「え、あれ」

電脳空間にそびえる白亜の宮殿:叡智の結晶を謳われる電脳図書館<ORACLE>――

その門扉から敷地へと入ったところで、シグナルはきょとんと瞳を見張り、顔を上へと向けた。

うたが、聴こえる。

――おそらく、うたが。

詠恋仙花茶

「オラクルが………むぐがっ!」

うたっている相手を特定しようとしたところで、シグナルの口は後ろから塞がれた。

仮にも最新型。そして戦闘型。

背後を容易く取られるようなことは、――いや、結構、多々ある。

少なくとも、きょうだいや、師匠相手には、頻繁に。

そして今回、シグナルの背後を取ったのは、今のところ全戦全敗中の長兄、オラトリオ。

その本領を発揮する電脳空間にいるというだけでもなく、あまりに易々とシグナルを抱えこみ、その口を塞いだ。

「むぐがっ!」

「しーっ」

「…………………」

起動当初なら、僕の自由を侵害するななどと言って、どこまでも徹底抗戦していた。

それからしばらく経ち、長兄と出会ったばかりの頃ならば、兄貴面するなと叫んで、徹底抗戦。

さらに時間が経ち、強敵との戦いもなんとか乗り越えた今は――状況に因る。

少なくとも、そうされることの意味を、機微を、考えてから抗うようにはなった。

オトナになったなーなどと揶揄されると、速攻で殴り掛かるのは、変わらないが。

笑って吹きこまれた制止の言葉の意味を考え、シグナルはもがくのを止めた。

塞がれた口を閉じると、いつもはなんだかんだとからかってくる相手が、静かに離れる。

「………」

「………」

響く音に耳を澄ませて、シグナルは<ORACLE>を見上げた。

頭上から降り注ぐ――なにかの、うた。

わからないのは音楽への造詣の浅さもあるが、おそらくはそれが<ORACLE>独自の調律によるものだからだ。

見上げていた視線を、シグナルはそっと、脇に移す。

傍らに立った兄の顔は、いつでもどこでも、振り仰がないと見ることが出来ない。

兄からの視点に立てば、シグナルのことは常に、見下ろさないといけない。

偉そうに見下ろすなと叫んで、喧嘩を吹っ掛けるタネにするのが常のシグナルだが――

「………ちぇ」

小さくちいさく、舌を鳴らす。

シグナルと同じように顔を上げ、<ORACLE>を見つめるオラトリオの、表情。

そこに溢れる愛おしさと、峻厳な誓約。

真摯さの欠片もなく、常にちゃらんぽらんに振る舞うオラトリオだというのに、<ORACLE>を見つめる表情はこちらが居住まいを正すほどの威厳と、相手への崇敬に満ちている。

