「っはははははははは!!!」

弾けるように、笑い声が轟く。

そもそもが朗々として美しい声だ。空間を揺らがすかのように、どこまでも響き渡った。

静謐でなければならない、電脳図書館<ORACLE>にはまったく相応しくない、大音声。

者の賢察

「なにがおかしい!!」

それに対して叫んだのは、空間統括者だ。カウンターの向こうで、身に纏う色を火花でも散りそうなほどに煌めかせ、全身で怒りを表現する。

「だってよ、オラクル…」

笑い声の主、オラトリオは、まだ笑いの発作に引きつりながら、癇癪を起こしている統括者、オラクルを見やる。

「嘘だって、わかりそうなもんじゃねえか。エイプリルフールだぜ?」

「わかるかおまえの嘘はわかりにくいんだ………………えいぷりるふーる?」

憤懣やるかたないと叫んでから、オラクルは一転、あどけない表情を晒した。

「えいぷりるふーる………?」

検索が動き出すのがわかる。

「なんだ、知らなかったのか?」

その様に、オラトリオはわずかにばつの悪い顔になった。

学問的な知識に於いては他の追随を赦さないオラクルも、年間行事や人間のしきたりといったこととなると、とんと疎い。

オラトリオがなにかしら催すたびに、「なんだそれどうしてやるんだそういうものなのか?」のなぜなぜなあにな幼児返りを起こすオラクルだ。

そのうえ、一年三百六十五日、二十四時間、世界中と繋がっている彼は、カレンダーに鈍感だ。本拠地こそシンガポールに置いているものの、感覚的にはどこの時間にも属していない。

