「はんこうき!」

叫んで、次の瞬間、オラトリオは腹を抱えて爆笑した。

預言者の故郷

「わ・ら・う・なーーーーっっっ!!」

笑われたシグナルは、悄然としていたのもどこへやら、ソファから立ち上がると、真っ赤な顔で地団駄を踏む。

「僕にはちっとも笑いごとじゃないんだぞ、このクソ兄貴!!」

「ひゃはははははっっ!!」

クソ兄貴、のほうは、遠慮なしに爆笑するのを止めない。いくら経験を重ねても、未だにこの兄に勝ち星を上げられないシグナルは、恥辱に震えて耐えるしかない。

いつもならば。

「こら、オラトリオ」

「オラクル~っ!」

しかしここは電脳空間、叡智の図書館<ORACLE>だ。

ここには、シグナルが誕生したときから今日までずっと、変わらず心強い味方でいてくれる、図書館の司書、オラクルがいる。

シグナルが知る限り、オラトリオが唯一、自分の上に立つことを赦している存在だ。

その彼は、今日も今日とて、弟の悩み相談に爆笑を返す薄情な兄の頭を、ファイルで払った。

「シグナルが悩んでいるときは、きちんと力になってやれ。兄だろう、おまえ」

「そうだけどよぉ」

呆れたように諭されて、オラトリオがとりあえず爆笑を収める。しかしその顔は盛大ににやにやと笑っていて、『きちんと力になって』くれそうな雰囲気ゼロだ。

「だっておまえ、反抗期って。信彦が反抗期かもしれないって、そりゃ…」

くり返しつぶやいて、そっぽを向く。大きなからだがぶるぶる震えて、懸命に笑いを堪えているのがわかる。

「…信彦が、反抗期なのか?」

弟相手にはどうしても厳しく突き放すオラトリオの態度を改めさせるのを諦めて、オラクルがシグナルを見つめる。

どこまでも親身になってくれそうな穏やかでやわらかな視線に、シグナルは小さく頷き、ソファに座り直した。

目の前のローテーブルには、オラクルが淹れてくれたお茶が湯気を立てている。スパイスが香るフレーバティは、最近のシグナルのお気に入りで、<ORACLE>に来るたびに強請っているものだ。

「信彦はいくつになったっけ」

「中学上がったよ」

「…じゃあ、確かに、反抗期の年頃かもな。それが、どうしたんだ?」

「…」

親身になってくれるかもしれないが、シグナルにも最近、わかり始めてきた。

オラクルは感情の機微に鈍い。さらに世間知らずだ。

弟が反抗期に入って、手を焼いています、なんてこと、どうやって説明したらわかってくれるだろう。

困った顔でスパイスティを啜るシグナルに、オラクルは辛抱強く言葉を待つ。

「だからさー」

割って入ったのは、ことオラクルが関わると、必ず口を挟んでくるオラトリオだ。

「素直でかわいかった弟が、なにしようがどうしようがいちいち突っかかって来て、いつも不機嫌でさ。そうかと思えば急に甘えてきたりで、要するに、振り回されて参ってんだよ」

「参ってなんかいないさ。ただちょっと、どうしたらいいのかわかんないだけで!」

茶化す口調のオラトリオに食ってかかり、しかしシグナルはすぐにため息をついて俯く。

「…反抗期なんじゃないの、ってクリスに言われてさ。このくらいの年の子供なんて、みんなこんなもんよって言うんだけどさ…」

ぼそぼそとつぶやいてから、恨めしげにオラトリオを睨む。

「お、なんだおにーさんに物言いか?」

楽しそうなオラトリオに、シグナルはますます恨めしげになった。

「なんでこんなすちゃらかが…」

「シグナル?」

オラクルが首を傾げる。シグナルがオラトリオを腐すのはよくあることだが、どうもいつもと恨めしさの度合いが違う。

シグナルはオラトリオから目を逸らし、心配顔のオラクルを、泣きそうに揺らめく瞳で見つめた。

「僕にだけなんだよ。信彦、僕にだけ、当たりが強いんだ…。そりゃ、クリスとか教授とかにも口答えすることが増えたけど、オラトリオに対しては相変わらず甘えん坊だしさ、パルスにだって普通なのに、僕だけ、なんか……」

