Episode00-鳥啼く声す-04

そびえる白亜の宮殿。幾重もの防壁に覆われ、禍しいものの内への侵入を防ぐ。

だが、こうも見える。

中にいるものを、決して外に出さぬための隔壁にも。

自分がひどく感傷的になっているのを把握しながら、オラトリオは<ORACLE>を見つめた。

久しぶり――実に1か月ぶりの来訪だが、日進月歩の世界でもこの場所にさしたる変化は見えない。

相変わらずのウイルスとハッカーの進撃。

自分が相手をするほどのものではないとわかっていても、苛立ちから声が溢れそうになる。

傷つけたいか。

汚したいか。

それほどに、あの佳人を。

正規の客に対してはないも同然の防壁をすり抜けざまに、自分がいなかった間の処理データを受け取る。

日進月歩の世界らしく、ウイルスは先月とは型が違う新種だ。

意味はない。

所詮ウイルスに変わりはないのだから。

「…?」

床面に設定された基盤に足を着けた瞬間、違和感を覚えた。不快に直結するものではないが、今までとなにかが違う、と記憶が告げる。

首を捻って<ORACLE>を見渡した。

大きな変化はない。

定期連絡の際にも、オラクルが特になにかを言っていたことはなかった。

足を踏み出し、扉へ手を掛ける。

小さなバージョンアップなら、常に行われている。

細かで膨大なそれをいちいちオラトリオに断っていたら、仕事の邪魔でしょうがない。

そう、オラクルが世界を改変するのに、いちいちオラトリオに断ることはない。

世界の住人はオラクルで、オラトリオは彼の半身ではあってもこころ半ばを現実空間に置いてきているのだから。

「おかえり、オラトリオ」

「…たでーま」

カウンターに向かって書き物をしていたオラクルが、嬉しそうな笑顔でオラトリオを迎えた。

やわらかなそれは主の性格を如実に表して、ささくれ立つオラトリオのこころをやさしく宥めてくれる。

「今忙しいか?」

帰ってきたときの定位置となりつつある来客用ソファに向かいながら訊くと、カウンターの上を簡単に片づけてオラクルが笑う。

「タイミングよく帰ってくるやつだ。ちょうどひと段落ついたところだよ」

「そりゃラッキー。やっぱ日頃の行いが物を言うわな」

嘯くと、オラクルが呆れたように肩を竦めた。

オラトリオは手の中で転がしていた処理リストを放り投げる。圧縮されたそれは紙片となって舞い、どこからともなく現れたファイルに収まった。

「じゃあ、ちょっと休むわ」

ソファにどっかり腰を下ろす。

一瞬、言葉が消えた。

息を呑み、オラクルに気づかれぬよう、そっと周囲を窺う。

「あ、ちょっと待って。今日はいいものがあるんだ」

なにかに気を取られているらしいオラクルは、わずかに緊張を孕んだオラトリオに気づかない。

カウンターから出てくると、歩きながらさっと手を振った。白い大きな箱が現れ、オラクルの両の手の上に乗る。

「さっきコードが来てね。オラトリオにどうぞって」

「師匠が?」

俺に?

意外な名前の意外な指名に、オラトリオはわずかに渋面になった。

最古参の先輩である彼が、機嫌よく「どうぞ」などと言って他愛ないプレゼントをくれる様は想像できない。ひよっこが未熟者がと常に足蹴にされている身は、すべてに疑り深い。

