攻勢

それは、不可思議な静謐に満ちた表情だった。不可解なと、言い換えてもいい。

知の番人――人類の叡智という、形なき宝を収めた宝物庫の管理人に相応しい、神秘性を含んだ佇まい。

<神託>の名そのままに、神々しささえ感じる威厳と威容に溢れたオラクルは、ゆっくりとくちびるを開いた。

「いいか、オラトリオ。私は他の誰とも比べようなく、比べるべくもなく、おまえを愛している。おまえ、ただひとりだけを。<私>の愛は常に、おまえただひとりのものだ、オラトリオ」

岩に沁みこむ水のように、静かに告げられるのは、熱烈な愛の言葉だ。

山の雪解け水のように、どこか凛と冷たく澄んでいたオラクルの佇まいだったが、告げる言葉とともに華やかさを纏って輝いていく。

知という形なきものを収め守り続ける管理人としての自信と力強さ、頼もしさに満ちて、オラクルは微笑んだ。

「それはたとえば、こうして電脳と現実に別れ、のみならず互いに遠い異国にあり、直に会うこともできず、通信ですらオンタイムで話すこともできず、すれ違う日々が長々と続いたとしてもだ。<私>の愛は変わらず、おまえの上だけにある、オラトリオ」

淀むこともない、熱烈な愛の――熱烈、な…………………

「ぁあああああああ……………っ!!」

通信端末のディスプレイに現れた相手を前に、オラトリオは情けなく呻いて頭を抱えた。

忙しい仕事を懸命にやりくりして、ようやく捻出した時間に飛び込んだ、某所の通信端末室だ。セキュリティと盗聴とを手早く、しかし入念にチェックしたうえで、繋いだのはもちろん<ORACLE>だった。

<ORACLE>監査官にして、<ORACLE>を守る電脳最強のガーディアン。

それがオラトリオ――<ORATORIO>。

オラトリオは起動当初から電脳最強の冠を戴き続け、今となってはレジェンダレベルのガーディアンだった。

日進月歩の電脳世界において、最強の冠は一年ももてば=英雄だ。

その冠を一年どころでなく守り続け、地位に安穏とすることなく、さらに高みへ高みへ――

『伝説の』という枕詞とともに語られることも多くなった、<ORACLE>影の守護者:<ORATORIO>。

弱点などない。

――わけでは、ない。

「ちくしょう………っ!」

最新式で、高性能な集音マイクでも拾いきれないほどの声でつぶやき、オラトリオは抱えていた頭をわずかに上げた。

端末のディスプレイに表示されている、日付を見る。

オラトリオの現在地は、四月の初日だ。

四月一日。

「どうした、オラトリオ?」

「ぅぎぎぎぎ………っ」

ディスプレイの中のオラクルは、涼しい顔で微笑んでいる。懊悩しているオラトリオは見えているだろうに、殊更に心配する様子もない。

オラトリオは堪えることなく歯軋りし、そんなオラクルを涙目で睨んだ。

熱烈な愛の告白だった。

たぶん。

問題なのは、オラトリオの現在地が四月一日――エイプリルフールだということだ。

どんな嘘をついても赦されるという、摩訶不思議なイベントディ。

付き合いも長くなれば、イベントに疎かったオラクルであっても、オラトリオがこの日をこよなく愛していることは覚える。

覚えて、ここ最近は自分から進んで参加するようにもなった。

そう、進んで参加するようになったのだ。素直なオラクルもこの日ばかりは曲げて、嘘をつくようになった。

ただし、四月一日限定だ。

オラクルの現在地――特に註釈を入れない場合、二人の間では暗黙のうちに、<ORACLE>本体と本部があるシンガポールが基点となる――は、四月一日ではない。

融通を利かせることを第一に作られたオラトリオに対し、オラクルは厳格なプログラムの側面を強く持つ。

オラクルの基点がシンガポールで、そこが四月一日ではないのなら、嘘をつくことはない。

熱烈な愛の告白は、正しく熱烈な愛の告白だ。

しかし同時にオラクルは、オラトリオがこのイベントをこよなく愛していることを、よく知っている。

そしてオラトリオの現在地――出張中のこの場所は、四月一日。

告げないままに『基点』をオラトリオに合わせていたのなら、オラクルにとって『今日』は四月一日。

嘘をつく日だ。

熱烈な愛の告白は、裏返してお怒りのご表明。

つまり、『いくら仕事でも、こんなにも長く会えないなんて、ぷんぷんさすがの私も、おまえのことをキライになっちゃうぞ、ぷんすか!』――という。

もちろん、本気で嫌われることなどないだろう。ただし、拗ねさせたということは窺える。

単なる守護者と被守護者の関係ではないのが、オラトリオとオラクルだ。造物主である人間が当初意図した以上に、ふたりは互いを互いに必要とした。

関係は仕事上のパートナーという枠をとっくに超えて、生涯の伴侶に――

「おーらーくーるーぅうう………っ」

「なんだ?」

涙目で頭を抱えるオラトリオに情けなく睨まれても、相変わらずオラクルは涼しい顔だ。

わかっている。

オラトリオがオラクルの真意を図りかねているとわかっていて、どう結論するかを待っているのだ。

普段のオラクルは、そういうヒネクレたことをやる性質ではない。これまでに、答えが『オラトリオなんかキライ』となる嘘をついたことも、なかった。

ついたことはなかったが、今回はあまりに長い別離とすれ違いの日々に、盛大に拗ねさせているようだ。

四月一日に『いる』オラトリオと、四月一日には『いない』オラクル。

リアルスペースにいるオラトリオと、サイバースペースにいるオラクル。

この距離。

それでも真摯に愛を告げる恋人なのか、それとも拗ねて裏返しの駄々を告げる恋人なのか――

オラトリオが自分をどう判断するのか。

答えをどう判断しようと、おそらくオラクルは構わないのだ。オラクルにとってはどちらも真実で、実際のところ『嘘』がない。ゆえに、致命的な亀裂に発展することもない。

とはいえ。

「オラトリオ」

「くっそぉおおおおお!」

にっこり無邪気に笑っているオラクルに、オラトリオは涙目のまま情けなく叫んだ。

椅子から腰を浮かせると、上から目線でディスプレイをびしっと指差す。

「身を粉にしてがんばってお仕事しているおにーさんにやさしく!!もっとやさしくしろぉおおお、オラクルぅううう!!」

――態度は上から目線だが、言っていることは完全に敗北している。

その情けないことこのうえない雄叫びとともに、オラトリオはぅわぁあああんと泣きながら通信室を飛び出して行った。

しかししっかりと通信を切って履歴を削除し、ディスプレイの電源も落としていっている。『嘘』泣き――というわけでは、ない。

本気泣きだ。

「………やれやれ」

ぶっつりと、一方的に通信を切られて黒く落ちたウィンドウを眺め、電脳図書館の執務室に鎮座する管理人は肩を竦めた。

「なにも、本気で泣くことはないだろう………」

つぶやきながら、愛おしげな指遣いでウィンドウを撫でる。くちびるが刷くのは、やわらかで穏やかな笑みだ。

そこには隠しきれない、ほんのりとした寂しさも垣間見える。

その寂しさが拭われ、表情が真実明るい笑みに彩られたのは、わずか数分後の未来――