人間は、嘘をつく。

嘘をつくことの出来ない、赦さないものを作った人間が、嘘をつく。

嘘をつくことが出来ないものに与えられる矛盾は、身を苛み心を冒して、自壊の道へ――

「どういう矛盾だろうと思っていたんだが、最近、考えが変わったよ」

メッサリーナの神託

宝物庫にも喩えられる、巨大な電脳図書館。

その管理人が自発的に造ったのが、特注サイズのベッドが鎮座するプライヴェート・エリアだ。

主に休憩のために使用されるここのベッドは、規格外の体格を誇る彼らであっても、二人並んで寝てまだ、若干の余裕がある。

そうとはいえ、仕事の都合が合わないのがほとんどだ。なかなか、二人並んで横たわることは出来ないのが現状だが――

傍らに寝そべって笑うオラクルを、オラトリオは横目に見た。

「矛盾もなにも。………嘘をつくからこそ、『嘘をつかない』ものが欲しかったんじゃねえのか。宗教家や理念家が思想と観念でもって現実の人間を洗脳し、『嘘をつかない』人間を作ろうと目論むように――科学者は嘘をつかないものを、科学でもって作ろうと」

気のない声で応じるオラトリオの顔を、身を起こして上から覗き込み、オラクルは悪戯っぽく笑った。

「おまえ、あの博士たちを見ていて、そうまでのことを考えていると思うのか?」

「……………」

あの博士たち、でオラクルが差すのはもちろん、シンクタンク:アトランダムに属する彼らだ。二人にとっては、生みの親にあたる。

世界最高峰のシンクタンクであるアトランダムに憧れる人間は多々あれ、そこに集う博士たちの内実といえば――

「…………言うよなー……」

笑うオラクルから視線を逸らし、オラトリオはくるりと瞳を回してぼやいた。

創設者であり、ことの発端である夫妻の内実までは、考えの及ぶところではない。

あるいはオラトリオの言うように考え、新しい命を造りたいと望んだのかもしれない。

しかし現状残っている、あるいは集まる彼らは、そうまでのことを目論んではいないだろう。

目指す先は、機械でありながら間違いなく『人間』であるものを、造ること――少なくとも、嘘をつかないものを造ることが、主眼なのではない。

「で、………どう考えが変わったんだ」

諦めて訊いたオラトリオに、オラクルは微笑んだまま寝そべった。顔は相変わらずオラトリオに向けたまま、その瞳は愛おしさに溢れ、己の絶対最強の守護者にして片割れを見つめる。

「進化なんだろうと」

「………進化?」

オラクルの答えに、オラトリオは眉をひそめた。

オラクルの思考は、肯定的だ。

時に矛盾や危険を孕み、過程であって評価の難しい知であっても預かる図書館の管理人としては、当然の思考傾向だ。

しかしひとつ間違うと、無闇な手形の乱発にも繋がる。すべての事物を、常識も日常も超越し、無視して肯定してしまいかねないのだ。

すでに否定的な雰囲気を醸し出すオラトリオにもめげず、オラクルはこくりと頷いた。

「四足歩行から、二足歩行に。木の枝や石を加工することを覚え、家を建設し、自然に生るものを祈り待つだけから、自ら地を耕し、獣を飼い慣らして改良し、食用に特化させ――そうやってここまできた人間が、どこかの過程で得た、進化のひとつなんだろうと」

「……………」

オラトリオは眉をひそめたままだ。オラクルは笑って、手を伸ばす。

放り出されているオラトリオの手に触れると、やわらかく握られた。

手袋は外している。与えられるのは、『皮膚』の感触。

握って開いてとして愛撫しながら、オラクルは繋がれた手を見つめた。

「難しいんだよ、嘘をつくことって」

ため息にも似た声で吐き出し、軽く瞳を伏せる。思考を洗うように、オラクルの纏う色は静かに明滅した。

「私たちの初め、初期のコンピュータは完全に嘘がつけなかった。人間が矛盾や嘘を打ち込むと、すぐにエラーを起こし、最悪の場合はフリーズした挙句に壊れた。チェスや将棋なんかが、いい例だ。基本に則った単純明快な手しか打てないから、複雑に思考を絡み合わせ、ときに相手を嵌めるための手を打つ人間と対戦しても、まったく歯が立たなかった」

