ひらり、閃く短冊は一枚。

けれど、永遠に埋まらない、一枚。

願い一葉数千万

「だってさー。ほんっとに、なんかないの一個でいいんだよ、オラクル!」

「と、言われても………」

カウンターに身を乗り出して迫るシグナルに、オラクルはつまんだ短冊を眺め、わずかに苦笑する。

信彦が学校に行っている間に遊びに来たシグナルは、オラクルにいきなり、短冊を突きつけた。

そろそろ日本は七夕で、学校から帰って来た信彦は昨日、家族に短冊を配って歩いたらしい。もちろん兄としてそれに付き合ったシグナルは、身内同然に思っているオラクルにも、もれなく。

だが、差し出された短冊を前にして、オラクルのペンは動かない。

図書館の執務室に、願いを吊るすための笹もきちんと飾ったけれど――そこには、知己から集めた短冊が、賑やかに飾られているけれど。

肝心の、図書館の主。

彼の願いごとが、吊るされない。

「信彦なんかさー、短冊は一枚しかないから、どれにしようか悩んで、あみだ籤だのなんだのやって、それでも決まんなくてさー。夜寝なくて、大変だった」

「あらあらまあまあ、信彦さんったら」

ぼやくシグナルの背後から、軽やかな笑い声が上がる。「かわいいエース」の気配を察知して、遊びに来ていたエモーションだ。

「おかわいらしいこと。エースはどうしましたの?」

「え、僕ですか?」

背後からきゅ、と頭を抱かれて訊かれ、シグナルはどぎまぎしつつ、鼻を掻く。

「僕はもちろん、ロボットプロレスへの参戦権が認められますようにですけど」

「シグナルらしいな」

答えに、オラクルは笑う。おそらく彼の兄が聞いたら、「まだ諦めてないのか、往生際の悪い」などと腐しそうだが。

「…………にしても、毎年まいとし、悩ましいな」

「ですわね、オラクル様」

短冊を閃かせ、オラクルはぼやく。シグナルの頭を抱いたまま、エモーションは楽しげに笑った。

「今年こそ、オラクル様のお願いごとを吊るしたいものですけれど………」

「え、今年こそ?!」

シグナルが瞳を見開き、頭を抱くエモーションへと視線を投げる。それから、苦笑するオラクルを。

「今年こそって、まさかオラクル……」

「ええ、エース。オラクル様には毎年短冊をお願いしますけれど、一度も書いていただけたことがないんですのよ」

「えええ?!!」

エモーションの胸の中で、シグナルは悲鳴を上げる。

オラクルの稼働年数は、確か十年を超える。それだけ生きていれば、願いや望みの一個や二個、軽く出来そうなものなのに。

シグナルだとて願いはあったし、パルスですら、なんだかんだと言っても願いを書いた。

こうして今、シグナルを抱いてご満悦のエモーションも、短冊を渡したら、「ああん、一個なんて、エルは困りますわ!」とかうれしい悲鳴を上げながら、書いたのだ。

ロボットだから、願いごとがない、などということはない。

ない、はず――なのに。

「……」

去来するのは、自分たちロボットには掛けられていないが、オラクルには掛けられているという、思考統制。管理人としての責務を全うするために、嵌められた思考の枷。

微妙な表情になるシグナルに、エモーションが笑う。

「仕方ないですわ、エース。なにしろ………」

言い差して、エモーションは黙った。ふい、と天井を仰ぎ、次いでにっこり笑って、オラクルへと視線をやる。

「オラクル様、『かくれんぼ』してください」

「え?」

「えエモーションさん?」

オラクルとシグナルは揃ってきょとんとし、いたずらっぽく表情を輝かせる、電脳の淑女を見つめる。

シグナルは訳もわからずに瞳を瞬かせるだけだが、オラクルはさすがに付き合いの年季が違った。すぐに頷く。

「ああ、『かくれんぼ』シグナルも?」

「はい、私たち、ふたりともです」

「わかった」

「ええ??」

きょとんとするシグナルに構わず、オラクルは執務室から続く本棚の一角を指差す。

「そこでいいか?」

「はい。ほらエース。急いでいそいで。『鬼』に見つかってしまいますわよ!」

「えええええ??」

頭を抱えられたまま、半ば引きずられるようにして、シグナルは指差された本棚の一角へと向かう。

どう考えても隠れている、という感じがしないそこに身を潜め、頭上のエモーションを窺った。

「なんですか?」

戸惑うままのシグナルに、エモーションはぱちりとウインクをして、くちびるに指を当てる。

「オラクル様が、ここら辺一帯にシールドを張ってくださいましたの。だからここは今、『隠れ場所』ですわ。大きな声を出したり、暴れたりしなければ、隠したオラクル様以外には見つけられません」

