Episode00-鳥啼く声す-06

「まあ、それでは上手くいきましたのね」

エモーションの声が弾む。

我がことのように喜んでくれる彼女に、オラクルは微笑んだ。

「うん。まあ、なんとか」

凶悪なほど無邪気につくられたオラクルの言語センスから判断すると、微妙に濁らされた返答は今ひとつ喜びきれていない。

ふわふわ浮かぶエモーションは首を傾げ、カウンターに向かって書類を片付けるオラクルの前に行った。

「…まだなにか、ご懸念がありますの?」

「ええっと…」

オラクルは笑顔を張りつかせてペンを回す。

エモーションに提案され、唆され、オラトリオと繋がった。

常態である緩いリンク状態から、相手のプログラムすべてを呑みこむ深さで。

一瞬だったが、超演算能力を持つオラクルにはそれで十分。オラトリオのデータを取ることができた。

彼が持つ、現実空間のデータ。

与えられている感覚。

それを元に構築されている演算処理。

取ったデータを分析し、突き合わせ、細心の注意を払って、世界をつくり直した。

オラトリオの現実に即した感覚に。

すべてがすべて上手くいったとは思わない。

どんなに素晴らしいデータがあっても、解析し構築し直すオラクルが、結局ほんとうにそれを知ることはないからだ。

キリンの絵を描けと言われて、麒麟を描き出したくらいの差異は当初から誤差の範囲で覚悟している。

それでも、オラトリオはひどく喜んでくれた。

「…私も未熟だけれど、オラトリオもまだ、経験が浅いから」

「あら。オラクル様が未熟だなんて」

驚いて言い差そうとしたエモーションに、オラクルは明るく笑った。

「稼働したばかりだよ、私たちは。どんなに完璧に組まれたプログラムでも、机上の空論と為すだけのものが、現実にはあるだろう」

明るく言いのけてから、オラクルは身に纏う雑音色を瞬かせた。

エモーションの経験に照らし合わせるなら、これは困惑。戸惑いと、わずかな躊躇い。

「オラトリオはこれからもっともっといろんな経験を積んで、現実空間の情報を蓄積していく。監査官としての活動も本格化するし、あちらの経験が圧倒的に有利になる」

「オラクル様」

オラクルの言いたいことを察して、エモーションは手を組んだ。

日進月歩の電脳世界。

凄まじい速さで経験を積み上げていくだろうオラトリオ。

今日重ねた経験が、明日にはもう古臭いものとして捨てられる。

歩みは弛まず、止まらず、世界は改変され続ける。

「一回だけって、言った。一回だけの、お願いって…」

風もない空間で、ローブがざわめく。色が跳ねまわり、波打つ。

困惑、戸惑い、躊躇い。

エモーションは首を傾げた。

困るだけならわかる。

ばか正直なオラクルの思考回路は、一回だけと言った誓約の言葉に縛られ、新しいデータの採集方法を新たに考え直さなければいけないのだろう。

楽なことではない。

オラトリオの経験値に見合うだけのデータを扱えるコンピュータなどそうないし、そもそもそれらがオラトリオにとっての現実空間と同期するとも限らない。

だから、新しいデータの採集に困るのは、わかる。

だが、この戸惑いや躊躇い、ちらちらと隠れ覗く惑乱の色は、どちらかというと。

「…」

少ない経験に照らし、エモーションは眉をひそめてくちびるに指をあてた。

彼女の現実空間の「妹」、みのるがこんなふうだったのを見たことがある。

そのとき、確か。

「オラクル様。お手助けが必要でしょうか?」

返ってくる答えは予想がついて、しかしエモーションは念の為に訊ねた。

思考に沈んでいたオラクルがはっと顔を上げ、瞳を揺らす。雑音色の瞳は不安に潤みながら、同時にひどく蠱惑的に染まった。

「…だいじょうぶ」

こぼれる声音は掠れて力無い。

