Episode00-鳥啼く声す-09

とはいえ、ふたりが再び桜部屋を訪れられたのはそれから数日経てからだった。

オラトリオはそもそも査察の途中で会議のためだけに時間を空けただけだったし、オラクルだとて暇なわけではないのだ。

しかし、時間を超越できるのも電脳空間だ。

相変わらず満開の桜は、すでに裸になっていておかしくない勢いで舞い散り、儚く世界を彩っていた。

コードの置いていった桜餅も同様だ。現実世界なら硬くなったり痛んだりしそうだが、できたての状態を保ったままだった。

電脳空間と現実空間の差異によってストレスを溜めるオラトリオだが、こればかりはよかったと思う。お互いに忙しい身なのに、時間の制約に縛られるとなにもできなくなる。

四阿の長椅子に並んで腰かけると、オラトリオのくちびるから小さくため息がこぼれた。

桜吹雪の中にいるオラクルというのも、なかなかいい。同じ顔のはずだが、現実味の薄い彼が桜吹雪に撒かれていると、桜の精にでも出くわしたようだ。

前回は師匠がいっしょだったので堪能できなかったが、今日はどれだけ眺めていても咎められることはない。

「…あ」

飽きずに散る桜を眺めていたオラクルが、オラトリオの視線に気がついて戸惑った顔をする。

「お茶、なんにしようか。…抹茶?」

最後には砂糖入りにはしてやったものの、文字通り苦い記憶が残ったのだろう。オラクルの声は躊躇いがちで、あまり気が進まないようだ。

オラトリオは笑って、桜餅に合いそうな茶を考えた。

「…ま、今日は気取らない席だしな。ほうじ茶ってとこでいいんじゃね?」

「ほうじ茶ね…」

お茶会のメニューは、オラトリオのリクエストに添って用意される。そもそも、お茶会を開くこと自体が、オラトリオのストレス値軽減のためだからだ。オラクル一人なら、大して必要な概念ではない。

「はい、どうぞ」

気取らない席、という言葉で、オラクルは凝った茶器ではなく、普段使いの茶器を取り出して、火傷しそうなほど熱いほうじ茶を淹れた。

飲みごろに淹れることも可能なのだが、タイマーをセットして、徐々に冷めるようにしている。計算が微妙に複雑になるのだが、それもオラトリオから学んだ『現実』というものだ。

「さんきゅ」

軽く言って、オラトリオは吹き冷ましながら、熱いほうじ茶を啜る。

庶民の味なだけあって、気を抜いて楽しめる。それでいながら香り高く、オラトリオの好みそのままだ。

それも当然で、オラクルにほうじ茶の味を伝えたのはオラトリオだ。自分が飲んでおいしいと思ったもののデータを渡し、それを元にオラクルはお茶会のメニューを構成する。

「うまいわ」

「ん」

ほ、と息をついて言ったオラトリオに、オラクルは、よかった、と頷く。オラトリオのためのお茶会なのだから、オラトリオが心地よくなくては意味がない。

自分にはまだ熱すぎるお茶を置いて、オラクルは桜餅に手を伸ばした。こちらは時間の経過を演算に入れられていないから、かなり放っておかれたというのに、皮はふにんとやわらかい。

手づかみとは言っても、オラクルの場合は性格が出るのだろう、あくまでも上品につまんで、そっと口に運ぶ。半分くらいを噛み千切って咀嚼しながら、上目使いにオラトリオを見た。

オラトリオも桜餅に手を伸ばす。視線の意味には気がついても、あちらから言われるより前に行動には移さない。

「…おいしい?」

オラトリオが桜餅を呑みこんだところで、ようやくオラクルは口を開いた。どこまでも躊躇いがちに、戸惑ったような声。

訊きたいことはわかっていて、オラトリオはわざとらしく暁の瞳を見張る。

「なんだよ、うまくないのか、おまえ?」

「そうじゃないったら…!」

はぐらかされて、直情的な管理人が苛立った声になる。オラトリオのほうにからだを向け、ずい、と身を乗り出した。

「そうじゃなくて、おまえの…」

興奮のままに言い差して、オラクルは黙る。

好みが知りたいのだ。いつかまたやるお茶会に、メニューを再現するときのために。そのときには、オラトリオの好みそのままに、用意したいから。

だが、それをうまく言葉に置き換えられない。

守護者として、常にオラクルの庇護者たりたいオラトリオは、あからさまに気遣われるのを嫌う。オラクルが良かれと思ってしたことで、オラトリオの勘気を買ったのは、一度や二度のことではない。

