ふ、と。

脈絡もなく、くちびるを掠めていく、キス。

ホイップ・ウィップ

「……っ」

通り過ぎ様にキスしていって、そのまま仕事を続けるオラクルを、オラトリオは恨めしげに眺めた。

脈絡もなく始まって、手が伸びる前に終わっている。

他愛もない触れ合いでも、オラトリオの意識は思いきり殺がれるというのに――

「どーしてふっつーに仕事を続けるか………っ」

ファイルを片づけに、永遠に続く本棚の奥へと分け入ってしまったオラクルへ、届かないとわかっていても、ぼやく。

文句を言いながらも仕事に没頭する、イビツワーカホリックの自分と違って、オラクルは仕事こそが存在と等価で結びついている。

仕事への取り組みは真剣で、邪魔も怠慢も嫌う。

オラトリオが同じことをしようものなら、まじめに仕事しろと、癇癪を起こしてファイルの滝雨を降らせるくせに。

「くっそー…………不公平だ」

つぶやいて、トルコ帽を取ると、きれいに撫でつけられたダーティ・ブロンドを掻き回した。

オラクルが怒る理由も、わかる。

オラトリオはあんな、掠めるだけのキスで終われる自信がない。自信がない以上に、終われない確信がある。

触れたら、その先へ。

もっと奥深くへと潜りたくなるから、当然、仕事にならない。→オラクル怒る。

「けどそりゃ、男の性ってもんだろ………」

愛すれば、愛するほど。

愛すれば、愛するだけ。

触れ合った肌を離したくない、離れたくないと思うのは当然の感情であり、思考ではないだろうか。

このまま融け合って、混ざり合って――

その心地よさを、比べもののない幸福感を知ればこそ。

「……………仕事にならねえんだっつうの………」

オラトリオは天を仰いだ。

掠めていったのは、一瞬のキス。

あまりに他愛なく、他意もない、かすかな触れ合い。

なのに、たかがその一瞬に心が掻き乱されて、まったく仕事が手につかなくなるとか。

それなのに、相棒のほうはまったく平静で仕事を続けている、とか――

この温度差はむしろもう、腹立たしい。

腹立たしいのに、愛しくて、触れたくて――

「………青臭い………」

自分の未熟さに、オラトリオはがっくり項垂れた。

――そうやって仕事を放り出しているところを見つかって、だれのせいだ、な肝心の相手が怒るまで、あと少し。

***

体の大きさから考えると、驚くほど身軽に隣に降り立ったオラトリオを、しゃがんでいたオラクルは笑って見上げる。

身軽なのも道理で、ここはプログラムの演算力がものを言う電脳空間だ。

そこに燦然と君臨する叡智の結晶、電脳図書館<ORACLE>のファイル倉庫ともなれば、現実空間の演算どおりに行動していては、永遠に仕事が終わらない。

「私の負けか」

「いつ勝負になったよ?」

両手に、集めてきたファイルの束を抱えたオラトリオは、呆れたように言う。

現在ふたりは手分けして、新しい企画に参加するための資料を集めているところだった。

オラクルの傍らに置かれたカートには、すでに山とばかりにファイルが積まれている。

そこに持って来た束を置くと、オラトリオはオラクルへと軽く身を屈めた。

「あとどれくらいだ」

「ん、二つだ。すぐ終わるから、おまえは……」

「どれとどれだ?」

「えっと」

オラクルは傍らに展開していた、執務室へと持って行くファイルのリストを出したウィンドウを、オラトリオにも見やすいように角度を変えてやる。

「これとこれ」

点滅するリスト名に、オラトリオは頷いた。

「こっちは俺が持って来てやるよ」

ウィンドウで点滅するファイルのうち、片方をつついて言ったオラトリオに、オラクルは俯いて笑った。

遠くにある方を、わざわざ選んだ。この程度の距離、『オラクル』にはなんでもないのに――

「なんだよ」

笑われて、オラトリオがわずかに拗ねた声を出す。

「おまえはそうやってすぐ、私を甘やかす」

「はん」

笑顔を向けると、オラトリオは肩を竦めた。笑うオラクルの髪を掻き混ぜると耳朶にキスを落して、永遠に続く本棚の奥へと分け入っていく。

「………」

ゴキゲンはどこへやら、オラクルはキスの落とされた耳を押さえて、不貞腐れた顔になる。

「どうしてそう、さらっと触っていくか………!」

ファイルを探しに、遥か彼方の本棚へと行ってしまったオラトリオには届かないとわかっていて、罵る。

ふとすると、オラトリオはこうしてオラクルに触れ、キスを降らせて離れる。

撫でられるだけでも感情がざわつくのに、キスなんて落とされたら。

子供にでもするような、他愛ないキスだ。伝えられているのはおそらく、なんてことないの親愛の情。

わかっているけれど、触れられれば感情が揺らぐ。

仕事に集中しなければと思うのに、意識がオラトリオを向いて、欲してしまう。

それなのにオラトリオはまったく平静に、なんでもない顔で仕事を続けている、とか――

「………腹立つ」

つぶやいて、オラクルは耳を引っ張った。そんなことをしても、感覚が消せた試しがない。

軽く触れて、離れた。

他愛ない――

「……………もしかして、私が未熟過ぎるのか………?」

あんな小さな触れ合いで、こうまで動揺するだなんて。

頭を抱えて悩むオラクルの元に、元凶が戻って来て、過保護の発作を起こすまで、あと少し。