ガールズ・トーク

「わたくしと兄様はきょうだいですわ」

厳粛に言い切ったエモーションに、オラクルは顔をしかめた。展開しているウィンドウのいくつかを閉じ、新たにいくつかを開く。手元にファイルを呼び出し、結果を綴じる。

「そんなことを言ったら、私とオラトリオなどは同一人物…電脳、というのかとにかく、ひとつの存在だ。ひとりきりで自分を慰めているようなものだろう」

忙しい行動とは裏腹な、穏やかで緩やかな声音。カウンター越しの電脳司書は、現実の司書にも劣ることのない頼もしさと揺るぎなさを兼ね備えている。

だが、エモーションはそう易々とは説得されなかった。ふわりと浮かんで、カウンター越しに座っていても、自分より高い目線にいるオラクルと目線を合わせる。

「オラクル様。オラクル様とオラトリオ様は、まったく別々の人格をお持ちです。ひとりきりではありません。そんなことをおっしゃったら、オラトリオ様が泣かれますわよ」

「笑うと思うな。すごく傷ついた顔で」

さらりと受けて、オラクルはウィンドウをすべて閉じた。積み上がったファイルの山を数え、棚ごとに分類していく。分類に困るものがいくつか出てきて、再びウィンドウを開いた。

「わかっていても言われたくないことだろうね。でも、それはほんとうのことだ。私とオラトリオは、いわば多重人格だよ。基本はひとつ。多重人格が内部人格で慰め合っている。それが事実だ」

「…オラクル様」

ファイルを編集し直しながら、淡々と言うオラクルはほとんど、冷たいとすら言える。

咎める声は出しても、言葉にはできず、エモーションはくちびるを噛んだ。

世間知らずの箱入りの、というと、おっとりしているだけと思いがちだが、それは違う。

彼らはその無邪気ゆえに、時として酷いほどにきっぱりと事実を指摘する。

「いずれひとつに還る。それが前提。誰が言ったっけ。つまり今はモラトリアムに過ぎない。時が来れば還る、ひとりひとつにね。それが私とオラトリオ」

「…オラクル様…」

無邪気な彼の声は、弾んで嬉しそうだ。そうなったとき、彼が彼として得た人格もなにもかも失われて、そこに生まれるのは果てしなく傷ついたスペア・プログラムの<ORACLE>だというのに。

エモーションにとっては恐ろしいとしか思えないそのときが、オラクルにとっては夢のような幸せのひと時なのだ。

それがまさに、ひとつの電脳をふたつに分けた、ということの証左であり。

「その点、エモーションとコードは違うだろう。別々の電脳、別々の人格。別々の素体から成り立つ、まったくの別個体だ」

明るく話を流されて、エモーションはため息を吐いた。

「それでも、わたくしとコード兄様はきょうだいです。同じ製作者から生み出された、同じ親を持つ、きょうだいです」

「それ、こだわる必要があるのか?」

強調して言ったにも関わらず、オラクルはあっさりと返してきた。再修正が終わり、ウィンドウが閉じられる。再びファイルの形に戻ったそれを、ほかのファイルともども棚ごとに分類して置く。

「人間だったら、生物だったら、こだわる必要があるだろう。そこには生殖や遺伝が密接に絡むから。けれど、君たちロボットには意味のない括りだ」

「意味がなくなどありません!」

瞬間的に頭が沸騰して、エモーションは彼女にしてはきつく言い放った。相手が相手であれば、彼女の物言いのきつさに驚いて、言葉を呑みこんだだろう。

しかし今、彼女の相手をしているのはオラクルだった。良くも悪くも人の機微を気にしない、マイペースキングにして無邪気の塊だ。

むしろ微笑みすらして、ファイルからエモーションへと視線を流した。

「…意味がなくなど、ありません。わたくしたちは、そうやって『家族』を得ることで、互いに愛し合い、支え合うことを学びました。大事にすること、されることを無理なく実感できたのです」

気後れしたのはエモーションのほうで、激情に駆られた自分を恥じながら、弱々しくつぶやいた。

そんなエモーションに、オラクルは微笑みながらも冷酷だった。

彼はロボットプログラムではなく、あくまで知の管理人。ペルソナは仮初めのもので、ほんとうには意味を持たない。

「プログラムの最初期にあってはね。それは重要だった。人間社会は理屈に沿わないことのほうが多い。それらを厳密なプログラムに無理なく呑みこませ学習させていくために、もっともわかりやすく弊害の少ない方法として」

