Episode00-鳥啼く声す-02

小さなウイルスやハッカーは絶えず<ORACLE>を襲っている。

だがそのほとんどは、強固につくられた防壁に弾かれ、叡智の欠片に触れることもできないだけ。

電脳空間に突如としてそびえる白亜の宮殿を見つめ、オラトリオは小さくため息をついた。

常の目には見えない幾重にも巻かれた防護壁が、絶え間なく訪れるハッカーやウイルスを次々と撃退していくのを、いささかうんざりとした気分で眺める。

どうしてこう、次から次へと、性懲りもなく。

それほど、あの佳人を汚したいのか。

なにゆえ、あの儚い人を脅かしたがるのか。

防護壁をすり抜けざまに、自分が不在だった間の処理データを受け取り、宮殿の床面に降り立つ。

心もとない感触ではあるが、足が地についた感覚はわずかに精神を安定させる。

切り替えがうまくいっていない自覚はある。

ここはここ、そこはそこと割り切って、電脳空間にも馴染めばいいのだ。

だが、どうしても活動時間の長い現実空間に慣れてしまっていて、無意識にあちらの演算を持ちこんでしまう。

気がついたときの不快感といったらない。

自分の未熟さをまざまざと見せつけられて、うれしい人間はいないだろう。オラトリオは人間ではないが、人間を模した感情を埋めこまれている。

いっそ投げ捨てたいと思うことも多々ある、巧妙な模造品。

そう、あの不快感を、よりにもよって相棒にまで波及させていると気がついたときの、絶望感。

そうでなくても怖がりで、幼い彼に、こんな感情を共有させているなど。

「接続を切りたい気は全然しないんだが」

つぶやく言葉に嘘はない。

初めのころはともかく、今では彼と繋がっていることはなによりもこころの安寧だ。

穏やかで安定した感情波を感じていると、常に晒されているストレスが流されて消えていくような心持すらする。もちろん錯覚だが、ある程度までは真実でもある。

最近感じるストレスの大半は、オラクルとの接続をわずかに強めることで、深刻な問題にならずに消えているのだ。

彼の感情波は気持ちいい。

知識としてしかないが、羊水に揺られる赤ん坊というのは、こんな気分ではないかと思うような。

「…甘ったれてんなあ」

「え、ごめん?」

執務室に入ったところでつぶやいた言葉を拾い、意味もわからないだろうオラクルが、なぜか謝る。

謝る自分に疑問もないようだ。

オラトリオは苦笑して、首を掻いた。

「意味もわからずに謝るなよ」

「あ、うん。ごめん」

だから謝るな、というのに。

最初のころ、自分の未熟さゆえに手痛く扱ってしまった記憶を引きずっているのか、オラクルはオラトリオに対して引き気味に接する。こちらとしてはもう、距離を詰めたいと思っているのだが、なかなかきっかけもなく。

手の中に転がしていた不在中の処理物件を検め終わり、オラトリオはデータを投げる。データは圧縮され、小さな紙片となってどこからともなく現れたファイルに収まり、また棚に戻っていく。

「元気だったか」

訊くことに意味はない。彼が元気を失くせばダイレクトに伝わってくる間柄だし、これは時候の挨拶。

「うん」

だが、ダイレクトに内容ばかりを扱うだけのオラクルに、時候の挨拶は理解しがたいのだろう。いつも不思議そうに見返される。

だって、元気がなかったらわかるだろう?

