最新型であるシグナルの戦闘力は飛躍的に向上している。

はずだ。

が。

誰が為の冠

「くっそう、オラトリオぉにょろにょろにょろにょろとぉおおお!!」

「いやだねえ、シグナルくん。ひとを軟体動物みたいにおにーさんれっきとした甲殻類よ♪」

「いや、オラトリオ、甲殻類って……」

リビングで暴れるシグナルと、それをさらさらと躱すオラトリオを眺めながら、パルスが呆れのため息をつく。

出会ったときから、いい加減さがまったく損なわれることのない兄だ。いっそもう、尊敬だ。

シグナルとパルスが暴れると、もれなく音井研究所のリビングは廃墟と化す。

しかしシグナルの攻撃を受けても、きれいに力を流すオラトリオの戦い方だと、せいぜい小物が割れる程度で、リビング大破には至らない。

パルスとて戦闘型としてつくられて、それこそ強くなるためにシグナル以上に研鑽を積んできた身だが、決して戦闘型ではないオラトリオに勝てた試しがない。

彼ほどにスマートな戦い方ができた試しもないし、いったいどうなっているのかと叫びたくなる気持ちは十分わかる。

「でぇええええいぃいい!!」

「やっはー、シグナルくん、ばかのひとつおぼえー」

「ぶぎゃ!!」

笑いながら、オラトリオはシグナルの攻撃を流す。

自分の攻撃の勢いで床に沈みこんだシグナルは、すぐさま起き上がると、一見隙だらけで立つ兄をきりりと睨みつけた。

「…」

「うふふん♪」

SIRIUSとMIRAを使ったことで、従来のロボットより遥かに優れた情報処理能力と情報集積力を持ったシグナルだが、残念なことに未だにそれが使いこなせていない。

従来のロボットと変わったところ、といえば、感覚器や思考形態なども大幅に変わったらしく、積んだ経験をそのまま素直に反映できないのだ。

これまでの状態を見てみると、どうも、一か八かの場面まで追い込まれて、ようやく学習したものの集大成が発揮できているレベル。

普段、彼の監督をしているコードなどはもはや、それも才能のひとつとして諦めかけている。

「オラトリオは…から………で」

「お?」

それでもこの兄にずっと負け越しているのは、さすがに悔しいらしい。

パルスと戦うときには決してやらない情報分析を高速でやり始めたシグナルに、オラトリオがにんまり笑う。

感覚的であるのは、この最新型のなによりの特徴で、長所だ。

だが、いつまでもそれだけで押し通していては、先に進めない。

「…っ」

「っ」

考えこんでいた、と見えたシグナルが、唐突に沈み込み、素早くオラトリオの懐へと潜りこんで来る。予測不可能の動きを、しかしオラトリオは驚異的な反射速度で避け、逆にシグナルへと手を伸ばした。

だが、シグナルのほうもそこは予測したうえでの攻撃だ。オラトリオの手を完全に躱すと、傾けたからだの回転を活かして、腹へと鋭い蹴りを飛ばす。

とはいえこれも、オラトリオには避けることが可能――な、はずだった。

その先へ、その先へ。

シグナルは少なくとも、三十手先までは組み立てていったのだ。

そのどこかで、『オラトリオは戦闘型ではない』という最大の弱点が、ネックになるところが来る。

そこへ畳み掛ける。

――というのが、珍しくもシグナルが本気で考えた作戦だった。

しかし。

「っと!」

「え?!」

高速の蹴りは、人間の目には捉えることが困難でも、オラトリオのコンピュータ・アイには、止まっているくらいに見えたはずだ。

確かに、それを受けようとする姿勢を、取った。途中まで。

だが、オラトリオはその一瞬、壮絶に顔を歪めると、動揺も露わに気を逸らし。

「お…」

パルスが小さく声を上げ、身を乗り出す。

シグナルよりもずっと大きなオラトリオのからだが、軽々吹き飛んでソファにぶち当たる。

決して戦闘型ほどに衝撃に強くないオラトリオが飛んだ先が、ソファだったのは幸いだった。まったく無傷とはいかなくても、少しはダメージを殺せたはずだからだ。

「あ…」

シグナルが、呆然と立ち尽くす。

ソファに沈んだオラトリオは束の間、身動きもせずにからだに叩きこまれた衝撃をやり過ごし、しかしすぐに立ち上がると、厳しい顔で落ちたトルコ帽を拾った。

そのまま駆けだそうとして、立ち止まる。

余裕がないとあからさまにわかる顔に、それでもいつものおちゃらけおにーさんの笑みを浮かべると、立ち尽くすばかりでなにもできないシグナルへウインクを飛ばした。

「悪ぃ、オラクルが呼んでんだわ。この続きは後でな」

「ハッカーか」

自失状態のシグナルに代わって短く訊いたパルスに、オラトリオはブイサインを残して、リビングから駆けだして行く。

見送ると、パルスは立ち尽くすシグナルの元へ行った。

ようやく、念願の一発を入れられたのだ。いつもの彼なら、躍り上がって歓び、うざったいほどに勝ち誇っているはずだ。

だが今、シグナルの顔にあるのは、激しい痛みだけだった。

「シグナル」

声を掛けたパルスに、シグナルは潤んだ瞳を向ける。

「止められなかった」

「…」

声まで潤んでいる。

パルスは無言で、続きを促した。

「わかったんだ。オラトリオの様子がおかしくなったって。いきなり集中が切れて、思考が乱れた。きっとオラクルのとこにハッカーが来て、呼ばれたんだって、そこまでわかったんだ。ああいうとき、オラトリオはすごく痛そうな苦しそうな顔をするし、実際、すごく辛いんだって聞いたことがあるから。わかって、……わかったのに」