棚ごとに分類したファイルを持ち上げてカウンターから出てきたオラクルを手伝い、エモーションもわずかながらファイルを持つ。

とはいえ運ぶだけで、棚に戻すのはオラクルの役目だ。

この作業は、いかにエモーションたちが<ORACLE>に馴染もうとも、頑として手を出させない。

図書館の管理人はあくまでオラクル。そしてオラトリオであって、エモーションもコードも、最終的に「お客様」の位置から動くことはないのだ。どれほど親しくなり、打ち解けたとしても。

「君はもう、最初期を遥か昔に置いてきた。だからわかっているはずなんだよ。ロボットにおいて、きょうだいという括りがいかに無意味であるか」

「…無意味ではありません」

エモーションは頑としてくり返し、しかし力無くふよふよと飛んでオラクルの後に付いて行く。

オラクルがなにを指して無意味と言っているか、聡い彼女にはわかっている。

確かに、そういう意味においては、無意味な括りなのだ。

それでもなお、譲れない想いはあって。

「兄様がわたくしの『兄様』であるという事実、わたくしが兄様の『妹』であるという事実、すべて、無意味などではありません」

「『寂しい』と言えなくなっている時点で、そんなこだわりは無意味だと私は思うけれど」

「…」

きっぱりと言い切られて、エモーションは咄嗟に言葉が継げなかった。

永遠に続く本棚の番号を厳密に読み取りながら、オラクルはファイルを丁寧に戻していく。その手つきは優雅で繊細で、芸術を眺めているような趣さえあった。

「寂しいと縋りつけなくなった時点で、君はすでに無邪気な妹を逸脱しているんだよ。理解ある女性として振る舞った瞬間に、君は彼の妹であることを止めている」

「…寂しくなんて」

つぶやきかけて、エモーションは首を振った。

嘘も偽りも、言うことは簡単だ。人の機微に疎いオラクルに信じ込ませることもまた。

だが、それではいつかまた、議論は還ってくる。彼が騙されたことに気づいた瞬間に。

「オラクル様。わたくしは、『外』に出たいなんて思ったこと、一度もありませんのよ」

「うん。私もない」

そういうオラクルが「外に出たい」と思わないのは思考統制の結果だ。

だが、エモーションは違う。思考統制はかかっていない。彼女は外に憧れることも望むことも自由で、嘆願することすらできる。

それでも、エモーションは「外に出たい」とは言わなかったし、今も言わないのだ。

彼女の傍にずっと寄り添っていてくれた兄が、外への翼を得て、出て行ってしまった今も。

永遠に続く本棚を疲れも見せずに歩きながら、オラクルはふよふよと飛んで後ろに従うエモーションを振り仰ぐ。

「でも彼に、出て行かないでくれと思ったことはあるだろう」

「オラクル様」

空いた手にファイルを渡し、エモーションはオラクルの正面へと回った。背の高い彼に目線を合わせ、しっかりと見つめる。

「わたくしは知っておりました。兄様が、いつかは羽を得てここから出て行かれることを。オラクル様が先にもおっしゃられた通り、わたくしと兄様はまったく別個体、別のプロジェクトの結果として生まれた存在ですから。いつか、プロジェクトがわたくしたちを裂くであろうことは、覚悟のうえだったのです」

「うん」

穏やかに微笑む彼が、落ち着いた雑音色を閃かせていることにわずかに安堵して、エモーションは言葉を継いだ。

「兄様は、もともと電脳空間で生きることを目的につくられておりませんでした。そのうえ兄様にとって『生きる』ということは、『だれか』を援け、導くことで成り立つものでした。ここでの生活が、ひとりで生きるということが、兄様にとってどれほどの苦痛であったか、わたくしはよっくと存じております。兄様ほど、おひとりが堪える方もおりませんでしょう」

そこまで言って、エモーションはすっきりと背を伸ばした。意識してのことではない。彼女の内なる誇りが、そうさせたのだ。

「そこにわたくしが出来た。兄様のお為ではないけれど、兄様の庇護すべききょうだい、『妹』として。兄様の無聊をお慰めできたこと、それが、わたくしにとってはなによりも誇らしいことなのです。兄様がわたくしで慰められてくださったこと、それが、わたくしにとってはなによりも誉れがましいことなのです。ですから」

