whole renew world

異常、というほどの異常ではないが、確かにいつもと違う感じがして、オラクルはカウンターから顔を上げた。

違和感がある。

だが、ハッカーというほどの不快感ではない。

ただ、どうもいつもと勝手が違うような…。

「…んー」

首を傾げて、<ORACLE>内に検索を掛ける。

やはり、ハッカーの感触ではない。そうではなくて…。

「あ、そぉか?」

ひとり頷き、オラクルは手を振ると目の前にウィンドウを呼び出した。データを元に簡単な折れ線グラフを作りだす。

「やっぱり」

データと自分の感覚が合致して、オラクルはひとまず安心した。

データは、ここ数十時間の<ORACLE>利用者の数を弾き出したものだ。

およそ五十時間ほど前をピークにして、利用者の数が急降下している。現在は、ほとんどいないといって過言ではない状態だ。

開店休業状態。

「…なんでだ?」

現実の図書館とは違い、<ORACLE>は全世界へと向けて、24時間、365日開かれた電脳図書館だ。

夜も昼もなく、一日、という区切りも曖昧に、全世界からの資料請求やデータ補助業務に応じている。

システム/オラクルが稼働し始めてしばらく経つが、その間、利用者の数は増えこそすれ、減ることはなかった。守護者システムも本格導入されて、それこそ目の回るような忙しさに追われていたのに。

「…大きな事故が起こったという話も聞かないし…」

折れ線グラフを消して、ウィンドウを増やすとさまざまな国のさまざまなニュースペーパを広げて現在の状態を確認し、オラクルは再び首を傾げた。

世界はみな、事もなしだ。

少なくとも、<ORACLE>をヘビィに使用しているような国には。

それにだいたいにして、現実でなにか大きな事件なり災害なりが起こって、オラクルへのアクセス制限がかかるようなら、たとえばそれがオラクルには理解できなくても、相棒のオラトリオがすぐにも知らせてくれるはずなのだ。

けれど、オラトリオはなにも言ってこない。

直近のログアウトが、今から七十三時間前。

そのとき、彼は確か、製作者の音井教授のお宅に行くと言っていた。そこからまたログインするから、と。

「…」

少し考え、音井教授の現在地を調べる。

百二時間前に、日本入りしている。その前にいたのは、シンガポール。

<ORACLE>プロジェクトが、オラトリオの精神安定をもって一応の終息を見たことで、音井教授は大きな仕事のほとんどを終えた。

以降、一年の半分を、永住すると決めた日本で過ごし、残り半分を引き継ぎの残るシンクタンクの本部があるシンガポールで過ごしている。

ついでに、オラトリオの入国記録も調べる。

こちらはわずか八時間ほど前に、日本入りしたことになっている。

空港から音井教授の家までのアクセスを調べると、世間知らずでも、かなり不便そうだとわかる数字が出た。

音井教授が終の棲家に決めた場所は、ずいぶん辺鄙な田舎なのだ。

「…教授と積もる話もあるだろうし……」

急な事態の変化がないなら、オラトリオだってのんびりするだろう。便りがないのは良い便り、という言葉どおり、彼がなにも言ってこない以上、世界的な情勢に大きな変化はないということだ。

「…」

それにしても、まばらだ。

図書館のモジュールをつくってそこに利用客をばら撒き、オラクルは顔をしかめてそれを眺めた。

永遠の広さを持つ<ORACLE>が、ピーク時であっても『芋洗い』状態になることはないが、それにしても。

ふいに空間が揺らぎ、オラクルははっと顔を上げた。

巨大なデータが降りてくる。

オラトリオだ。

「悪ぃ、遅れた!」

CGが安定する間もなくそう口走ったオラトリオに、オラクルは身に纏う色を瞬かせる。

遅れた?

なにに?

やはり、なにか大きな災害があって――

だが、不安に揺れるオラクルを見もせずに、オラトリオは腕を振るとデジタル時計を呼び出した。刻々と刻まれていく数字を見つめ、小さく拳を握る。

「おし、間に合った!」

「オラトリオ?」

眉をひそめ、オラクルはオラトリオへと歩み寄る。

オラトリオの様子からは、どうにも深刻さが感じられないのだが、いったいなにがどうなって。

オラトリオが展開したデジタル時計を覗きこんだところで、数字は00:00を弾き出した。

「A HAPPY NEW YEAR!」

「…?!」

朗々とした歓声とともに、オラトリオの杖から冗談のように万国旗と紙ふぶきが飛び出した。

その杖は確か、オラトリオの大事な攻撃プログラムでもうひとりの相棒のはずで、おそらく音井教授が見たら泣くだろう扱いだ。

…A Happy New Year?