プライドの高いお子様は、今にも泣きそうな顔で、オラトリオが吹き飛んだソファを見る。

シグナルの蹴りは、きれいにオラトリオの腹に入った。

戦闘型ロボットの、手加減することのない蹴りだ。たとえ二メートル超の巨漢でも、軽々吹っ飛ばす。

確かに、それが目的だったけれど。

「止められなかったんだ、僕は。僕の相手してる場合じゃないって、早く行ってあげてって思ったのに。からだが」

よくも悪くも最新型で、戦闘型だ。

現場の変化に即応して攻撃を変えることができるのは、ごく当然のことだ。どんなに勢いよく入れた蹴りでも、寸前で止められる。

その能力があるのだ。

「…おまえが未熟なことは、あちらだってわかっている。恨みはしないだろう」

「…」

不器用過ぎて喧嘩を売っている言葉を、本気で慰めの言葉として発したパルスは、戦闘に特化し過ぎてほかの部分が疎かになっている。

だが戦闘に特化しているからこそ、わかることもあった。

確かに、止められなかったシグナルにも責はある。とはいえシグナルの分析では、たとえそうなったとしても、オラトリオは今の攻撃を流せたはずなのだ。

だから、きっと流されるという予測のもと、止めることなく攻撃を続けた。

その攻撃が、オラトリオには止められなかった。

パルスの分析では、それこそ、シグナルが戦闘型として成長している証だ。

シグナルの戦闘力に、戦闘型ではないオラトリオが相手をし続けるのは、そろそろ限界が来ている。

少なくとも、ああいった危急の事態が起こったときに、もう彼は、シグナルを躱しきれないのだ。

シグナルに全精力を傾けられるときには、まだ負けはしないだろうが……。

「未熟だって、生まれたばっかりだって言っていられる年齢は、もう過ぎたよ」

「…」

プリズムパープルの瞳に透明な決意を乗せて、シグナルはパルスを見つめた。

どこまでも強く未来を見据える瞳。

それこそが、なによりも従来型のロボットたちと違うところだろう。

「オラトリオが帰ってきたら、謝る。たぶん、すごくばかにされるけど」

「まあ、そうだな」

なにを言われるかはだいたい予想がついて、しかし、パルスは珍しくも微笑みを浮かべて、成長著しい弟を見つめた。

「そこからやり直せばよかろう」

「うん」

頷く弟がどこまで行くのか。

愉しみでもあるし、負けたくない気持ちもある。

だが総じて、悪い気はしない。

パルスは手を伸ばすと、一回り小さい弟の頭を撫でた。

***

「たっでーま☆」

明るい声で<ORACLE>執務室に入って来たオラトリオを、迎える声はない。

オラトリオは瞬間苦く笑うと、ずかずかと歩いていき、カウンターの内側を覗きこんだ。

「よ、相棒。お仕事してきたおにーさんに、一言☆」

「……おかえり」

小さい声が、儚く応える。

うずくまって懸命に自分を抱きしめるオラクルに、オラトリオは愛用の杖を振って、ウインクを飛ばした。

「かーるいもんだったぜ。楽勝♪」

「…ん。ありがと」

いつも白い顔をさらに白くしたオラクルは、強張ったまま、それでも精いっぱい笑おうとする。

オラトリオはカウンターを飛び越えると、そのオラクルの傍に行った。

「……ごめん」

「なにが」

抱きしめると、泣きそうな声で謝った。それに冷たいくらいに返して、オラトリオは震えるオラクルを、さらにきつく抱きしめる。

トラウマの克服は容易ではない。

それでも、システムダウンまでしていた過去から考えれば、確実に回復していると言える。

それもこれも、オラトリオが必ず助けてくれるという、全幅の信頼の元に。

身を守る術を与えられなかった屈辱とともに刻まれた恐怖と悲嘆を、オラクルはオラトリオへの信頼で癒していっている。

愛おしさが溢れて、オラトリオは歯を食いしばった。

あまりに強い感情は、オラクルを戸惑わせる。

あくまで付帯的な意味合いの感情しか持たないオラクルに、強い情動は理解できない。

「…オラトリオ」

震えていたからだが落ち着き、オラトリオの胸にそっともたれかかってくる。

「ありがとう」

囁きとともに、顔を上げたオラクルのくちびるが近づいてくる。そっとオラトリオの頬に触れて、笑った。

「おいおい。ナイトへの礼は口にって、決まってんだろ」

笑って強請ったオラトリオに、オラクルも笑って、触れるだけの軽いキスがくちびるへと、改めて贈られた。

感覚まで繋ぐことはせずに、オラトリオはオラクルを放すとカウンターから出た。

