それは、細い、ほそいほそいほそい、糸だ。

「ぅんまあ、いいが……それで、素材はなんなんだ鋼か、鉄かそれともくも…」

理念の井戸

首を傾げて問い返すオラクルの無邪気な様子に、オラトリオは呆れて目を眇めた。

<ORACLE>――電脳空間の司書室、貸出カウンタに二人向き合って銘々の仕事をこなしつつ、合間あいまに他愛ない会話を交わしていた。いつものことだ。

いつものことではあるが、今日は彼らの騒がしいきょうだいたちの乱入もなく二人きりで、オラトリオには多分に油断があった。

その油断からつい、ぽろりとこぼれた弱音――

を、拾っての、オラクルの返しだ。

オラクルの世間知らずなど、今に始まったことではない。

が、それにしてもだ。

「なんだ」

相棒の、呆れ返ったという、馬鹿にした素振りに目敏く気がついたオラクルが、むっとして訊く。

対するオラトリオといえば、オラクルの不機嫌などものともせず、さらに呆れたという風情を醸してやった。仕事の手を止めると、わざわざ椅子にそっくり返って、相手を睥睨する。つけつけと、吐き出した。

「いいか、オラクル……まるで綱渡りみたいな生き様だ、しかもその綱は、『綱』っつーよりは細いほそいほそい糸で――って、話をしたときにだ。糸の素材を問うったあ、どういう了見だよ。なんだたとえ糸だろうと、素材が綿やら麻やらじゃなく、オリハルコンか火廣金だったら、問題が解決するってのか?」

「ひひろかね?」

どうにもけちょんけちょんにけなされているらしいという気配は感じたようだが、オラクルはまず、自分が聞き慣れない言葉に気を取られた。さすがは知の宝庫、電脳最高峰の知の図書館を預かる管理人といえばいいのか――

「伝説の……架空……」

認識の浅かった言葉を改めて収蔵し直す間を挟み、そのわずかな間に、けなされたことへの怒りも治めてしまったオラクルは、微妙に困ったように首を傾げた。

ぷんすかしながら腐したくせに、オラクルのずれにずれるタイミングをきちんと待っていてくれた守護者を、戸惑いながら見る。

「しないのか?」

「ぃやっほーーーーいっ!」

――とても醒めた、棒読みで、オラトリオは歓声を上げた。声だけでなく、万歳のポーズを取り、アイススケートの技なみに仰け反る。しかし言い方同様、表情も冴えない。

否、冴えないレベルでなく、ない。

すぐに体を戻したオラトリオは、落ちないよう、押さえていた帽子を取った。投げ捨てると、空いた手で、きれいに撫でつけたダーティブロンドをくしゃりと掻き混ぜる。

「おまえの俺に対する信頼感はどうなってんだ綱渡りだって相当なもんだってのに、糸だぞ、糸素材さえ頑丈なら、俺なら糸でも問題なく渡りきるだろうってのか?」

「ああ」

「っ」

半ば喚くように吐き出したオラトリオに、オラクルはいっそ無邪気に頷いた。どうしてそんなことを訊かれるのかわからないと、戸惑っている風情すらある。

まさに、『俺に対する信頼感はどうなってんだ』だ。

もちろん、オラトリオの存在意義や諸々がある。オラクルから信頼を得ていることはうれしい。その信頼が深く強いものであることも、同様だ。

だがさすがにこれは、度が過ぎている。

目を剥いて絶句したオラトリオに、オラクルは少しだけ首を傾げた。そして、その『少しだけ』の時間で、オラトリオは回復しなかった。絶句したままだ。

オラトリオ――<ORATRIO>は、電脳最強の守護者だ。

『最強』というのは、攻撃力が高いということだけで得られる称号ではない。窮地、急場にあっての『回復力』の高さも合わさって、初めて得られるものだ。

というわけで、

「っっでなんで『というわけ』だっっ?!」

常とはタイミングをずらしてどっさと降ったファイルの滝雨に、あえなく潰された電脳最強の守護者だった。

あえなく潰されはしたが、さすがは電脳最強の守護者――おそらくそこは関係ないがしかし、そういうことにしておく――、オラトリオはすぐさまファイルを雪崩れさせながら立ち上がり、喚いた。

「『というわけで』って、どういうわけで、今のぁ降った?!」

ファイルは角がある。四隅が角、角々だ。しかも量が多かった。挙句、今日のファイルはそれぞれ、結構な重さもあった。

痛い。とにかく痛い。電脳最強でも、痛いものは痛い。

そしてどれほど痛かろうとも、ウイルスなどのように消して鬱憤を晴らすこともできない。なにしろこれらは自分が――<ORATORIO>が守るべき、<ORACLE>のデータだ。肝心のオラクルがずいぶん乱雑に扱っているが、だとしてもだ。