ソファの前にあるローテーブルに置かれた白い箱を睨むオラトリオに構わず、オラクルは傍らに座るとさっさと蓋を開けた。

「…師匠が?」

もう一度、胡乱な声を上げたオラトリオに、万事厳しい師匠に甘やかされる対象であるオラクルは無邪気に微笑んだ。

「うん」

「…」

回路が灼き切れそうな気がする。

箱の中身は、ケーキだった。

それも、ホールケーキ。

たっぷりの生クリームと、愛らしく散らされたベリーたちが宝石のような、かわいらしいケーキだ。

だがケーキだ。

よりにもよってコードからケーキ。

意味不明にも程がある。

「なんて言ったかな。れあちーずけーきだって」

オラクルは楽しそうだ。

食物摂取が必要ない彼が今まで、飲食する姿を見たことはない。おそらく珍しい体験に入るのだろう。

「外に出たい」とは思わなくても、「外」の物事に関しての知識欲は旺盛な彼が喜ぶのは理解できる。できるが。

オラトリオはずきずき痛む額を指で押して、深呼吸した。

「なんで師匠が俺にケーキ?」

混乱がそのまま表れて、うまく文にできなかった。

しかしオラクルは気にしない。

「エモーションに頼まれたって言ってたけど。なんでも、人間ってたくさん仕事したらご褒美にケーキを食べるんだろうオラトリオも普段、頑張って仕事してるんだから、たまにはご褒美をあげてって」

「世間知らずが二乗……!」

思わず呻く。

いや、その世間知らずの使いっ走りをしたコードも含めるべきなのか。そうすると三乗。それはイコールで惨状といえる。

ひよっこにご褒美なぞ要るかとかなんとか言いそうな御仁だが、愛妹の頼みでは聞き届けないわけにもいかないのだろう。

「あ、と。忘れてた。紅茶も淹れないと」

ぽんと手を打ち、オラクルはさっと手を振る。

データが現れ、解凍されて組み上げられた。茶色の液体が宇宙空間のようにふわりと中空に浮かびながら、ほかほかと湯気を上げる。

部屋中に爽やかなアッサムの香りが漂った。

「カップは…ぁ、ええと。どれがいいかなあ」

ぶつぶつつぶやきながら、中空に紅茶を保持したオラクルが真剣な顔でカタログを覗く。

オラトリオはそっと息を潜め、オラクルを注視した。

それから、何気ないふうを装って手袋を外し、ケーキに指を差す。

ねっとりしたホイップクリームの感触。掬い上げて素早く口の中に突っこむと、ラムの芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、蕩ける甘さが舌から咽喉へ流れていった。

べったりした甘みが重く舌に残り、口の中が爛れるようだ。

「…」

「よし、これで…って、あこら、オラトリオ、行儀悪いフォークぐらい出せ!」

二つ並べたカップに紅茶を注いだオラクルが、オラトリオの不品行に気がついて声を尖らせる。

オラトリオは顔を笑ませて激しく波打つ胸の内を隠すと、もう一度ケーキに指を突っこんだ。

「まあまあ、味見って大切よん。おまえもちょっと舐めてみ。うまいから」

「オラトリオ」

眉をひそめるオラクルに、オラトリオは笑う。屈託ないそれは相手の警戒心を解くのに、常に十全な効果を発揮してきた。

ましてや、この世間知らずが相手なら。

「これが醍醐味なんだって。な?」

笑いながら、クリームの乗った指をオラクルへと差し出す。

わずかに躊躇ったのち、知識量は十分でも常識に乏しい世間知らずな管理者は、オラトリオの指へそっとくちびるを寄せた。

舌が伸び、クリームに触れる。追いついてきたくちびるが、遠慮がちに指を口腔の中へと含んだ。ざらりとした粘膜が皮膚をくすぐり、とろりと蕩けるクリームを啜っていく。

ちゅく、と小さな水音を立てて、熱く湿ったくちびるは離れていった。

「甘い。おいしい!」

オラクルが無邪気に笑う。

「おまえは子供舌っぽいもんなー。こういうの好きそうだと思った」

内心の動揺を押し隠して、オラトリオはからかうようにくちびるを歪めた。

ばかにされたのはわかったはずだが、オラクルはわずかに首を捻る。

「こどもじた?」

「あー…」

説明しようとして、その煩雑さに嫌気が差した。

ケーキの社会的立場から、人間の味覚形成についてまで説明しないといけない。今の状態でそれは面倒なことこのうえない。

「ま、ともかく食べようぜ。こういうもんはあんまり日持ちしないって相場が決まってんだ。紅茶も冷めちまったら勿体ねえし」

「そうなのか」

誤魔化されたことはわかっただろうが、新しい知識に貪欲なオラクルはそちらに気を取られた。

オラトリオは手を振ると銀のフォークを二振り取り出し、ひとつをオラクルに差し出す。

「おまえも食うだろほら。取れよ」