「ん、んんっ」

決意を揺らがせる荒っぽいキスに、くちびるを塞がれたまま、オラクルは嗚咽を漏らす。

キスで思考を止めさせて、オラトリオはわずかに離れると、涙を止められない瞳に口づけた。

「嘘にするなよ。俺が可哀想だろう」

「…?」

くちびるの辿ったあとから涙は舐め取られ、吸われて消えていく。

茫洋とした眼差しを向けるオラクルに、オラトリオは笑った。

「叶えてやれない願いでも、そうやって口にされるのはうれしいんだ。叶えてやりたいと身を灼かれて、叶えてやれないこころが押し潰されても、おまえにそうやって望まれることは、なにより歓びなんだ」

熱っぽく囁かれて、オラクルは震える。一度は放そうとしたオラトリオの手を抱く力がまた強くなって、弱々しい瞳に光が戻った。

見つめられて、オラトリオは静かに瞳を伏せる。

「寝るまでは、いっしょにいてやれる。これは約束できる」

「うん」

「でも、寝たら、仕事に戻る」

「…………うん」

縋りつく力が強くなって、オラトリオは幸福に笑う。

望むだけ、望まれる。

返される想いは、等分か、それ以上。

愛している以上に、愛されているのだと思えば、溢れる愛おしさは際限を知らない。

「おまえが」

愛おしさに咽喉を塞がれながら、オラトリオはオラクルを見つめる。

色が瞬く、華やかで、淑やかで、この世のなによりうつくしいひと。

「おまえが、起きるころ――戻ってきてやる。俺が、起こしてやる――ひとりきりで、目覚めるなんてことはない。こうやって」

言いながら、身を屈める。こめかみにキスを落として、悪戯っぽくウインクを送った。

「キスで、起こしてやるよ、お姫さま」

「……」

オラクルが瞳を瞬かせる。オラトリオをじっと見つめて、ようやく小さな笑みをこぼした。

「だれがお姫さまだ」

抗議に、オラトリオも笑い返した。

「キスで起こされるのはお姫さまだって、昔から決まってんだよ。それでキスで起こされると、俺と恋に落ちるって寸法だ」

「…」

しゃあしゃあと言ってのけるオラトリオに呆れたようになり、オラクルはゆるりと瞼を落とした。

「恋に落ちようがない」

「おいおい」

「もう手遅れだ。とっくに落ちてるんだから。そこからどこに落ちるっていうんだ」

つぶやいて、オラクルのからだから力が抜ける。

気が抜けると疲弊には勝てず、あっという間に意識が呑まれたのだ。

「…」

深い眠りに沈みこんだオラクルをしばらく見つめ、オラトリオは身を屈めた。

こめかみにキスをして、名残りの涙を溜めた目尻へと辿る。

「どこまでも、落ちろよ」

囁く、言葉は届かない。

わかっていて、わかっているからこそ、オラトリオは囁いた。

「どこまでも、決して戻れない深みまで落ちて、絶対に這い上がれないところに嵌まりこんで――」

眠ってすら、懸命に握りしめられる自分の手を引いて、いっしょに引き寄せられたオラクルの手に、恭しく口づける。

解けていく手を取って、衝撃を受けないようにそっと置いてやりながら、オラトリオは果てしなくやさしい声で囁いた。

「俺だけのものに、なっちまえ」