なにか言えばきっと、お仕事バージョンのおにーさんはかっこいーのよーなどと、茶化すけれど。

「………さて、いつまでこーしてても、仕様がねえ。行くぞ、シグナル」

「僕に命令するなっ!」

「はいはいよ♪」

わしわしと頭を撫でて言われ、シグナルはその手を振り払いながらがなり立てる。

いつものように、オラトリオは弟を軽くいなしつつ、<ORACLE>へと入って行った。

回廊を抜け、辿りつく奥所。

オラトリオの相棒であるオラクルが常にいる、<ORACLE>執務室。

扉を開けたオラトリオより先に、その脇を潜り抜けて、シグナルが先に飛びこむ。

「オラクル!」

「ああ、シグナル。いらっしゃい。今日はどうしたの?」

「………ったく」

背中しか見えないが、おそらくシグナルの表情は無邪気に輝いているだろう。

カウンターへと駆け寄る弟を見つつ、オラトリオは微妙な苦笑いで、くちびるを歪める。

新人の育成に関して、割と厳しい手合いが多いのが、シグナルの環境だ。ひたすらに甘く、協力的なだけのオラクルは、まさにオアシス。

付き合いはそれほどではないが、懐き方はかなりのものだ。

「なあ、オラクル、今さ……っぶげっ!!」

「しぐ……オラトリオ」

オラクルへと身を乗り出して話し出したシグナルの頭を、後ろから鷹揚に近づいたオラトリオが容赦なく、カウンターへと潰す。

荒っぽすぎる弟への扱いに、相変わらずか、と呆れた顔になったオラクルのくちびるに、オラトリオは素早く、掠めるキスをした。

そのうえで、飄々と笑いかける。

「たでーま、オラクル」

「………おかえり、オラトリオ」

素直に感情を表すオラクルのローブは、喜色と、呆れを共に表して複雑に揺らめいた。

久しぶりの直接の逢瀬に、まずキスをしたい気持ちはわかるが――

そんなところ、か。

ふっと苦笑を浮かべたオラトリオはすぐに、軽く瞳を見開いた。頭を押さえていた手が跳ね除けられ、シグナルが蹴りを飛ばす。

「っだぁああああ!!僕の頭を、そう気安くツブすなぁああああっっ!!!」

「おお、すまんすまん。手置きだと思ってた」

「なんだとぉおっ、オラトリオぉおっ!!」

――勝負が見えていても、シグナルは諦めない。

もしかしたらの可能性に、常に賭ける。

というほど明確なこともなく、腹が立ったら手を出す。それだけだ。

相手が信彦や小さな子供、弱い相手ならまた考えるが、長兄だ。全戦全敗中の相手。

容赦をする拳などない。

今日も今日とて。

「シグナルくん………おにーさん、いっこ試してみたいことがあるんだけど」

「んぎぎぎぎぎっっ!!」

あっさりと床に転がされて尻の下に敷かれ、顎に手を入れられた状態で、シグナルは歯軋りする。

そのシグナルに、上に乗るオラトリオはとってもまじめに吐き出した。

「シグナルくんて、どこまでエビ反れるのか、試してみてもいーい?」

――どんなことであれ、茶化すことなくまじめに吐き出せばいいというものでは、ない。

しかしシグナルが反撃に打って出るより先に、洒落にならない長兄の頭を、オラクルが叩き飛ばした。

「そこまでにするほんとに、おまえはもう………どうしてそう、弟の扱いが荒っぽいんだ」

「いやこれ、最新型でなにより、戦闘型だからな、オラクル荒っぽい扱いが前提、った!」

減らず口を叩くオラトリオの頭を、オラクルはもう一度、叩き飛ばす。素手ではない。薄いが、ファイルだ。

そもそもオラクルがオラトリオにお仕置きするときに、素手だったことはない。常に、なにかしらのファイル。

「……………ときどき愛の実在について、探訪する旅に出掛けたくなるんだよなあ………」

「なんの話だいいから、シグナルを解放する!!」

「お、オラクルぅ~~~~」

――最新型で、戦闘型だ。

いくらここがオラトリオのテリトリ、主戦場の電脳空間であるとはいえ、シグナルの様子はあまりに情けない。

しかしそれ以上オラトリオが腐すこともなく、オラクルが呆れたりすることもない。

おまえたちはみんな、生まれたばかりのプログラムに厳し過ぎるんだ、と。

それが、オラクルの主張。

「ぅいたたた………」

「大丈夫かい、シグナル私の相棒が、失礼したね」

「ぇ、ぇへへへへ………」

オラクルの言いように、兄が退いて体を起こしたシグナルは、微妙な笑いを返す。

その、オラクルの『相棒』は、シグナルにとって、兄だ。

たまにオラクルは、そのことを忘れる。私の相棒、と、自分にだけ関連づけてしまう。

オラトリオのほうも、特に修正しない。独占されることを、許容している。

なんだかんだと言いつつも、二人の間に割って入ることは出来ない。割って入りたいわけでもないが。

「と、そういえば、シグナル………さっき、なにか言いかけていただろう途中になったね。なんだい?」

「え………ああ、えっとね」