「仕事、大丈夫か今、どこにいたんだ?」

立ち上がったオラクルが、いつもどおりに心配そうに訊ねてくる。

オラトリオはウインクとともに、親指を立てた。

「オフだったんだ。ちょうどシグナルと遊んでてな」

「遊んでって……」

オラトリオの弟への扱いを知っているオラクルは、軽く眉をひそめた。

おそらく、遊んでいると思っていたのはオラトリオだけで、シグナルのほうは本気で歯噛みして地団駄踏んでいる事態だったはずだ。

そこまで言って、ふと思い出したオラトリオは、軽く腹を撫でた。

ここは電脳空間だから、そこに受けたダメージは、正確には残っていないのだが。

「蹴り入れられたぜ」

「また余計なことでも言ったんだろう」

困ったやつだ、とでもいうように応えてから、オラクルは瞳を瞬かせた。身に纏う雑音色が、忙しなく色を変える。

「…えシグナルの蹴りが?」

「さすがは戦闘型だぜ。重さが違う」

笑うオラトリオは、電脳空間にダイブする前の弟の顔を思い出していた。

歓ぶどころか、痛みに自失していた、あの顔。

シグナルは無邪気に信じ込んでいたはずだ。オラトリオが攻撃を避けることを。

だから、異変には気がついても、攻撃を止めなかった。

その攻撃が、思いもよらず入ってしまった。

おそらく彼は、自分が未熟なゆえに、事態に即応できなかったと考えているだろうが――。

これまでのシグナルの経験から考えて、オラトリオがあの場面で攻撃を受け流すと予想するのは、無理からぬことだ。

オラトリオだとて、躱すつもりではいた。

だが、応じきれなかった。

シグナルの戦闘型としての本気に、非戦闘型のからだがついていけなくなってきているのだ。

それでも、意識のすべてを傾注できるなら、まだ負けはしない。

それは言い換えれば、傾注しなければ勝てなくなってきているということに、他ならない。

「そのうち、俺なんて軽く捻るようになるんだろうな」

大して堪えた様子もなく、オラトリオはつぶやく。

シグナルの企画書が出されたときから、予測していた未来だ。

とうとう、自分の情報処理能力だけでは追いつけない相手が出来る。

――出来上がってみれば、バグロボットのうえ、感情過多で、どうしようもない理想先行型の正義漢で、まったくもって拍子抜けするくらいのおマヌケさんだったが。

持って生まれた性格と思考形態のせいで、だいぶその未来に到達することが遅れているが、いずれ辿りつくことだけは確かだ。

先へ先へと進むことが定められている世界で、自分がロートルとなっていくことは、初めから織り込み済みの諦念だ。

「…それで?」

「ん?」

ソファに座って懐旧を愉しんでいたオラトリオの目の前に立って、オラクルが不穏な顔で促す。

「おまえは、負けたいのか?」

「負けたいとか負けたくないじゃなくて…」

説明しかけて、気がついた。

オラクルが言いたいのは、そんなことではない。

一度天を仰ぐと、オラトリオは不敵な笑みを浮かべてオラクルを見返した。

「現実で負けるがなんだ。電脳空間最強の冠まで、あいつにくれてやる気はねえよ。<ORACLE>を守る電脳空間最強の守護者は、最新型ごときに負けるを良しとするほど、人が好くないんでね」

尊大に言うオラトリオを、オラクルは疑り深そうに見ている。

そのオラクルへ手を伸ばし、からだを引き寄せると、オラトリオは力強く宣言した。

「俺ひとりの冠ならともかく……それは、おまえを守るための冠だ。おまえ在る限り、俺は最強で居続けるために、なにも惜しまない。躊躇わない。挫けもしない。おまえには、だれも触れさせない。だれも」

「…」

オラクルの渋面はそのままだが、身に纏う色が、ごく素直に喜色を刷いている。

胸に抱きこんだオラクルへ甘く笑い、オラトリオは常に無防備なくちびるへとキスを贈った。

境界を融かしてプログラムに潜りこむと、軽く感覚を揺さぶる。

「…ん」

オラクルがやわらかく啼いて、オラトリオのからだへ腕を回す。

「…今、時間あるか」

くちびるを解いて訊いたオラトリオに、オラクルはわずかに考える顔になった。簡単にサーチが済み、結論が出される。

どこか困ったように、オラクルはオラトリオにしがみついた。

「あるみたい」

「よっし」

小さくガッツポーズすると、オラトリオはオラクルのからだを軽々と抱え上げて歩き出した。

執務室の奥、永遠の本棚の果てに隠された、プライヴェートエリアへと。