「はあ………ええっと………」

だからなんだ、が、シグナルの感想だ。まだわからないらしい息子に、エモーションはにっこり笑った。

「オラクル様がお願いごとを書けない理由、見せて差し上げますわ」

「え?」

瞳を見張ったシグナルに、エモーションはきれいな指を伸ばす。後にしてきた執務室を指差した。

「あれ………」

「おかえり、オラトリオ」

カウンターの奥で立ち上がったオラクルが、守護者のためだけの甘い声を上げる。

迎えられたオラトリオは、軽く手を挙げて応えた。

「たでーま。今忙しいか?」

「いや、今は大して。おまえにお茶を出す時間くらいはあるぞ」

「んならいい」

「ん?」

ぼりぼりと頭を掻いたオラトリオは、カウンターの前にやって来ると、オラクルの頭上に両手を掲げた。開く手。

から、舞い落ちる、白い花。

「………え?」

ぱらぱらと頭の上に降り注ぐ花を呆然と見つめるオラクルに、オラトリオは掲げていた手を戻した。

「待雪草。見たいっつったろーが」

「まつゆきそう……………」

ぶっきらぼうに告げられて、オラクルは記憶を漁る。

そう遠くない日に、該当があった。仕事中の何気ない雑談で、待雪草って、どんな花なんだろう、とつぶやいた――

ただその会話は、急遽飛びこんだ仕事に追われて、それ以上発展することもなく、終わったはず。

「………ああうん、言った………っていうか、どんなのかな、って言っただけなんだけど……」

つぶやきながら、オラクルはカウンターに散った花を取る。なめらかな手触りと、わずかにひんやりした感触。

「きれいだな」

微笑んで、においを嗅いだ。

「いいにおいだ」

オラクルの書庫を漁れば、待雪草のデータも、もちろんある。それこそ詳細に詳細を極めた、植物データが。

けれどそれらは、こうして「感覚」に訴えるものにはならない。あくまでも数値データや実測データであって、電脳の住人が鑑賞するためのデータには、置き換えられないのだ。

オラトリオがこうして、自分が現実で得た感覚を元に、プログラムを書き起こして初めて、オラクルにもその感覚が味わえる。

「なんで待雪草なんて、興味を持ったんだよ」

うれしそうな様子にも、大して感興をそそられたふうでもなく訊くオラトリオに、オラクルは軽く首を竦めた。

「『十二の月の物語』っていう話を読んで」

「…………おまえが手を出すジャンルは、わっけわからん」

「はは」

呆れたようなオラトリオに、オラクルは笑うだけだ。

しばらく天井を仰いでいたオラトリオは、コートから杖を取り出すと、軽くカウンターを叩いた。

急速にグリッドが走り、形が組み上げられ、色を成す。

「こんな感じだろ」

「へえ」

カウンターに現れた古びた藤製の篭に、待雪草がこんもりと盛られる。

オラトリオは後ろを振り返ると、揺れる笹の葉にわずかに頭を掻いた。

「まあいいか」

「ん…わっ?!」

突如暗くなった執務室に、猛烈な風とともに、雪が舞い飛ぶ。

長いローブがはためき、オラクルはその冷たさと厳しさに、ぶるりと震えた。

「オラトリオ?」

「こんな環境」

呼びかけに、飄々とした声が返る。唐突に目の前に火が灯り、風と雪が割れた。