今日は何日だからアレの日、と言うと、でもあそこは何日で、あそこは何時で、と返されるのがオチ。

最近ではオラトリオも学習して、やりたい行事があれば、やりたい日に勝手に催すようになってきた。

だから今日も、適当な場所の適当な時間を拾って、エイプリルフールを愉しんだのだが――

「うそをついてもいい日……………なんだか、人間の行事って、ときどき理解不能だ………」

「ときどきじゃなくて、頻繁に理解不能だろうが、おまえ」

つい、容赦なくツッコんでしまった。

検索を掛けていたときの常で茫洋と霞んでいたオラクルの瞳が力を取り戻し、きっとオラトリオを睨む。

ああ、やり過ぎたかも、とは思っても、生来負けず嫌いで、たとえオラクルが相手でも、そうそう素直に振る舞えない。

「…………つまり、さっきの嘘は、嘘をついてもいい日だからついた、お遊びだって言うんだな」

「……………まあな」

据わった目で確認されて、答えが及び腰になった。

基本的におっとりしていて、癇癪は起こしても怒りに駆られることはないオラクルだ。

しかしこれがたまに怒ると、とても怖い。そのうえとても強情で、面倒くさい。

黙って見合うこと、わずか。

オラクルが、こっくり頷いた。

「わかった。ならばこれから、私は嘘をつく」

「は?!」

胸を張っての堂々たる宣言に、オラトリオは目を剥いた。

どこに検索を掛けて、なにを学習したのか知らないが、エイプリルフールのなんたるかをまったくわかっていない。

エイプリルフールというものは、あくまでも秘密裏に、緊張感を持って、騙し騙され、出し抜き合う行事だ。

これから嘘をつきます、はいどうぞ、結構なお点前で、と礼儀正しく挨拶し合う、なにかのお作法ごとではない。

「あのな、オラクル、おまえ……」

「オラトリオ」

エイプリルフールのなんたるかを説こうとしたオラトリオを、オラクルは怖いくらいに真剣な瞳で見つめた。

身に纏う色が、静かにたぎらせる、なにかの感情――

カウンタの中からふわりと浮かんで出てくると、オラクルは毅然としてオラトリオの前に立った。

わずかに低い背。

見上げてくる瞳は、どこまでもきれいで不安定なノイズカラー。

状況も忘れて、見入ってしまう。

いつでも魅入られる、麗しくいとおしい、

「好きだ」

「は?」

「おまえのことを愛している。世界でもっとも賢く、うつくしく、強い、私だけの守護者」

「…………っっ」

目の前が暗くなって、オラトリオは揺らいで傾いだ。

嘘をつくと、宣言して、吐かれた睦言。

つまり、言葉すべてすべて、裏返せ、ということだ。

おまえのことなんてきらいだ。

世界でもっとも愚かで、みにくく、弱い――

たとえお遊びだとわかっていても、嘘だと宣言されたうえで吐かれた言葉だとわかっていても、受ける衝撃は果てしなかった。

嘘でも、言われたくないことがある。

嘘でも、受け入れられないものがある。

どんなに軽い気持ちで吐かれた嘘だとしても――

「どうしてそんな顔をするんだ、オラトリオ私はちゃんと『嘘』だって言ったぞ?」

無邪気な声音で訊かれて、本気で泣き伏すかと思った。

やっぱり、エイプリルフールのなんたるかをわかっていない。

こんな嘘は駄目だ。

エイプリルフールの嘘は、あくまでも、愉しく、最後に笑えるものでなければ。

あとで、嘘だよ、ほんとうは言葉どおりだ、などと言われても――

「…………おまえは酷い」

ようやくつぶやいたオラトリオの頬に、オラクルは手を伸ばした。

「私の気持ちが、ちょっとはわかったか?」

「…………」

撫でられて、その感触も鬱陶しく感じる。

ほんとうは、こころの中では、俺のことをきらっているくせに、俺のことを疎ましく思っているくせに――

そう喚く、思考が重い。

「……………俺が、悪かったんだろ」

それでもどうにか吐き出したオラトリオに、オラクルは軽く眉をひそめる。

「反省が足らないな」

「…」

反省などしていないから、当然だ。

責める言葉だけが思考を埋めて、それ以外なにも思い浮かばない。

そのオラトリオに、オラクルはやわらかな笑みを浮かべて伸び上がった。

「でも、おまえのほうがずいぶん傷ついたみたいだから、これで赦してやろう。――なあ、オラトリオ。どうしてそんな顔をしているんだ私はちゃんと、嘘をついただろう?」

「っ」

だから、その『嘘』が問題なんだと。

堪えきれずに吐き出す前に、オラクルのくちびるがオラトリオのくちびるを塞ぐ。

軽く触れただけで離れて、オラクルはあたたかく瞬く色でオラトリオを覗きこんだ。

「なあ、オラトリオ?」

「………」

再三、促されて、オラトリオはようやく、なにかおかしいことに気がついた。

たとえどんなに怒り狂っても、癇癪を起こしても、ほんとうに言ってはいけないことは、決して言わないオラクル。

その選択は、どんなときでも揺らがず、崩れず、神の寵を受ける聖女の貞操よりも堅固に、守られる。

その、オラクルが――オラトリオの嘘に怒ったとして、そして、今日がどんな嘘をついてもいい日だと考えたとしても。

言う、だろうか。

自分の愛を、疑わせるようなことを。

愛する守護者を、貶めるようなことを――

オラトリオは記憶を漁り、オラクルの言葉をもう一度、洗い直す。

嘘をつく、と宣言した。

これから私は嘘をつく――そして、吐き出された睦言。

「………まさか」

「っははははははは!!」

紫雷の瞳を見張ったオラトリオが至った結論を察して、オラクルは明るい笑い声を響かせた。

空間統括者の感情は、そのまま<ORACLE>に反映される。

オラトリオが朗々たる声で揺らがせたのとはまた違う揺らぎが空間を震わせ、世界は華やぎと明るさに満ちた。

笑いながら、オラクルはオラトリオに抱きつく。

そのからだをしっかりと抱きしめ、愉しげに色の瞬く髪に顔を埋めると、オラトリオは長いながいため息をついた。

疲れた。

もう、心底から、どこまでも、果てしなく、疲れた。

「『嘘をつく』ってのが、そもそも嘘かよ…………!!」

「騙されるなんて、甘いぞ、オラトリオ!」

慨嘆したオラトリオに、オラクルは容赦がない。

明るく言いのけられて、オラトリオはますますきつく、オラクルを抱きしめた。

オラクルが、『嘘をつく』と宣言したことが、そもそも嘘。

裏返すべき言葉は、『嘘をつく』と言ったその言葉だけ。

つまりオラクルは、『嘘をつかない』と宣言して――そのうえで、告白したのだ。自らの守護者への想いを。

嘘ではない、本心からの愛と讃美。

曲げられることも、歪められることもない、純粋な想い。

「まだまだだな、オラトリオ」

「ああはいはい、どうせ俺はな、ひよっこだし青二才だし未熟者だし」

ぼやきは本心からだ。

こんな簡単なロジックに引っかかるようでは、まだまだどころの話ではない。一から出直して来いと、尻を蹴り上げられても文句は言えない。

むしろ、自分で自分の尻を蹴り上げたい。

きつく抱きついたまま甘える守護者に、オラクルはご満悦の表情だ。

わずかに身じろいで隙間を開けると、再び首を伸ばしてオラトリオに口づけた。

「それでも、おまえが愛おしい」

衒いもなく吐かれる言葉が、誤解して受けた傷を癒す。

「――そのうちな。絶対だ。おまえの賛辞に相応しいだけの男になってやる。だれが聞いても異論を挟まず、その通りだと頷くような」

誓う言葉をつぶやくと、胸の中のオラクルはわけがわからないと言いたげな表情を晒した。

「どういうことだ?」

無邪気に訊き返される。

――自分で、あの言葉を言うのは、さすがに恥ずかしいのだが。

とはいえ、どこまでも鈍い彼相手では、アレだよわかれよ、という会話が成立しない。

オラトリオは一瞬だけ天を仰いで、それから肚を括った。

無邪気に見つめる瞳を、決死の思いで見つめ返す。

「だから――世界で、もっとも賢く、うつくしく、強く、って、アレだよ」

「…」

オラクルは、驚いたように瞳を見張る。

いたたまれない沈黙に沈んでから、首を傾げた。

「実際、その通りなんだから、異論なんか出るわけないだろう?」

「っっ!」

心底からそう信じている口調に、オラクルを抱えたまま、オラトリオの巨体が傾いだ。

なんていうことを言うのだろう。衒いもなく、躊躇いも、迷いもなく。

「もういっそ、嘘だって言ってくれ…………」

「え?」

力無くつぶやいたオラトリオを、オラクルは理解不能の看板を掲げて見た。