「ああ」

合点がいったようにオラクルが頷き、おっとりと微笑んだ。

「つまり、反抗期じゃなくて、嫌われているんじゃないか、と」

「…っっ」

「ぶはっ!!」

ど直球で聞きたくない結論を言われ、シグナルががっくり肩を落とす。堪えきれずにオラトリオは吹き出し、また腹を抱えて爆笑に呑みこまれた。

「…この、クソ兄貴……っ」

オラクルに悪気はない。

単に、とてもとても感情の機微に疎くて、とてもとても配慮が足らないのだけれど、それは彼のせいというより、彼の電脳製作者たちのせいだから、オラクルを責めるわけにもいかない。

爆笑する薄情な兄を睨みつけ、シグナルはきりきりと奥歯を鳴らした。

「自分は苦労してないから……」

「なにを言ってるかな、この弟はっおにーさん、のっけから苦労しまくりじゃない。パルスにしたっておまえさんにしたって、出会ったときから反抗期だもの。おにーさん苦労のし通しよ☆」

軽く言ったオラトリオに、シグナルは目を眇めた。

「それはオラトリオが悪い」

「ああうん、そうだな。オラトリオがわりと悪いと思うよ」

「…てめえら…」

シグナルだけならまだしも、オラクルにまであっけらかんと同意され、オラトリオはわずかに暗い目になった。

「だってそうだろ。オラトリオなんか、初めて会ったときからすちゃらかでおちゃらけで、こっちのこと馬鹿にしきってさ。そんな態度取られたら、どんな弟だって反抗期に突入するよ」

胸を張ってシグナルが主張し、オラクルも頷く。しかし、ふと首を傾げた。

「おまえは弟に厳し過ぎるんだよ。…ああ、でも、それって音井ブランドの特性なのかな?」

「なんだよ、特性って」

いやな単語を持ち出すな、と目を眇めたオラトリオを悪気もなく見返し、オラクルは指を立てるとくるくる回した。

「だって、ほら。ラヴェンダーもけっこう、弟に厳しいだろう。おまえだって起動した当初、ずいぶん鍛えられたそうじゃないか」

「…ああ、ねーさんね……」

「え、ラヴェンダー、オラトリオのこと鍛えたのなんでどうやって?」

いやな思い出に遠い目になったオラトリオに対し、こちらは興味津々の顔になったシグナルが身を乗り出す。

オラクルは立てた指をくちびるに当て、わずかに記憶を探るように沈黙した。

「ほら、オラトリオが出来た当初って、今ほど戦闘力のあるロボットがいなかっただろう当時、ロボットで、ロボットに護身術を教えられるだけの性能と経験を持っているのって、ラヴェンダーしかいなかったんだよ。それで、ラヴェンダーが教師になって、オラトリオに護身術を叩きこんだんだけど…」

「俺はおまえみたいに、『女性は殴れない』とか言い出さなかったからな。俺の戦闘の基礎になってんのは、ねーさんだよ」

言葉を足したオラトリオにわずかにむくれてから、シグナルは記憶を探った。

見たことのある、ラヴェンダーの戦闘スタイルと、いつも対戦しているオラトリオの戦闘スタイルを比べてみる。だが、類似性は見つけられない。

片や『暁のデストロイヤー』、片や『電脳最強の守護者』だ。

どちらも肩書きが並外れていることは確かで、しかも名前負けしていないのも確かだが。

首を傾げたシグナルに、オラクルが小さく笑った。

「音井ブランドの特性といえば…」

「なんだよ」

長年の勘で、オラクルがこういう顔をしたときにはロクなことを言い出さないと学習している。

オラトリオは顔をしかめてわずかに仰け反り、シグナルは瞳を瞬かせた。

「つくられた途端に反抗期に突入するのも、特性といえば特性かもな」

「どういうこと?」

きょとんとしたシグナルに対し、オラトリオは思いきり渋面になった。

「ちょっと待て、確かにパルスとシグナルはつくられた当初っから反抗期突入だけどなあ。俺は違うだろ、俺は」

「そうかおまえ、思いきり、私に対して反抗期だったじゃないか」

反論したオラトリオに、オラクルはどこまでも愉しそうに言う。

兄の弱点が聞けそうな予感に、シグナルはわくわくと身を乗り出した。

「オラトリオが反抗期って、なにどういうこと?」

「シーグーナールーくーん」

「オラクル、早く早く教えて!!」

手を伸ばしてきた兄から素早く逃れ、シグナルは叫ぶ。この場合、弱点をばらすオラクルに対しては、オラトリオがなにも出来ないことがわかっている。あとは自分の身の安全を確保しておけばいいだけだ。

