手を伸ばす。

無駄だと知っている。わかっている。理解している――

胡蝶の千年壺

していない。

だから、手を伸ばす。手を伸ばして、伸ばす。

伸ばして伸ばす手がなにも掴めないことを知っていて、なにを掴むこともないまま落ちるだけであるのをわかっていて、――

なにが掴めないものか、理解していないから伸ばす。

伸ばして、伸ばし、やがて空漠に絶望し、落ちるまで。

――えー。『よしく』?

「………いや、なんで疑問符付きなんだよ?」

「ぅん?」

目を開けて即座にツッコみ、返されたオラクルのきょとん顔を見つつ、オラトリオは渋面となった。

ただし、オラクルがきょとんとしてツッコミを理解していないとか、目を覚ますや否やツッコまざるを得ないという、この状況にではない。

自分がツッコむポイントを間違えたことに、即座に気がついたからだ。

やはり目を開けた、意識を取り戻した直後になど、ツッコミをやるものではない。急がば回れの好例だ――いくら気が急こうとも一拍置いて、それから、

「確信がなかったから?」

「どこまでも疑問符量産!」

――間違えたと思うのはオラトリオだけで、肝心のツッコミを入れられたほう、オラクルはとても素直に答える。

とはいえ、堪え性のないオラトリオが懲りることなくツッコんだように、まるで確信のないものではあったが。

いや、想定内といえば想定内ではある。オラクルが確信を持たないということではなく、素直に答えたということに関してだが。

オラクルはオラトリオに対し、疑問がない。あるいは、疑いがない。

オラトリオ――<ORATORIO>とは、<オラクル>=<ORACLE>を監査官として、あるいは無敵の守護者として、外から内から縦横に守ってくれる相手だ。

言うこと為すことすべては必要、必須のことなのだと。

「………で、まあ、確信がなかったとして、だな………じゃあ、なんだと思ったんだ、おまえ」

未だベッドに横たわったままのオラトリオは、傍らに中腰で立つオラクルの手をぷらぷらと振った。

いくつか補填するところがあるとしたら、つまり、ここだ。これだ。

オラクルとオラトリオとは、現在、手を繋いでいる。ベッドに横たわっていたオラトリオと、おそらく様子見か用事があるかで立ち寄っただけの、オラクルと。

リアルでの用事に片を付けて電脳空間に降りてきたオラトリオは、危急の案件がないことを確かめると、プライヴェートエリアにある特注サイズのベッドに横たわって眠りに落ちた。

『落ち』て――

夢というほどのものではない。けれど眠りに『落ち』て、『落ちる』なにかの感覚に囚われた。

よくある、よく見るものだ。よく陥る感覚だ。疲れきって休みたいときほど、休ませることを自ら拒否するように、この感覚は襲ってくる。

落ちていく。

落ちて、おちて――

抗って、手を伸ばした。手を、伸ばしてしまった。伸ばしてしまう――

ただし補記するなら、『少なくともオラトリオはそういうつもり』という程度のことだ。実際に眠る自分の本体がどう反応していたかは、わからない。

知らないが、ふいに、伸ばした(つもりの)手が掴まれる感覚がした。

掴まれて、軽く振られ、こぼれた言葉。

――えーと。『よろしく』?

「握手かな…」

やはり確信が薄いまま、オラクルは答える。

確信は薄いが、意外性があるわけではない。なにしろ繋いだ手の形と、確信がないままとはいえ、ともに吐きこぼされた言葉だ。

『よろしく』と。

そのうえでオラトリオとオラクルの、繋いだ手の形だ。見た八割九割が、『握手』と答える。これを見てそう答えないのは余程のへそ曲がりか、さもなければ突き抜けた箱入りの世間知らずかだ。

ところで突き抜けた箱入りの世間知らずといえば、今まさに手を握っているオラクルこそが、オラトリオの身近で、もっとも代表的な例であると言える。

オラトリオの表向きの顔でもあるA-ナンバーズ、シンクタンク<アトランダム>所属のヒューマンフォームロボットといえば、あれこれと方向性を変え、微に入り細を穿ったあらゆる種類の箱入り世間知らずを集めているが、そのどの方向性から攻めたところで王者の地位を守れるという――

