Episode00-鳥啼く声す-11

抜けるような青空は、垣間見えるだけでも、どこまでも空間の広がりを感じてしまう。それでは広所恐怖症のオラクルがゆっくりと楽しめない。

ならば、夜景にしてしまえばどうだろう。

一計を案じたオラトリオは、空間を闇に閉じた。そこに、ほんのわずかな銀光を差し入れる。

晴天下では薄紅色に見えた桜の花は、そうすると抜けるように白く咲き誇った。

美しさが損なわれることはなく、むしろより一層の幻想的な美しさを持ってそこにそびえている。

「これもこれでいいもんでしょう」

どこか自慢げに主張する不肖の押しかけ弟子に、コードはふん、と鼻を鳴らした。

「夜桜ならば、伴は酒か」

「そうすると、つまみはしょっこいもんですかねえ」

四阿から野点様式と姿を変えた休憩処でのんびり話すオラトリオとコードの視線の先には、ふわりふわりと桜林の中を散策するオラクルがある。

『外』であると認識してしまうと思考統制が働いて気分が悪くなるオラクルだが、こうして闇に閉じた世界は電脳空間の暗闇と変わらない。『外』の空気を持ちこんでも、どこかで認識が騙されるので、思う存分散策を楽しめるのだ。

「おまえ、『外』で酒を呑んだことは」

「まあ、付き合いで少々。つっても、さすがに酔いはしませんねえ。そこまで干渉するようにはつくられてないようで」

「ふむ」

相槌を打ったコードが、小さく演算を働かせ始める。なんでもかんでも人任せにしたがる無精者にしては珍しい。

観察するオラトリオの前に、ほどなく、立派な酒瓶が現れた。

「電脳仕様の酒だ。プログラムでもそれなりの酩酊感が味わえる」

「…なにやってんですかい、師匠…」

普段の彼の乱れた生活が垣間見えて、オラトリオは軽く天を仰いだ。

そういったものは、普通、オープンネットには置いていないものだ。どう考えてもアンダーネット産。

こうして守護者である自分がいる前でつくりだしたりするのだから、違法は違法でも危険なものではないことはわかる。軽く検分した限りでも、危険度はないと出た。

それにしても、それにしてもだ。

「つまみは…そうだな、ありきたりなところで、スルメか。糠漬けなどもあると良い」

「へいへいですよ」

つまみはホストが用意しろ、と暗に迫られて、オラトリオは猪口とともにつまみをつくりだす。

自分は査察のために世界を回っているのであって、決してグルメナビではない。ゆえに、そうそうリクエストしたままのものが出て来ると思うな、とは言いたいのだが、もろもろあって、実はいろいろ口にしているオラトリオだ。

ついうっかり、リクエストに応えられてしまう。

「ふむ、いい漬かり具合だ」

「よかったっす」

出した糠漬けに珍しくも合格点を貰えて、オラトリオはがっくりと項垂れた。

グルメナビじゃない、グルメナビじゃない、と言いつつも、グルメナビ化しつつある今日このごろ。自分の行く末がちょっと思わしい。

瓶から手酌で猪口に酒を注いで、一口啜った。

現実空間で口にしたのとはまた違う感触が広がり、違和感は拭えないものの、知識として知っている酩酊が軽く呼び覚まされる。

感触だけでも現実を模そうかと一瞬考えたが、たまにはこういった趣も悪くはないだろうと思い直す。

確かに、現実空間で過ごすことが多いから、感覚はどうしてもあちら寄りになる。

だが電脳空間もまた、間違いなくオラトリオの生きる場所なのだ。

なにもかもを否定するばかりでは、後にも先にも進めない。

「なかなかっすね」

「ふん」

くつろいだ様子のオラトリオになにを感じたのか、微妙な褒め言葉にも、コードが鉄拳制裁に乗り出すことはなかった。ちらりと笑いを閃かせて、自分もまた酒を煽る。

やっぱ敵わないよなあ。

単純なようでいて、なかなか手強い師匠に、オラトリオは小さく嘆息する。

彼が敵に回った場合のことももちろんシミュレーション済みだが、常に勝率が低い。一度、オラクルと頭を突き合わせて、とことんまでシミュレーションしてみようかと思うほどに、分が悪い。