言いたいのは、おそらくそんなこと。

オラトリオは帽子を脱ぎ、髪を掻き混ぜながらソファに座った。

今のところ緊急の用件はない。監査の報告を上げなければいけないが、それほど差し迫っているというわけでもない。

要するに、少しは暇そうにしてもいいということ。

無意識がローテーブルを彷徨い、一瞬後に不快感に取って代わる。

ここは電脳空間であり、現実空間ではない。くつろぐためにお茶を飲む習慣はないし、必要もない。

瞬間湧き上がった自分への殺意を、慎重に、しかし一息で底へと押し沈める。

視界の片隅で、苛立ちを波及させられたオラクルが困惑して立ち尽くしているのが見えた。

悪いな、と。

ひとこと、言えればいいのだが。

不安を素直に表して揺らぐ雑音色のローブが、痛々しい。

ため息を押し殺して目を逸らし、ソファに仰向けに寝転がった。

未熟だ。

絶望的に。

「…オラトリオ」

「ん?」

さっきまでカウンターの中にいたオラクルが、音もなくオラトリオの傍らに降り立つ。

仕事中でも微妙な距離を開けていたがる(主にそれは初期のオラトリオから受けた手痛い扱いに起因するわけだが)オラクルが、こうやって自ら近づいてくることは珍しい。

ソファの傍らに立ち尽くすオラクルを怯えさせぬよう、オラトリオはそっとからだに力を込めた。

オラクルの瞳が、揺れている。不安定な雑音色が、交差し、交錯する。

「いま、いそがしい?」

幼い口調で訊かれて、オラトリオのこころが跳ねた。

製作者たちは同じ顔に作ったというが、オラクルの見せる表情は自分には到底醸し出せない愛らしさと、ある種の色気を持っている。

意識もされず醸し出されるそれが、最近妙にこころを騒がせる。

オラトリオは表情を緩め、ことさらにリラックスした雰囲気をつくった。

「いや。取り立てて急ぐ仕事もないから、休憩休憩」

「…」

くちびるが開き、言葉を発せずに閉じる。

珍しいことだ。

ほとんど凶悪なほど無邪気につくられているオラクルの思考は、ことオラトリオに対しては言い淀むということがなく、ストレートに思うままを告げるのに。

オラトリオは静かにオラクルへの接続を強める。

常に安定している感情波に、わずかな乱れ―…不安、恐れ、躊躇い?

「オラクル」

「お願いが、あるんだ」

半身を起こしたオラトリオに、オラクルはどこか必死な色を浮かべて手を組んだ。

「なんだ?」

オラトリオは努めて穏やかに訊き返す。

オラクルは言葉もなく口を開け閉めし、瞳を伏せ。

辛抱強く言葉を待つオラトリオを見据えると、か細い声を上げた。

「一回だけだから。一瞬でいいんだ。おまえを共有したい」

「…は?」

意味が捉えられず、オラトリオはぽかんとした顔を晒した。

オラクルが身を乗り出し、距離を詰める。

「一瞬だから。ほんの少しだけだから。おまえにリンクしたい」

「リンクって、おまえ。してるだろ?」

だから、感情を受け取れる。受け取ってしまう。

オラクルの意図が掴めず訊き返すオラトリオに、オラクルの雑音色の瞳が乱れた。

「おまえの全部を、感じたいんだ」

「俺の全部って」

「一瞬だから。ほんとうに、一瞬でいいんだ。おまえの全部を、私に同調させたい」

ぽかんとした顔を晒したのは、意味が取れなかったせいではない。意味が取れたせいだ。

全部を同調させるということは、プログラムの境を越えて融け合うということ。

秘密もなにもなく、すべてを曝け出して。

こころ奥深く潜めた弱音も、溺れ死にそうな恐怖も。

オラクルが「一瞬」というからには、それはほんとうに一瞬のことだろう。現実には存在すらできぬような、マイクロ・セカンド。

マシンのスペックが低ければなにひとつ掴めないだろうが、相手はオラクル―<ORACLE>、世界一を誇る演算機能を持つマシンだ。なにかしらの情報は掴まれる。

「…全部って、全部か」

思わず唸るように訊いたオラトリオに、風もない空間でローブがざわめく。色が踊り、目が痛むようだ。

「一回だけ。一回だけでいいんだ。一瞬だけだから」

どこか必死に言い募るオラクルの声に、力はない。ただ、すがる響きだけがある。あまりに哀れで、痛々しいまでの。

「…」

唸りながら、オラトリオは跳ね回る色を見つめていた。

オラクルは世間知らずだが、自分が今言っていることがなにを意味しているか、どんな体験が自分を襲うかくらいはわかっているはずだ。

言葉こそ恐ろしくストレートだが、億通りものシミュレーションを行わなければ行動には繋がらない。

良くも悪くも、それが<ORACLE>であるということ。

「一瞬、なんだな」

「うん」

念を押したオラトリオに、オラクルが小さく頷く。

「一瞬、だからな」

「うん。…うん!」

迂遠に了解したオラトリオに、オラクルの表情がぱっと明るくなった。

こちらはそれどころではない。

一瞬とはいえ、オラクルはオラトリオが普段必死に自制している恐怖とストレスに向き合うことになるのだ。

薄々感じてはいても、あまりに奥深くに押し隠したために、ほとんど伝わることはない、気の狂うようなあの感情に。

わかっていて言い出したのだろうとは思っても、気が滅入る。

それでも断れないのは、彼からのお願いがほんとうに珍しいせいと、思いつめた感情波を被ったせいだ。

ため息をついたオラトリオの上に、オラクルが身を乗せた。

「おい?」

オラクルの取る方法がわかっていないオラトリオはわずかに慌てる。

そのからだをソファに押し倒して、オラクルはオラトリオの腰に跨ると両の手を繋いだ。

電脳空間ゆえに重さはないが、奇妙な眺めであることは確かだ。

息を詰めるオラトリオに、どこか夢見る色を浮かべたオラクルが、そっと顔を落とした。