「むっなんだか失礼なことを考えているだろうっ、オラトリオっ!」

「勘はするど……ぁだだだ、痛いいたい、ぃたい、オラクルさんっ。握った手に力……いや意外にちゃんと力あるな?!」

うっかりしみじみと感興に浸ってしまったオラトリオの考えたこと、すべてを見通したわけではないだろう。が、不穏な気配は察したらしい。

オラクルは繋いだままの手にぎりぎりと力をこめ、オラトリオの手を締め上げてきた。

純粋な力比べの話をすれば、オラトリオのほうが強い。比べものにもならない。

――だからといって、おもねったわけでもない。言う通り、想定以上の力だった。いや、想定はできて然るべきではあったのだが、やはり迂闊に油断を重ねた。

素直に悲鳴を上げてしまったオラトリオに、オラクルは得意然として胸を張った。

「ふっふんっその気になれば、リンゴモニギリツブセマス!」

「どこで仕入れた知識かは知らねえがな、せめて意味を理解してから言ってくれ!」

「意味?」

きょとんとして問い返し、――オラクルはわずかに困ったような顔となって、繋いだままの手を見た。

違う、『繋いだまま』ではない。オラクルの指はすでに、開いている。

『お仕置き』が済んだ時点で、オラクルは手を放そうとしたのだ。手を放して、屈んで曲げていた腰を伸ばして――

繋いだまま、握ったまま放すことを良しとしなかったのは、オラトリオだ。やいやいと元気に返しながらも、繋いだ手がどこか、縋るように。

未だベッドに沈んだまま、起き上がらないということもある。

ほんの少しだけ考えてから、オラクルは開いた指をゆっくりと戻した。纏うノイズが、ゆるやかな暖色を灯す。

再び繋ぐ形としたオラクルは、それをぷらぷらと軽く、上下に振った。それこそまさに、握手のときの動きで。

「で正解は?」

『握手』とともにやわらかく促されたオラトリオといえば、オラクルから気まずく顔を逸らしていた。気まずく顔を背けながら繋いだ手は解けず、むしろ力は強くなる。

刹那、笑おうとして、オラトリオの顔は結局、くしゃりと歪んだ。

「正解……正解、なあ……合ってるとも言えるし、合ってないとも言えるし……」

「………」

なにかを誤魔化す言い方だ。なにかがなんであるのかはわからないが、なにかを誤魔化し、ことを曖昧に、有耶無耶の内に流そうとする。

またからかわれているのかと、ほんの一瞬柳眉を逆立てたオラクルだが、今度は怒りを露わとするまでの隙はなかった。

なにかを誤魔化して痛みに歪みながら、オラトリオが笑う。

笑って、オラクルを見る。

オラクルと繋いだ、オラクルが繋いでくれた手を。

「けど、助かったこたぁ、確かだ」

告げて、今度はオラトリオが繋いだ手を軽く、上下に振った。

手を、繋いでくれた。

オラクルだ。

オラトリオが落ちることに抗おうと伸ばした(あるいは伸ばそうとした)手を、落ちる前に取ってくれた。

なにとも知れないなにかに届かぬまま諦めて、絶望して、落とす前に。

取って、言葉を繋いでくれた。

頼む言葉だ。

慰める言葉ではなく、憐れむ言葉でもなく、――頼んでくれた。

疑問符付きであろうと、確信がなかろうと、そんなものはほんとうは、どうでもいい。

ただオラクルが、オラトリオを頼みとしてくれること。

痛みを宿しながらも笑い、繋いだ手をゆるゆると振るオラトリオに、オラクルは小さく首を傾げた。身に纏うノイズが静かに瞬き、また、ゆるやかな暖色に沈む――

いつでも放せるよう、指から抜いていた力を戻し、オラクルはぶんぶんと大きく、繋いだ手を振ってやった。その勢いに乗せるように、自らの姿勢も変える。

とすんとベッドに腰かけて、オラクルは間近となったオラトリオへにっこり、笑い返した。

「どういたしまして」

歪みもない、翳りもない笑みに受け止められ、オラトリオは瞳を細めた。

「先に言うなよ………まだちゃんと言ってねえだろ、俺」

「こういうことは、先手必勝なんだろう?」

「そ、うだけどそうじゃねえってか、ああもう……っ」

腐す言葉に、やはり満面の笑みが返される。オラトリオはため息をつき、――

繋ぐ手を、放した。

束の間離して、すぐに形を変え、繋ぎ直す。

『握手』から、指を絡めてきつく、きつく――

繋いだ手を基点にオラクルのからだを引き寄せ、自分の上に乗せた。抵抗もなく素直に倒れこんできたからだに、その重さに、小さく、息がこぼれる。

「また体重忘れてんじゃねえか、おまえ…」

「ああ…」

指摘に顔を上げようとしたオラクルの背に、空いている手を回して押し止め、オラトリオは目を閉じた。繋ぐ手以上にきつく抱き竦め、瞬くノイズの隙間、肩口に顔を埋める。

「助かった、オラクル――愛してる、俺の相棒」