ふ、と目を伏せ、エモーションは微笑んだ。それは彼女が意図したよりずいぶんと儚く、それでいて限りない慈愛に満ちたものだった。

「兄様がご無事に旅立たれた今、最良のパートナーを得られた今、わたくしの胸には寂しさもありますけれど、それ以上に晴れがましい気持ちでいっぱいなのですわ。なにより、兄様のパートナーはかわいいエースですのよ。わたくしにこれ以上、望めることなどありましょうか」

「…たくさん、あると思うけれどね」

笑いながら言い、オラクルは最後のファイルを棚に戻した。

エモーションを隣に、永遠に続く本棚から執務室へと、ゆったりした足取りで戻る。その過程で、また新しいファイルを抜き出していく。

仕事は尽きせず、彼が続く限り、休みらしい休みも存在しない。

「待っていると一言、告げることもできないのに、それでもいいと言う時点で、その名前はきょうだいではないと思うけれどねえ」

「きょうだいでいいのです。いいえ、きょうだいが、いいのです」

言い切り、エモーションはオラクルの手からファイルを受け取った。運ぶくらいの手伝いはしたい。彼にとってはそれが日常で、苦にも思っていないことがわかっていても。

「みのるさんや正信ちゃん、ユーロパさんにアトランダムさん。それから、オラクル様とオラトリオ様みたいな関係も素敵だとは思います。正直、羨ましくはあるんです。でも、兄様がわたくしのためだけに生きたり、わたくしだけを見つめていたりするのは、違うんです。だってわたくしは兄様の援けを必要としているわけではないですし、導きも必要としていませんもの。ただ、傍にいたいだけなんです。兄様のお力のひとつも必要としていないんですから、兄様にとっては生殺し状態ですわ。それって、愛があればいいというものではないと、思うんです」

「…良くも悪くも、君は独立している。そして強い」

つぶやいて、オラクルは笑った。ふ、と目を中空にやり、それから再びエモーションを見つめる。

「コードは君の母性に救われた。だけど、君が言わないかぎり、永遠に君の想いに気がつくことはない。彼の眼はもう、パートナーに向いてしまったから」

「それでいいのです」

断じて、エモーションは一際高く浮き上がった。それでも、遥か頭上にまで本棚はそびえている。

どれだけの知がここに収められているのか、そのすべてを管理するオラクル――<ORACLE>という存在に、改めて圧倒されるようだ。

賢者の眼差しに怖じ気ながらも、エモーションは胸を張った。

「兄様が、それでもわたくしのことを思ってくださっている。ベクトルは違っても、確かに愛情がそこにある。わたくしにとって重要なことはそれで、想いを通じ合わせることではありません。ですから、わたくしたちに名前を付けるなら、きょうだい、でいいのです」

「…はは」

賢者が笑う。嘲る響きもなく、ただ愉しそうに。

見遥かすその瞳は、試されているようにも祝福されているようにも見えて、こころが揺れる。

それでも傲然と胸を張るエモーションに、オラクルは身に纏う色を瞬かせた。

「君がそうまで言うなら、もうなにも言うことはないよ。ただ、寂しいときには君の相手を仕ろう」

共に電脳のみに生きる存在として。

厳粛に誓約したオラクルに、エモーションはようやく、いつものように微笑んだ。

かわいい『弟』。

存在が違い過ぎて、永遠に交わることはないけれど、彼の幸せもまた、願って止まないのだ。

そっと寄り添ったエモーションの手から、オラクルはファイルを取り上げる。

少し拗ねた顔で見たエモーションに、オラクルは本棚の切れるところ、執務室を示した。

「なんだ、エレクトラ。ここにいたか」

「あ、エモーションさん、こんにちは」

執務室に足を踏み入れた瞬間、二色の声に迎えられて、エモーションが空中で一瞬、立ち竦む。

その小さなからだがぶるぶると震え。

「きゃあああああっっ、えーーーーーーすぅううううう!!」

「ぅわあああああ!!」

歓声を上げると、エモーションのからだはまっすぐにシグナルへと突進していった。

もともと女性には強く出られないうえ、『母』には尚更弱いシグナルは抵抗も逃亡も出来ない。無様に抱き潰された。

「…エレクトラ、ほどほどにしておけ…」

妹に近づく男には容赦しないコードだが、この場合は『母子』だ。どう出たものかの距離感を計りかねて苦悩すること夥しい。元凶をばら撒いたのも自分なので、尚更出るに出られない。

