重キノ君

ふわり、執務室の中空に現れた<ORACLE>管理人は、いつも穏やかな表情を甘く綻ばせた。

「オラトリオ、来てたのか」

「ぃよっす、たでー………っと」

執務室の中ほどに立っていたオラトリオは、帰還の挨拶もし切れないままに慌てて腕を広げた。

無邪気なオラクルが、その腕の中に勢いよく降りて来る。

リアルでこんなオラクルを受け止めれば、さしものオラトリオもべっちゃり潰れている。スクラップもいいところだ。

戦闘型非戦闘型云々の前に、荷重だ。オラクルの体の大きさと、落下開始の位置と速度、そしてリアルに生きるものすべてに等しく掛かる、素敵な重力と――

一瞬の総荷重を計算すれば、受け止めるどころではない。避ける以上に、逃げること必須だ。推奨の域すら超える。

しかしここは、電脳空間。

そして無邪気そのものに飛び込んで来るのは、リアルを知らないサイバーのみのイキモノ。

彼は荷重というものを、本当には知らない。

「……熱烈だな、オラクル。さびし………ん」

「んっ」

激突するほどの勢いで降りて来ても、擬音にするならふわりと羽のごとく、オラクルは差し出されたオラトリオの腕に収まった。

そしてまたも、すべての言葉を聞くことなく、久しぶりに直接の逢瀬となる守護者のくちびるを塞ぐ。

くちびるに重なるくちびるの感触はやわらかく、オラトリオを求めてさらに深く潜る。

伸ばされる舌が絡み合い、背筋に走るのは蕩けるような痺れだ。

それでも腕に乗せた体は羽のように軽く、抱いている気がしないから、オラトリオはまるで幻と口づけを交わしているような心地になる。

本当には『荷重』というものを理解していないオラクルは、自分の『体重』を設定することを、すぐに忘れる。ずっと頼んで言いつけているが、どういうわけかこれだけは習慣にならない。

