ソファに横たわる体に近づく、穏やかな気配。

この世で唯一、警戒しない相手。

この世で唯一、こころを赦すべき相手――

「………オラトリオ」

フロイライン

呼ぶ声の、やさしさ。

甘くて、引き絞られるこころ。

もっと呼んで――もっと、もっと、咽喉が枯れて潰れるまで。

枯れて潰れてもなおのこと、ずっとずっと呼び続けて。

希う己のこころの傲慢と、希わずにはおれない己のこころに積もる欲望と。

募り過ぎた感情が咽喉を塞いで、呼吸も覚束ない。

たとえ機械、プログラムの身にとって意味のない行為でも――覚束ない呼吸から、連想されるのは、死。

「………オラトリオ」

甘く呼んだ声から気配が近づいて、顔に覆い被さるもの。

覚束ない呼吸を救うようにくちびるに重なる、やわらかな感触。

軽く触れてすぐに離れ、さらりと額が撫でられる。

手は冷たく、それでもこの想いは冷めもしない。

「……………うーん」

もう一度額を撫でた相手が、ソファに横たわって瞼を閉じたまま微動だにしないオラトリオを眺め、小さく唸る。

「やってみたけど、ほんとに効果があるのか、これなにかが違う気がして、仕方ない………」

ぶつぶつと言いながら、額から手を離す。

その手は、眠る相手と触れ合った己のくちびるを、そっと撫でた。

己で意識するよりもやさしく、想いを含んで――己で意識もできないままの、想いを含んで。

「私に変わったところがある気もしないし………それとも、全体をスキャンしてみないとわからないくらい、微細な変化だとか?」

難しい顔でつぶやきながら、検証を重ねていく。

その間も、指はくちびるを辿る。

あまりに仄かですぐにも消えそうな、相手の感触。

「………そんなちょっとずつしか効果がないようだと、困るな。どう考えても、オラトリオが一度外に行ってしまえば、より以上のストレスで、相殺どころかマイナスだ」

結論を吐きだして、くちびるからも指が離れる。

「………そんなちょっとずつしか効果がないんじゃ、困る」

確かめるようにつぶやき、ふわりと気配が揺れた。

踵を返す気配。

離れていく――この世の、なによりも大切な相手。

「うん。もう一度、検索し直そう。もっと効果抜群で、目に見えて状況が改善するようなやつ――オラトリオの疲労を、私がきちんと吸い上げられる方法」

遠くなるつぶやきと、気配。

カウンタから山と積まれたファイルを取り、彼は執務室から、果てなく続く本棚の中へと分け入って行った。

遠く、とおく――

通常の感覚では気配も追えないほどに離れてから、オラトリオはゆるりと瞼を開いた。

手袋に包まれたままの手が上がり、己のくちびるを撫でる。

思いやりと愛情を持って、触れられた――どういう方向性のものかは、さておいて。

「………早急に、<ORACLE>に幼児用フィルタリングを掛けることを諮ろう」

疲労の色濃く、けれど力を込めて、オラトリオは遥か見通せない天井を睨む。

「それから、テレビだ。禁止に持っていけないなら、せめて年齢制限の導入だ」

つぶやいて、くちびるを撫でていた手は額から瞼を覆った。

そうやっても、降り注ぐ光が届くような気がする。

眩しい――明るい。

この世のなによりも、尊び、貴び、重んじる相手。

そのための労力なら、この骨身など惜しまないとしても。

「………あんまり悩ましい仕事を増やすんじゃねえよ、オラクル………」

こぼれた声はあまりに力なく、己の耳にすら入らないまま、空間に融けて消えた。