「いらっしゃい。今日はふたり揃って、どうしたの」

「…もう少しすれば、ひよっこ守護者も来る」

「へえ、待ち合わせ?」

ファイルの山をカウンターに置いたオラクルは、落ち着かずに愛妹と愛弟子の母子漫才を見つめるコードに、お茶を差し出した。

鎮静効果があるという、ラヴェンダーが香るハーブティだ。

現実空間における『ラヴェンダー』の代表格とあまり親しくないオラクルはよくわからないが、ここを訪れるロボットたちはこの香りを嗅ぐと、どちらかというと狂奔する。

「シグナルをちょっと鍛えてやろうと思ってな。おまえのところの空間を使ってもよいと」

「オラトリオが言ったんならいいよ。そうだな、急ぎの仕事もないし、私も見学しようかな」

のんびりつぶやきながらファイルを手早く分類していくオラクルを見やり、鍛錬の前から潰れている愛弟子と潰した愛妹を見やり、コードは小さく咳払いした。

「…エレクトラは、よく、来るのか」

「うんまあね、最近増えたかな」

「…」

珍しく言い淀むコードが口を開こうとしたところで、執務室の空間が歪んだ。巨大なデータが転送されてきた証拠で、それはすぐさまきれいにまとまってオラトリオの姿を創り出した。

おそらく狙ってわざとなのだろう、ようやくエモーションの手から逃れた、へろへろ状態のシグナルの上に降りて、潰す。

兄弟喧嘩の勃発だ。

「…コードたちと違って、こっちの兄弟は手荒いよねえ」

「男と女の違いもあるのだろう」

そう言ったコードだが、彼が『弟』であるオラクルを手荒く扱うことはない。

コードの『弟』であるという自覚が薄いオラクルは疑問にも思わずに納得し、いくつかのファイルを副人格へと振り分けた。

シグナルを思う存分構い倒して一旦満足したエモーションが、微妙な表情の兄の元へとやって来る。

シグナルが出来る以前なら、まず兄の元へとやって来ていた彼女だ。しかし現在の優先順位はあからさまに、コード<シグナルだ。

「お久しぶりでございます、兄様。エースに聞きましたけれど、これから鍛錬なさるのですってねエルもぜひぜひ、観戦しとうございますわ」

「構わんが…」

手を組んできらきら見つめられ、コードは言い淀んだ。妹の頼みは無碍には出来ない。その結果、鍛錬が中途半端になるとしても、それは仕方ないのだ。

限られた空間に留め置かれている彼女は常に退屈していて、無聊を囲っている。

その無聊を少しでも慰められたら。

「…エレクトラ、おまえ、最近頻繁に<ORACLE>に出入りしているそうだが」

「愉しいよね、ふたりだといろんな話が出来て」

言い差したところでオラクルに割って入られ、コードは瞳を見開いた。

仕事の邪魔を嫌うオラクルは、たまの来客は歓迎するが、頻繁な訪問は厭う。

なんの心境の変化か、と見やるコードに、弟は滅多に見せない蠱惑的な笑みを浮かべた。そのまま、やはり微笑む妹と目を見合わせ、頷き合う。

「ね、愉しいですわよね、オラクル様」

「ね」

「…」

怖じ気を知らないコードの背筋にぞわぞわしたものが這い登っていった。

どちらも無邪気極まりないふたりの、妙に意気投合した様子は、どうにもよくない予感を膨らませられた。

だがとにかく、ふたりで納得しているのなら言うべきこともない。

天を仰いで寒気を振り払い、コードはじゃれ合う兄弟の元へと歩き出した。

鍛錬に来たのだ。遊びに来たのではない。

お互いに暇な身でもなし、いつまでもじゃれている場合ではないのだが、放っておくとどこまでも遊ぶのが、彼の弟子たちだった。

師弟三人が仲良くじゃれ合うのを眺めてから、エモーションは再びオラクルへと視線を戻した。

オラクルの色が、愉しげに瞬いている。

「わたくし、理由をつけて早く、エースたちを連れて出ますからね、オラクル様」

「うん?」

きょとん、と見返すオラクルに、エモーションは悪戯っぽく微笑んで、オラトリオを指し示した。

「お早く、ふたりきりになれるよう、取り計らわせていただきますわ。エルと遊んでくださるオラクル様へ、せめてものお礼です」

「…ふ」

オラクルが吹き出す。

エモーションも笑い、きょうだいはふたり仲良く笑い転げ、その様子をコードとオラトリオが、至極複雑そうに見つめていた。