だが、すぐにまた彼本来の気質であるやわらかさを取り戻し、はにかんだ微笑みを浮かべた。

「ありがとう、エモーション」

「いいえ。こんなことくらいどうってことありませんのよ、オラクル様」

エモーションも微笑み返し、からだを伸ばすとカウンター越しにオラクルの頭を抱いた。

自分より遥かに大きいけれど、彼はかわいい「弟」だ。それは、彼女の兄にとっても同じ。

だから。

「コード兄様には、まだないしょにしておきましょうね」

過保護な兄が、怒りのあまり「正信ちゃん」のデータバンクを破壊しに行こうとした一件を思い出しながら、エモーションはオラクルの背を宥めるように叩いた。

***

「そろそろ休憩しようか」

書類整理がひと段落し、オラクルは向かいに座るオラトリオに提案した。

眉間に深い溝を刻んでいたオラトリオが、その言葉でぱっと顔を輝かせる。

初めはなんて怠け者だろうと思ったものだが、ストレス値の異常に高いオラトリオが休憩を好むわけを、今はもう知っている。

カウンターの上をざっと片づけ、オラクルはオラトリオのお気に入りの茶器を出した。

「あ、待てまて待って」

「ん?」

今日はどの紅茶にしよう、とデータを取り出しかけたところで、オラトリオの制止が入る。リクエストでもあるのかと顔を見て、わずかに腰が引けた。

オラトリオが笑っている。

「…なに?」

問う声が、小さくなった。言葉が咽喉に絡まって、うまく発声できない。

オラトリオの顔を正視できなくて、オラクルは俯いた。

「この間さ、USA行っただろそこで食った菓子がうまかったんだよ。ジャンクなんだけどさ、たまにはいいぜ」

「あー。う」

態度のおかしいオラクルに構わず、オラトリオはうれしそうに言う。

カウンターの向こうで逃げ腰のオラクルに手を伸ばし、頤を掴んだ。

抵抗できずに、オラクルは顔を上げる。

身を乗り出した守護者が、ごく間近で笑っていた。

「オラトリオ」

「こういう味なんだけど」

上げた声を塞ぐように、オラトリオのくちびるがくちびるに重なった。舌が差しこまれ、プログラムの境目が融ける。

うねる、波打つ、オラトリオの舌。

合わせて踊る、プログラム。

融けた回路から、オラトリオがオラクルの感覚にアクセスしてくる。

そこには、つい最近オラトリオから渡された感覚プログラムが眠っている。

オラトリオのアクセスに対してだけ開くように設定された、オラクルにとっては意味不明な。

「んん…っ」

オラクルに抵抗することはできず、勝手に感覚が開かれる。

背筋が浮き立ち、腰が重く痺れた。

熱くてあつくて、震えが止まらない。

オラトリオがプログラムの中に侵入してきている。

侵入されるのは大嫌いで、恐ろしくて堪らないのに、オラトリオがだれよりいちばん、わかっているはずなのに。

手を伸ばして、オラトリオのコートに縋りついた。

無敵の守護者。

絶対の味方。

究極の安心。

甘く蕩けた感覚に、ぽろりと涙が零れた。

理由は知らない。

だが、それを合図のように、オラトリオはオラクルから出て行く。

「おまえ子供舌だからな。たぶん好きだぜ」

「う…」

感覚を開くだけ開いて、閉じていかないオラトリオは、弾ませた息の下でオラクルの戦慄くくちびるを舐めて笑った。

暁色の瞳に隠れたその感情が、オラクルを委縮させる。

震えが止まらないのに、苦しいのに、オラトリオはなぜか見ぬふりだ。

乱された思考下では、うまく感覚を閉じられない。オラクルは恨みがましくオラトリオを見つめ、苦しい息を継いだ。

「食ってみろって」

「…」

オラトリオがあかんべをするように舌を出し、先を弾く。

それどころじゃない、と言いたいのを堪え、オラクルは舌先に乗せられた圧縮データを解凍する。