諸々相俟って涙目で抗議するオラトリオに、オラクルは非常に淡々と答えた。

「根拠だ」

「だからどういう根拠でってのを」

「『根拠』だ。訊いただろう、どうなっていると」

「……っ」

淡々と諭され、オラトリオは二度目の絶句に陥った。

凝然と立ち尽くし、ややして慌てて、降らされたファイルのひとつを手に取る。

格納されているのはデータだ。

当たり前といえば当たり前だが、問題の核は『なんの』データかということだ。

「……っ、……っ!」

一冊目を放り出し、二冊目を手に取り、三冊目を――

十数冊も拾って中を確かめ、オラトリオは唸った。もとより乱れていた髪型を、さらに乱すように手を入れる。

ぐしゃりと前髪を掴んで、吐き出されたのはため息だ。

「オラクル……こういうのぁ、ストーカーってんじゃねぇのか」

「なんだと?!」

ため息と共に吐き出された感想のあまりなことに、オラクルは身に纏うノイズを瞬かせながら立ち上がった。明滅の色味と激しさは、怒りを表している。

同時にばちっと指が鳴らされ――これはいわば、『いつもの』タイミングだ――ファイルの滝雨が、追加された。

が、勢いは弱い。冊数が少なかったのだ。

「いやいやいや、オラクルさん……」

勢いが弱かったために潰されるまでではなかったオラトリオといえば、追加で降ったファイルの中身をいくつか確認し、ぼやいた。

「ストーカーかって疑われて怒って降らせんのが、これでは量が不足でしたかとばかりの追加情報ファイルってどうなのよ。逆だろ、逆」

「そもそも私はストーカーではないすべて正規データだぞ?!盗聴も盗撮も違法データも含まれていない!!」

「わかってるけどよ」

諸々ずれて抗議するオラクルに、オラトリオは曖昧に返した。

ファイルの中身だ。

雨あられ、滝の如くに降らされた。角が痛いわ、量は多いわ、ひとつひとつが重いわ、最悪のファイルの、その中身だ。

オラトリオの――<ORATORIO>のデータだった。

製作時のプロジェクトデータを掘り起こしてきたわけではない。否、この累々たるファイルの山を探せばそれも根拠としてあるだろうが、そうではない。

そう、『根拠』だ。

オラクルは、これまでのオラトリオの戦績、業績、功績、その他些事含むさまざま膨大なデータを抽出し、ファイル化して降らせたのだ。

たとえ進む道が糸のように細かろうともその材質が頑丈でさえあれば、オラトリオにとってはこともないだろうと、オラクルが判断する根拠となる、データを。

『どうなっている』と問われた、度外れた信頼の、確かな根拠となるデータ――

量だ。そして、重さだ。

オラトリオが造られ、稼働し、初めてオラクルと会い――今日まで。

積み重ねて来た。この量を、この重みを、この信頼を。

「わかったか」

わずかに背を仰け反らせた『おえらい』態度でもって念を押したオラクルは、つまり自分の判断にまるで疑いがない。自信と確信に満ち溢れている。

その根拠といえば、だから降らせたファイルの量であり、重みだ。

これだけのものを積み上げておいて、なにをかいわんやと。

むしろ反論の根拠こそ薄いと。

「………やれやれ」

オラトリオはため息をこぼし、足元に山積みとなったファイルを眺めた。

量も重みもだが、角が痛かった。それはもう痛かった。今日は特に、ことに、痛かった。

降らされるファイルはオラクルの怒りそのものであり、当たる角の多さと強さは、こみ上げた怒りの激しさだ。

オラクルは世間知らずだ。今に始まったことではない。出会った当初からずっとだ。世間ずれし過ぎて、生みの親たちに揃って頭を抱えさせることに成功したオラトリオを相棒としながら、変わらない。変われない。彼の世界は電脳、<ORACLE>に囚われ、自由を知らず、得ることもなく、求めることすらできず、膨大な知識を管理しながら広がることがない。

広がって目移りすることなく、ひたすらひたむきに<ORATORIO>――オラトリオを見つめている。

オラトリオだけを、見ている。

なんておそろしい。

なんておそろしく、なんて――

「細い……細いほそいほそい――糸なんだわ」

「……」

ややしてこぼしたオラトリオに、オラクルは黙って身に纏うノイズを瞬かせた。わずかに首を傾げ、オラトリオの言葉を待つ。

見返して、オラトリオは笑った。諦念を含みながらも、なにかをきっぱりと思い決めた。

「それでも止められねえのは、落ちずにいるのは、こういうおまえがいるからだ」

オラトリオ――シンクタンクアトランダム所属<A-O/ORATORIO>、あるいはシステム<ORACLE/ORATORIO>。

表身は<ORACLE>監査官にして、影身に与えられた称号は『電脳最強の守護者』。

それは、細いほそいほそい糸の上を行くような生き方だ。

常に緊張を強い、片時も気が抜けない、苦痛と疲労を積み重ねる生き様だ。

わずかにも足がずれれば、すぐにも転落し、終わる。

その恐怖すら、もはや甘美にも過ぎる誘惑と変わるほどの――

甘美に過ぎて拷問めいた誘惑を退け、だとしてもやはり拷問でしかない苦痛の生を、それでも続ける理由があるとするなら、そうだ。

どこにも進むことのできない囚われの身で、ただひたむきにオラトリオの征く方を見つめ続けてくれる存在。

ただひたすらに、オラトリオが積み上げ、切り拓いた道を認め続けてくれた存在。

見つめ認め、深いふかいふかいふかい信頼と敬愛とを注ぎ、ときにオラトリオ自身の卑下すらも叱り飛ばし、目を開かせてくれる――

「おまえがいて、俺は生きる。おまえがこうして在る限り――素材がたとえ脆弱であろうと、俺は」