「………」

オラトリオはちらりとオラクルに視線をやり、すぐに逸らして横を向く。

オラトリオが人間相手に、チェスや将棋で負けたことはない。

必要があって、わざと負けたとき以外には。

「難しいんだって、気がついたんだ。『嘘をつく』って、ほんの軽い気持ちで言っているようでありながら――単純明快なプログラムに、『嘘をつく』ことを組み込むことは、出来ないんだと。そのために必要となるのは、複雑で難解な思考であり、膨大な量の計算」

顔を逸らされても握られたままの手をきゅっと握り返し、オラクルは無邪気に笑った。

「人間は嘘をつくことを赦さなかったわけではなく、嘘がつけるものを造れなかった」

「……………だろうな」

終わった証明に、オラトリオはため息とともに頷いた。

嘘をつかない、真っ正直なものを造りたいと、望まれたわけではないだろう。

研究者たちは、『同じもの』を造りたかったはずだ。

人間のように思考し、動く、同じものを――単純に見えて複雑極まりない機構を、自分たち人間の手で。

「――研究が進んだ今、人間はおまえを造った。役目において、人間相手に嘘をつき、誤魔化すこともするものを。場合によっては相手に、矛盾も説き伏せて呑みこませてしまうほどの、おまえを」

「………ああ」

造ったのは、人間だ。

役目においてという前提はあれ、必要とあれば人間を謀り、欺くこともするよう、オラトリオを設定した。

必要はわかる。

技量も追いついた。

だから彼らは、造った――

「嘘をついたことで心に負荷を負うのは、人間もだ。人間はようやく、人間に近いものを造れるようになっただけで、人間を超えるものを造れるようにはなっていない。人間に造られた嘘をつくおまえがだから、嘘をついたことで傷つき、疲れても、それはおまえの咎でもなんでもない」

「………」

オラトリオはきゅっとくちびるを引き結び、瞳を伏せた。覗き込まれたとしても見返すことがないようにしながら、オラクルと繋ぐ手だけは力が緩まない。

オラクルは握った手を持ち上げてくちびるで触れ、空いている手で軽く叩くと、胸に抱きしめた。

「疲れていいし、傷ついてもいい。オラトリオ――」

抱きしめた腕が、ほどける。

オラトリオのプログラムへと融けこみつつ、オラクルは顔を向けてくれない相手へ、笑いながら首を傾げてみせた。

「私のことを、愛している?」

「っっ」

解かれていくプログラムが、一瞬だけ抵抗を見せて固まる。

オラクルは構わず解けて融けこみながら、オラトリオを見つめ続けた。

ややしてオラトリオは横を向いたまま、奥歯を軋らせて呻く。

「――愛している、オラクル」

「ぅん。私も愛している」

苦しく吐き出された心を頷いて受け入れ、オラクルは身を起こした。オラトリオの上に伸し掛かるようになると、もう片手も繋ぐ。

それでも顔を逸らしたままのオラトリオの手を持ち上げ、オラクルは甲にくちびるを落とした。

半ば解けながら、つぶやく。

「おまえは嘘をつく。人間にそう造られた。けれど、オラトリオ。人間は私を愛するように、おまえを造ったか守る以上に<私>を愛せと、おまえを設定したか?」

「……っ」

はっとして顔を向けたオラトリオに、解けるオラクルは莞爾と笑った。

「被造物はどこかで、造物主の意図を超える――『嘘をつく』という難解な思考を可能にしたおまえがどう進むか、もはやすべてが人間の手の中だとは、言い切れない。おまえは人間が与えた可能性を、超越することが出来る、オラトリオ」