オラクルは唖然として紙ふぶきにまみれながら、オラトリオの言葉を考えた。

確かどこかで聞いたことのあるフレーズだ。

なにか、挨拶のひとつじゃなかっただろうか。この間体験した、クリスマスのときの決まり文句、Merry X'masに似た。

どこまでも呆けているオラクルに、オラトリオがやれやれと笑った。

「やっぱりわかってなかったか。今日…いや、日本の現地時間、わかるか?」

「日本の現地時間?」

言われて、検索する。答えはすぐに出た。

「一月一日、午前零時…」

「そこまででいい。な一月一日。わかんねえ?」

「えっと、新しい年になったな。日本は今からにせん…」

「この世間知らず!」

どこまでも淡々と言うオラクルに、オラトリオは天を仰いだ。

オラクルはわからない顔で、そんな守護者を見つめる。

新しい年になると、なにか始まるプロジェクトやプログラムでもあっただろうか。いや、プロジェクトやプログラムはいつの年でも新しいものが企画されているものだが…。

「おまえ、クリスマスの学習を忘れたのかよ。新年、一月一日っつったら、多かれ少なかれ、世界的にイベントだっつうの」

「…そう、なのか?」

「そうなんだよおまえなあ…俺が飛んできたっつうのに」

盛大にぼやかれて、オラクルは戸惑った顔で首を傾げた。それからはたと思い至って、さっきつくった折れ線グラフを取り出す。

「もしかして、<ORACLE>の利用者が極端に減少しているのって、それに関係あるのか?」

「あ利用者が減少だあ?」

怪訝な顔をして、オラクルがつくった折れ線グラフを一瞥したオラトリオは、ため息をつくと肩を竦めた。

「まあ、時差や暦の関係もあるから、完全に利用者がいなくなるってこたあねえんだけどよ。新年一月一日くらい、仕事しないで休みたいってのは、世界共通認識だな」

「そう、なのか?」

不思議そうに見上げたオラクルに、オラトリオはトルコ帽を取ってダーティブロンドを掻き混ぜると、やさしく笑った。

「新年をどれくらい派手に祝うかは、それこそ宗教や使用している暦によって変わるんだけどよ。まあ、現在のとこ、世界標準になってる暦に従って、政治も経済も動かざるを得ないからな。とりあえず、あと三十時間くらいは利用客が少ない状態が続くと思うぜ」

「そうなのか…」

感心してオラクルは頷いた。

昼も夜もなく、正確な暦も季節も把握しないでニュートラルに動いている彼にはいまいちピンと来ない話だったが、要するに、ハロウィンやクリスマスなどと同じ、世界的な流れのイベントディだと考えればいい。

そしてハロウィンやクリスマスよりもなお一層、この日は人間は祝いにかまけて仕事を放りだすのだと覚えれば、今後の対処もしやすい。

――という、身も蓋もないメモを作成したオラクルから、オラトリオが一歩、距離を取る。

「オラクル」

「ん?」

改まった声で呼ばれ、オラクルはきょとんとしてオラトリオを見つめた。

ひどく真剣な顔をした守護者は、掻き混ぜてぐしゃぐしゃにした髪を軽く撫でつけると、トルコ帽を被らずに胸に当て、優雅な仕種で跪いた。

「至らない守護者だが、今年も一年、よろしく頼む」

「いたらないって」

そんなわけがない。オラトリオが至らなかったら、今頃<ORACLE>からはデータが盗まれ放題、やられっぱなしの泣き寝入り状態だ。

いつも強気な守護者がなにを言い出すのかと、オラクルは身に纏う色を鮮やかに瞬かせる。

ほとんど視覚への暴力であるその色の氾濫を軽く一瞥し、オラトリオはいつもどおりに笑うと立ち上がって、トルコ帽を頭に乗せた。

「おまえは定例句ってもんを覚えろ。新年にはな、こうやって、今年も一年よろしくお願いしますっていう挨拶を交わすもんなんだよ」

「…あ、ああ……なんだ。挨拶か……」

オラクルには今もって、使いどころがよくわからない代物だ。とりあえず、見てわかりそうでも、元気かい、と訊いたり、今日はいいお天気ですね、と言い出したり。

ほっと胸を撫で下ろして、しかし、オラクルは恨みがましい目で、呆れたようにしているオラトリオを見上げた。

「でも、挨拶でもないよ……オラトリオが、至らない、なんて」

「そうだな。俺もそう思う」

あっさり言って、オラトリオは笑った。

「けど、未熟なのはほんとうだ。なんせ、本格稼働して一年経ってねえんだぜ。与えられた能力を活かしきるだけの経験値が、圧倒的に不足してる」

淡々と言う声に、自虐の響きはない。むしろ、力強くさえ聞こえる。

不思議そうに見つめるオラクルへ、オラトリオは手袋を外した右手を差し伸べた。

「そういうこともきちんと自覚したうえでな。俺は電脳最強のガーディアンとして、おまえを守り抜くために研鑽し続けるって、誓ったんだ。まだ至らない、だから努力を惜しまない、決して慢心しない。そういう意味」

「…」

手袋を外してさえ白い手を見つめ、オラクルは束の間迷った。

握手した手を振りほどかれた記憶は生々しく、そのあとに吐き出された言葉は鮮明に残っている。

オラトリオは驚異的なほど辛抱強くオラクルを待ち、オラクルは恐る恐ると手を伸ばして、白い手を取った。

「…よろしく」

あの日も言った言葉を、もう一度、つぶやく。

「ああ。よろしく」

あの日とは違う強さで、オラトリオが言葉を返す。

握った手が振りほどかれることもなく、そこには笑顔がある。眩しいほどにやさしく、頼もしく輝く笑顔が。

ようやく笑ったオラクルの手を引き、オラトリオはそのからだを胸に抱きこんだ。

「一年とは言わず、どうか、永遠に守らせてくれ」

囁かれた言葉に無邪気に笑い、オラクルはオラトリオの胸にすりついた。

ここは世界でいちばん安全で、安心できる場所。

オラクルがこころから安らげる、唯一の場所。

オラトリオにとってのオラクルも、そうであればいいと思う。自分にはオラトリオを守る力がないから、そんなことは無理だとわかっているけれど…。

少しでも、こころ緩む場所になりたい。

わずかでも、こころ和む存在になりたい。

「ふつつかものですが、よろしくおねがいします」

「…っ」

オラクルが挨拶辞典から引っ張り出してきた返答に、オラトリオは撃沈させられた。