特に起動の初期段階では、そのごたごたによって、守護者でありながら、オラトリオはだいぶオラクルに辛く当たった。

自分が未熟だったのだ、と今はオラトリオも反省しているのだが、根が素直ではないから、そんなことを正直にオラクルに告げない。

よって、今でもオラクルにとっては、オラトリオを気遣うことは神経を尖らせる事項なのだ。

深いところで常にリンクしていて、つまらない感情はお互い筒抜けなのだから、それくらい察してくれてもいいような気はするのだが、オラクルはどこまでも感情に鈍い。

「…そうだな。まあ、俺も桜餅なんて食ったことねえから、どうのこうの言えねえんだけどよ」

「そうなのか」

穏やかに言ったオラトリオに、オラクルは肩の力を抜く。す、と離れて行こうとしたからだを、オラトリオは素早く腕を回して捉まえ、引き寄せた。

「でもまあ、好みくらいはある」

「…あ」

笑うオラトリオに、オラクルの雑音色の瞳が揺らぐ。

走る感情は動揺、恐れ、――一握の、期待。

守護者が恐怖を与えていては仕様がないが、オラクルの瞳に走る、この少しばかりの期待を見ると、自分を止められなくなる。

どこまでも受け入れられて、赦される。

感覚は、甘美で、離れがたい。

「もうちょっと、こう…甘みが控えめだといいかな」

「ん…っ」

つぶやきながら、オラクルのくちびるにくちびるを重ねる。境界を融かすと、プログラムに介入。オラトリオにだけアクセスを赦した感覚を開く。

「ん…っ……っふ…」

オラクルが苦しげな鼻息を漏らす。

本来呼吸のないオラクルに甘い吐息を教えたのも、オラトリオだ。うまく息が継げなくて、震えるさまはどうしてもそそられるから、外せなかった。

プログラムを揺さぶり、からだの奥に刺激を与えてやると、造形美の極致を尽くされた手が伸びてきて、縋るようにコートを掴んだ。

現実とは違って冷却材が入っているわけではないそれは、どこまでもやわらかく肌触りがいい。その再現率も、オラトリオが渡したデータに基づいてオラクルが再計算し直し、オラトリオにフィードバックしたものだ。

「…こんなもんか」

騙す言葉をつぶやいて、オラクルの舌に味を再現したプログラムを置き、オラトリオは名残惜しく離れる。

「おまえには甘さが足りねえかも」

笑って、赤く染まった管理人を眺める。

桜の中で、その色に染まるオラクルもまた、かなりいい。頼りない瞳が、潤みながらじっと見つめてきて、その物言いたげな視線に煽られる。

「な?」

つぶやきながら、名残りでまた、くちびるに小さいキスを落とす。快楽をセットした感覚を開かれたオラクルは、それだけの接触にも、大袈裟に震えた。

感覚自体を必要としていないオラクルにとって、快楽ともなれば未知の領域過ぎて、処理が追いつかないのだ。

だが、どこまでも怯えたふうで、それでいながら癖になっていそうな甘い顔をされると、悪戯はエスカレートせざるを得ない。

独占することが無理なことはわかっている。

それでも、オラトリオにとってはただ一人のひとだから。

なにか、ほんのわずかでもいい。

爪痕を残したい。

「…ん…」

舌の上でプログラムを解凍し、再現したオラクルが、こくん、と呑みこむ。その咽喉の動きすらなまめかしくて、そう感じる自分に、オラトリオは苦笑した。

すっかり、この管理人にやられてしまっている。

もともとあった意味不明な感情を理解したのは、あの一瞬。

彼が、オラトリオの感覚に添った世界を再構築するために、オラトリオと深く繋がったあの一瞬――。

鋭く、熱く尖った自分をどこまでも従順に受け入れて、激情のすべてを受け止められた。どこまでもやわらかにやさしく包まれて、癒された。あの快楽の源にある感情。

守護者としての枠を超えて、オラクルを求めて止まないこころの名前。

『愛しい』。

あれほど侵入者に怯えながらも、守護者を気遣うことを忘れない、繊細にして温和なオラクルが、愛しい。

おかえり、と迎えてくれる、儚い笑顔。

たくらんけ、と罵る、癇癪を起こした顔。

どれもこれもが、かわいくて、いとおしくて、大事だ。

からだの熱を持て余して、信頼する守護者に凭れかかるオラクルに、オラトリオは小さく咽喉を鳴らす。

理由もなく、オラクルに触れられたら。

それこそが、今、もっとも望むことだ。

こんなふうに、プログラムを渡すとか渡さないとか、くだらない理由もなしで、ただ愛しいからと触れられたら――触れることを赦されたら。

感情がそこまで発達していないオラクルに、そんなことを望むことが酷なのだとわかっていても、望まずにはおれない。

幾許かの愛情を抱いてくれていることは知っている。

だから、余計。

「…おまえ、甘いの苦手だよな…」

何の気なしにつぶやいたくちびるに見惚れて、オラトリオは言葉が継げなかった。