半ば以上リアルに生き、その感覚が基礎として染みついているオラトリオにとって、相手の重みを感じることは大事なことだ。

体長や骨格から割り出して正確に設定した結果、いくらオラトリオであっても、そうおいそれとは抱き上げられない体重になろうと――

無邪気に飛びかかられたりするたびに、無様極まりなくべちゃりと潰れ、『重いんだよちったぁ考えろ!!』と喚くことになろうとも――

せめてあと少し。

ほんの少し。

こうまで存在を軽くせず、重く伸し掛かって欲しい。

「………は」

「ん」

ようやくくちびるが解け、オラトリオは呼気とも嗤うともつかない、あえかな声をこぼす。

今日のオラクルは、非常にご機嫌らしい。

抱き上げられたまま、オラトリオの顔にせっせとキスの雨を降らせる。

無邪気なしぐさだ。

同じ顔だとは、わかっている。

しかしたとえばオラトリオが同じことをやった場合、自分のみならず他人も、そのしぐさを『無邪気』とは形容出来ない。

下心が透けて見える。

――透けて見てくれないのは、やられているオラクルぐらいなものだ。肝心要の相手だけ。

オラクルがこうしてキスの雨を降らせるのは、ねこの毛づくろいや、小鳥のついばみにも似ている。愛情表現であっても、そこにあからさまな劣情が透けて来ない。

評して、無邪気となる。

すでに無邪気な関係は、とっくに超えているというのに――

「オラクル」

「んー」

くすぐったいと笑ったオラトリオに、オラクルはにっこりと笑い返した。

止めることなく、さらに気合いを入れてキスの雨を降らせてくれる。

さらに、気合いを、入れて――

「おら、く………っる、っっ?!」

唐突に腕に掛かる重みが増して、慌てて踏ん張ったオラトリオの声は無様に潰れた。

腕に乗せたオラクルの体は、ずんずんと重みを増していく。一気に腕が抜けるほどではないが、かなりのスピードで体重が加算されていっている。

だからといって、唐突にオラクルの体が膨らみ、丸んだ肥満体型になったわけではない。見た目はそのままだ。

そのままだが、忘れて放り出していた荷重計算を、急に思い出してやり始めている。

無邪気といえば無邪気だが、時と場合を考えないこと甚だしい。

いくらどうでも、許容出来る無邪気と許容出来ない無邪気が――

と、いうより問題なのは。

「ちょ、まて、おらく………っぅ、ぬぁっ?!」

慌てて叫んだオラトリオだが、オラクルが聞いてくれることはなかった。

守護者としてや諸々の意地により、懸命に踏ん張ったオラトリオだったが、奮闘空しく、結局はべっちゃりと床に潰れた。

抱えきれるわけがない。

オラクルが掛けた荷重は、体長や骨格から割り出される平均体重を遥かに超えていた。

正確に計算したところで、こうして腕に抱き上げるのは、多少厳しい重さなのだ。

超えたらもう、抱き上げてなどいられない。情けなかろうが甲斐性がなかろうが、無理なものは無理だ。

「オラクル………っ!」

「よっし!」

べっちゃんと床に伸びたオラトリオの腹に跨るオラクルは反省皆無で、むしろ誇らしげに拳を握った。勝利を宣言するポーズだ。

「ぉおまえなぁあ………っ俺がなにをして………っ!」

倒れた床は、事前にオラクルが細工していた。受け身も取れないままに勢いよく転がったにも関わらず、頭を打ちつけることも、背骨が軋むこともない。

まるでクッションの山に飛び込んだように、柔らかくやさしく――

これではっきりすることが、ある。

オラクルはついうっかりと、いつもの天然ぶりを発揮した挙句に、荷重計算を間違えたわけではない。

時と場合という空気をさっぱり読まなかったわけでもなく、非常に明確な、計画的犯行。

一歩間違えば、抱えられた己諸共に大惨事だというのに――もちろん、世界一を誇る<ORACLE>の演算能力を惜しみもせずに無為に費やし、安全を完璧に考慮したうえでの実行だろうが、しかし。

許容出来る無邪気と、許容出来ない無邪気は存在するのだ。

「オラクル!」

「うん。しよう、オラトリオ」

「は?!」

腹に跨られたまま、頭だけ上げて説教を繰り出そうとしたオラトリオに、オラクルは明るく告げた。

くり返すが、反省皆無。

そして大変に、ご機嫌。

愕然と固まる守護者に、構ってくれる様子はない。

オラクルは押し倒しに成功した恋人と指を絡め、両手を繋ぎ合わせる。

するりと解け融け合う、プログラム。

「………ふ、ぁ」

こちらは覚えていたものか、荷重とともに呼吸も忘れがちなオラクルのくちびるから、甘く熱っぽい呼気がこぼれた。無邪気な表情が陶然と蕩けて、快楽に染まる。

経緯も経過も忘れて見惚れ、オラトリオはこくりと咽喉を鳴らした。

咽喉を鳴らしたことでわずかに我に返り、融け合って接ぎ目のわからなくなった手を、それでもきつく『握る』。

「ぁ」

「オラクル」

解けながらも、走った快楽に背筋を震わせたオラクルを、オラトリオは懸命に見つめた。

「つまりおまえ………ヤりたい盛りか?!ヤりたくって、俺のこと押し倒したのか?!」

――余裕のなさが知れる低俗極まりない言葉使いだったが、すでに半ば以上プログラムを解いたオラクルが怒ることはなかった。

解けて朧な表情がにっこりと、必死に理性を繋ぐオラトリオへ微笑む。

「うん。そう」

「そうか…………っっ!!」

あっけらかんと肯定されて、オラトリオの体から完全に力が抜けた。

無邪気にも程が。

いったいどうやったら、これに抗しきれると。

敗北感に打ちひしがれたオラトリオに、抵抗も説教もない。

ただ、守護者でありながら凶器としかならない己を悦楽とともに飲みこむオラクルの、するに任せた。