痛む体を解しつつ、シグナルはわずかに首を傾げた。

考えて、思い出す。

そう、<ORACLE>の、オラクルのうた――

「オラクル、……」

言いかけて、シグナルは不自然に口を噤んだ。

またもや、オラトリオに潰されたわけではない。

兄は軽く、床面を杖で叩いただけ。響いたのは、小さな音。

振り返ると、オラトリオは背中を向け、来客用のソファに向かっていた。

歩き出すための、なんでもない音――

「………」

「シグナル?」

「え、ああっえっと、えっとね!!」

起動した当初ならば、思ったことはなんでも、口に出していた。

それからしばらく経って、長兄と出会った頃ならば、嫌がらせになるなら、なんでもしてやると。

さらに時間が経って、兄が自分の相棒へと傾ける想いの真摯さに気がついた今は、――状況に、因る。

経験を積むことによってシグナルは、機微を読むことや、気を遣うことを覚えた。それが例えば、鼻持ちならない長兄相手であっても。

それで、僕っておっとなーと図に乗れる時期も、過ぎて。

「あ、あのさ。僕、最近、花茶っていうのに、凝ってて!」

「花茶………ああ、確か、中国茶の一種だったっけへえ、どうしてまた」

「ぅ、その、なんていうか、さ中国行ったときにちょっと見て、そのときはなんとも思わなかったんだけど、この間、アレックス・金博士が寄ってって。お土産だーって、置いてってくれて、改めて見たら……」

しどろもどろになりつつも、シグナルはなんとか話を続ける。

すべてがすべて、嘘ではない。

金博士が寄って行ったことも、お土産にさまざまな種類の花茶をくれたことも、本当だ。

ハマっている、のも、一部。

本当にハマっているのはどちらかというと信彦で、風味がきついと言って飲めないのに、やたらと湯を注ぎたがる。

クリスは女性らしく、香味の強い花茶も飲めるが、言ってみると現在の音井家で花茶が飲めるのは、彼女だけだ。

信彦が悪戯に淹れたがる量が量なので、ちょっとした戦争にもなっている。

シグナルは、兄だからという理由だけでもなく、信彦側だ――枯れ色の塊が湯を注ぐことで開き、鮮やかな色が生まれる瞬間は、面白い。

「ははっ、私にも経験がある。面白くておもしろくてハマってたら、オラトリオがお土産というお土産を、世界各地の花茶にしてくれたことがあって」

「あ、やっぱり、知ってる?!」

「うん、もちろん。淹れられるよ。そうだね、今日のお茶は、ちょっと珍しい花茶にしてあげようか?」

「うん………あ、えっと、その」

勢い込んで頷いてから、シグナルは気後れしたように視線を移ろわせた。

「………見るのは、たのしいんだけど………飲める、かは、ちょっと………」

リアル・スペースでは特に飲食の必要がないシグナルだが、香りは嗅いできた。

香水を飲むようなものか、と理解している。

香水に好き嫌いがあるように、飲めそうなものもあったことは、あったが――

「構わないよ。私もそうだ。見ているのはきれいで楽しかったけれど、飲めないものもあった。………オラトリオはすごいよね。全部飲んで来たんだし」

「え………ああ、そうか」

<ORACLE>で出される飲食物の味の再現は、すべてオラトリオが持って来た味覚データを元にしていると聞いたことがある。

味覚データは、オラトリオが実際に食べ、それをオラクル用の数値に置き換えて作られるのだと。

後ろを振り返り、来客用ソファに座るオラトリオを見たシグナルだが、すぐに顔をオラクルへと戻した。

ソファにふんぞり返って座ったオラトリオは瞼を下ろして、仮眠しているようだった。

「それでも、いい?」

「構わないよ。そうだね、どうせ飲めないかもしれないとなれば……飲む用のお茶と、見た目用のものと、いくつか用意しようか」

仕事が差し迫っていないのだろう。オラクルは愉しそうに言いながら、カウンターの上にいくつかのウィンドウを展開する。

まるで踊るようにも見えるしぐさでお茶を用意するオラクルに見惚れてから、シグナルはもう一度、ソファを振り返った。

――オラクルがうたっていたと、どうして、指摘してはいけないのか。

理由は不明だが、うたを聴いていたオラトリオの表情はやわらかで、愉しげだった。

危機に駆られていた様子もないから、オラクルがうたうのは、悪いことではない。

悪いことではないけれど、おおっぴらにするものでもない――本人にすらも。

「………そういえば、無意識に出た鼻唄を指摘されると、とんでもなく恥ずかしいのよって、クリスが言ってたっけ」

オラクルはプログラムだが、そういうことだろうか。

自分を納得させると、シグナルはカウンターの前に用意された椅子に腰かけた。

目の前にはこれでもかと、花茶が展開されていく。

電脳空間の、図書館。

その内部に、鮮やかに開く花と、満ち満ちていく甘い香り――