オラクルのいるところを円状に囲んで荒れ狂う雪嵐を眺め、杖の先に火を灯したオラトリオが、笑う。

「あん中から、こうやって抜け出せると、すごくほっとするってのが、わかるだろ?」

「ほんとだ」

胸を押さえ、どこか呆然と答えるオラクルへ、オラトリオは手を伸ばす。その手を取ったオラクルのからだがふわりと浮き、オラトリオの腕の上に乗った。

「で、冷えたからだを急いであっためるんで、酒だ」

「おさけ………」

オラクルは軽く眉をひそめる。以前飲んだ酒は、オラクルの味覚にはあまり、やさしくなかった。

躊躇うオラクルに笑い、オラトリオは杖から手を離す。そうやってもプログラムは倒れることなく、火を灯したまま、宙に浮いた。

「いいから飲んでみろ」

「ん……」

頭を招かれて、オラクルはオラトリオに口づける。

伸ばされた舌から境界が融け、口移しで渡される、味覚のプログラム。

解けたそれを飲みこみ、オラクルは瞳を細めた。オラトリオの首に腕を回すと、もう一度口づける。

「……どうだ」

「ん…」

軽いキスをくり返し、オラクルは陶然と笑った。

「おいしい」

「そりゃよかった」

「はは」

蕩けた瞳で笑うオラクルは、オラトリオの肩に顔を埋める。

「よっぱらいそう」

「ああ……」

オラクルの言葉に、オラトリオはわずかに考えた。

再び杖を取ると、振る。吹雪は唐突に止み、積もる雪は消え、笹の葉が揺れる執務室に戻った。

「酔っ払ってみてえか酔っ払ってみてえなら……」

「もうだめだ!!」

「あらん、エースぅ~」

「……」

上がった絶叫に、オラトリオはぴたりと止まった。振り返る。

笑うエモーションに頭を抱かれたシグナルが、がたがたと震えていた。

「もう我慢出来ない!!蕁麻疹が出来る!!」

「…………………ロボットに蕁麻疹が出来るか、阿呆」

ぼそりとつぶやき、オラトリオは腕に抱えたオラクルを見上げた。すっ呆けた管理人は、ぱちぱちと瞬きをくり返し、つぶやいた。

「忘れてた」

「……………おまえはそういうやつだ………」

根暗くつぶやくオラトリオに、震え上がった弟が腰を抜かした姿勢のまま、喚く。

「甘い!!甘いよ、オラトリオ!!なにその甘さ!!信じらんない!!砂吐く!!」

「うるっせえなぁ………」

せっかくの逢瀬を邪魔されたオラトリオの声に、いつもの余裕はない。

ほとんど泣きべそを掻く息子を抱いたエモーションは、ころころと笑った。

「ね、エース、わかったでしょうオラクル様は、願う端からだれかさんにお願いを叶えられてしまうので、一年に一回、改めてお願いごとをする必要がないんですのよ。願ったのか願っていないのかわからないお願いまで、ぜんっぶ叶えてしまう、だれかさんのせいで」

「あー……」

エモーションの言葉に、オラトリオは大体の事情を察した。

背後には、短冊を揺らす笹。

毎年まいとしくり返される、問答。

「………今年も願いはねえのか、おまえ」

「………うーん……」

胡乱な目で見上げられて、オラクルは首を傾げた。

困ったようにしばらく考えてから、冷たい目の守護者を見つめる。

「強いて言うなら、出来れば今すぐ、これから数時間、おまえとふたりっきりになりたいかな………」