「ふたりだけで、なに食べてるんだ?」

わずかに思考を飛ばしていたところに、食べ物の気配を嗅ぎつけたらしいオラクルがやって来た。

――というと、まるでオラクルの食い意地が張っているようだが、そうではない。あくまでも、オラトリオのための嗜好調査に熱心なだけだ。

「それ、なに水?」

猪口の中身を覗きこんだオラクルが、きょとりと首を傾げる。

常に厳しいコードの表情がわずかにやわらぎ、オラトリオは遠慮なく吹いた。

「水なんかご大層に飲んでどうすんだよ」

「でも、ほら、確か『名水百選』とかいうのもあるんだろうそういうのじゃないのか?」

オラトリオの傍らに膝をついて、あくまでまじめに言うオラクルに、コードは納得したように頷いた。

「確かに、そうだな。似たようなものかもしれん。『命の水』と言うくらいだ」

「師匠~」

いい加減なこと教えないでくださいよ。

先回りして釘を刺すオラトリオに、おそらくそこそこ酔いが回りだしているのだろうコードは、にんまりと機嫌よく笑った。

「なにがいい加減か。俺様はほんとうのことしか言うておらんわ」

「やっぱり水なんだ」

「違うって」

素直に納得しそうなオラクルに、オラトリオは軽くツッコミを入れる。

「酒だよ、酒。夜桜と言ったら、花見酒だからな」

「へえ…」

言うほうのオラトリオも微妙に歪んだ知識を披露して、しかしここにツッコミを入れられるほど正確な知識を持ったものはいなかった。

オラクルは納得して頷き、首を傾げてオラトリオと猪口を見比べる。

「…おいしいのか?」

用心深くなったのはいいことなのか悪いことなのか。

少なくとも、オラトリオとコードが揃ってうまそうにするものは、必ずしもオラクルの口に合うものではない、という学習はなされているらしい。

「どうだろうなおまえ子供舌だしな…。酒っつったら、大人のもんだろ」

「…またそうやって、私のことをばかにする」

首を捻って、確かめるように猪口に口を付けたオラトリオに、オラクルが子供そのままに頬を膨らませる。

「そうだな。これはわりと辛口だ。おまえの舌に合うようにはつくっておらん」

「コードまで!」

過保護な『兄』なればこそ、弟を気遣っての言葉だったのだが、オラクルには逆効果だった。だいたいにおいて、兄の気遣いというものは空転するものだ。

憤然としてオラトリオに向き直ると、コードに同意して頷く守護者を睨んだ。

「そんなの、飲んでみないとわからないのに!」

「まあ、そうだけどよ。じゃあ、っ」

猪口をもうひとつ用意するか、と続くはずだったオラトリオのくちびるが、塞がれる。

かちゃん、と小さい音が響いた。オラトリオからは見えないが、おそらく、コードが猪口を取り落したのだろう。

オラトリオに口づけて、プログラムを触れ合わせることで味見したオラクルは、くちびるを離すと顔をしかめた。

「ちょ、からい…っ。にがいっなにこれほんとにおいしいの?!」

「…」

その問いに答えられるものはここにはいない。

オラトリオはごくりと咽喉を鳴らして第一級の警戒態勢に入り、コードはというと、どこまでもどこまでも空恐ろしく暗い顔でゆらりと立ち上がった。

その薄紅のくちびるが、ゆっくりと開く。空間を切り裂く烈火の叫びが迸った。

「細雪っっ!!」

「あーーーーっ、やっぱりぃいいいい!!!」

「え、ちょ?ふたりとも?!!」

唱えられた『召喚呪文』に、オラトリオは電脳以外では不可能な動きで飛び退った。

自分が蒔いた種とも気がつかないオラクルは、ぎょっと目を見張って、『兄』と守護者を交互に見る。

「きっさまぁあああっ、よくも俺様のおとうとに手を出したなああああ!!!」

「しっしょーう、ブレイクブレイクブレイク!ちょ、ここも一応<ORACLE>なんすから、細雪はだめご法度っすよ!!」

「黙れ、斬られろひよっこぉおおおお!!!」

ともに最強の冠を被るふたりは、器用に桜を避けて戦う。戦うとは言っても、一方的にコードが斬りかかり、オラトリオはそれを避けるだけだ。<ORACLE>の守護に限定されている力を振るうことはできないから、反撃のしようがない。

とはいえ、触れたものすべてを淡雪のごとく消し去る細雪を、<ORACLE>内部で振り回している時点で、<ORACLE>の危機と考えられないこともない。

規律を適用できないか、オラトリオはこれでいて真剣に検討していた。

オラクルは呆然とそのさまを眺めるしかない。なにが理由でこうなったのか、本気でわからないのだ。

ただ、わかることがあるとすれば。

「コード!オラトリオを斬ったりしたら、いくらおまえでも赦さないぞあと、<ORACLE>にも傷つけるな!!」

<ORACLE>の天然無邪気な管理人は、そのまま憤然と怒鳴った。

「そういうことは、おんもでやれ!!」

オラトリオとコードの双方を脱力させて、しかしそれすら気がつかないオラクルは、ただひたすらに憤然とふんぞり返っていた。

END