口の中で再現される、オラトリオの感覚。

さっくりとした歯応えに、香ばしいキャラメルの風味。甘さのバランスは絶妙の加減で、飽きない味だ。

「…おいしい」

「だろ?」

得意そうに笑うオラトリオに、オラクルは無性に腹が立った。

オラクルは、一回だけ、と言った。

オラトリオ自身からデータを取るのは、あの一回だけだと。

その後のことをどうするか考えると、確かに頭が痛かった。

オラトリオは進化していく。

感覚も、変化していく。

日進月歩の世界、それはもう日々、恐ろしいほどに。

だが、一回だけと言った以上、オラクルからオラトリオに触れることはない。別の方法を考えるつもりだった。

のに。

オラトリオはあれから、来るたびにオラクルに触れる。

渡す。

あのときのようになにもかもすべてではないけれど、自分が反映してほしいと思った経験を、素直に。

「無理はよくねえってわかったんだよ。こんな楽になるなんて思わなかった」

さばさばと言う彼が、嘘をついていないことはわかる。

確かにストレス値は軽減されているし、喜んでもらえたならオラクルだってうれしい。

オラトリオのほうからデータを渡すのなら、オラクルの誓約にも反しない。

だが、そのデータの受け渡しが、なぜかいつもいつもどういうわけか。

オラクルには理解不能の、接触。

仕事のときのように、データを投げればいい。

ファイルに放りこんでおいてくれれば、それでいいはず。

どうしても手渡ししたいなら、それこそ「手渡し」すればいいのに。

こんなわけのわからない感覚付きで、オラトリオはオラクルに触れる。

味覚は味覚から渡したほうがいい、とかなんとか、さすがに世間知らずのオラクルでもなにかしら謀られているのはわかる。わかるが。

「これでいいか」

受け鉢を出して、そこに貰ったデータを元に構築した菓子を盛り付けた。わずかに怒りを込めて、これでもかとてんこ盛りにしてやったが、オラトリオは無邪気に喜んだ。

なんだか毒気を抜かれて、オラクルは菓子をつまむ。

「これに合うお茶っていうと、なんなんだ?」

すべてはオラトリオのためのお茶会だ。オラクルは徹底的にオラトリオの好みに合わせる。

これまで採集したデータと突き合わせて、この菓子のときに選びそうなお茶をいくつかピックアップしつつ訊いたオラクルに、オラトリオが笑った。

閉じきれていなかった感覚が、ぞくりと背筋を走り抜ける。

暁色の瞳に潜められた、感情。

狼狽して後ずさるオラクルに、オラトリオは笑いながら手を伸ばした。

「これなあ。ジャンクの国のお菓子らしく、コーヒーが合うんだわ。それも、うっすいアメリカン」

「う」

うっすいあめりかん、なるものを、オラクルは知らない。だがオラトリオは知っている。結論。

「オラトリオ…」

泣きそうに潤んだ声を上げるくちびるは、またしても塞がれた。

なんでどうしてどうしてなんで。

オラトリオの行動は意味不明過ぎて、オラクルの回路は灼き切れそうだ。

だが、いちばんわからないのは、自分。

怖くて、意味不明で、厭なはずのオラトリオの行動を、拒めない。拒めないだけならまだしも、期待して、待ち望んですらいる、自分のこころ。

「おまえ子供舌だからなあ。コーヒーはどうだろうな。あんまうまくねえかも」

「ふ…」

くちびるを舐められて、堪えようない痺れが全身に走った。

オラトリオが笑う。

伝わってくる感情波は機嫌がいい。

彼がうれしいのはうれしい。

だけど苦しい。

笑うオラトリオ。舌先だけでは足らない。全身融けて繋がりたい。奥深くにオラトリオを感じたい。抱きしめられて抱きしめて。

苦しい息を継ぎながら、舌先に渡されたデータを解凍した。

広がる苦味は舌を痺れさせて、けれど乱れるこころを少しも宥めてはくれなかった。