それくらいは学習している弟は、逃げに徹する。オラトリオは渋面になるとオラクルを睨みつけた。

「あのなあ、オラクルあれは反抗期じゃねえの。俺が自分がつくられた意味ってもんに疑問を持ってて、納得するのに時間がかかっただけで、確かにおまえに剣突くしたかもしんねえけどよ、っ」

オラクルが余計なことを言う前に口を塞ごうと言い募ったオラトリオのくちびるが、逆にオラクルに塞がれる。

それも、ごく実際的な行動で。

軽く触れあったくちびるが離れていき、呆然と紫雷の瞳を見張るオラトリオを、オラクルはやさしく微笑んで見返す。

「私は、良かったって思ってる」

「…あー。こほん。どういうこと?」

僕いるんだけどなあ、と小さく存在を主張したシグナルに向き直り、オラクルは照れも悪びれもせずに胸を張った。

「オラトリオはね、ほっておくと、どこまでも苦痛に耐えるし、しんどいのも我慢しちゃうし、苦しいとか辛いとかも言わないんだ。もし最初っからそんなオラトリオしか知らなかったら、私は、オラトリオが苦しいと思ったり、辛かったりするんだってことに気がつくことができなかったかもしれない。知ってのとおり、私は感情にごく疎くつくられているからね」

それはオラクルの責ではない。

あくまで知の管理人としてつくられたオラクルに、感情を付随させる意味を学者たちが見出さなかっただけだ。

その片割れたるオラトリオに、人間ですら目を剥くような豊かな感情を与えておいて。

――とはいえそれも、オラトリオをつくった音井教授が稀に見る天才で、学者たちの想定を超えたものをつくりだしてしまっただけのことかもしれないが。

オラクルはやさしい眼差しで、口元を押さえてそっぽを向く守護者を見る。

「でも、最初にああやって、不安定なオラトリオを見せてくれただろう。私はそこで、彼は感情があるプログラムなのだと理解できたし、その感情を尊重する必要性についても十分に理解できた。…うまく対処できたことばかりではないけれど、少なくとも、なにも知らないより良かったと思う」

「十分だ」

そっぽを向いたまま、オラトリオが小さく吐き出す。

「おまえはいつだって、俺に十分にしてくれる。謙遜する必要なんかねえんだ」

「ありがとう」

真摯な声音にやわらかく返し、オラクルは微笑んだ。

「…あー、こほこほ」

シグナルは小さく咳きこむ。

オラトリオはともかく、オラクルには衒いというものがないから、付き合いも長くなればこういう場面に出くわすことも初めてではない。初めてではないが、いたたまれないことこのうえない。

特に、素直な兄とか、照れる兄とか、真摯な兄とか、尻がむず痒くなるようだ。無闇と叫びたくなる。

そのシグナルに向き直って、オラクルはいくつかファイルを取り出した。

「はい、反抗期に関するレポート」

「え?」

「入門書的なものをいくつかピックアップしたから、少し読んでみればなにもわからないまま、闇雲に対処するより、いいと思うけど」

ごく薄く軽いファイルは、それだけ中身が簡易であることを示している。

知の管理人たるオラクルらしい配慮に、シグナルも笑った。勉強は好きではないが、そう言ってばかりはいられないことも理解している。

素直にファイルを受け取ったシグナルに、オラクルはぱちりとウインクした。

「私が理解した限りでは、信彦がおまえに反抗的なのは、いいことだけどね」

「え?」

訝しげに見返したシグナルの耳元にくちびるを寄せ、オラクルは悪戯っぽくささやいた。

「いちばん甘えたいひとに、いちばん反抗するんだよ。だから、信彦がおまえにいちばん強く当たるなら、それはなにより、いちばんの愛情を抱いてるってことだ」

「…」

オラクルの言葉の意味をしばし考え、シグナルの瞳がきらきら輝き出す。

「っしゃっ」

俄然やる気になって、シグナルはファイルを抱えてソファに座った。ウィンドウを展開すると、真剣に読みはじめる。

「…なーに言ってんのかな、この世間知らずが」

勉強モードに入った弟を茶化すことはせず、オラクルの元に歩み寄ったオラトリオが、呆れたようにつぶやく。

その守護者を見上げ、オラクルは纏う色を悪戯っぽく明滅させた。

「違うのかじゃあ、おまえがいちばん愛してて、いちばん甘えるひとって、だれだ?」

「…」

そう来るか。

天を見上げて反論を考え、しかし、オラトリオは結局笑って手を上げた。

「おまえだ。おまえしかいねえや」

降参だよ、とつぶやき、愉しげに色を瞬かせるオラクルへと、くちびるを寄せた。