抱き上げられて、頭を撫でられる。子供じゃないと主張しても構うことなく、愉しげに抱きしめられて、囁かれる。

――子供だったら、らしく甘えておけよ。

Episode00-色は匂へと-06

だから、子供じゃないと言っているのに!

からだだけなのだ。中身はいつものオラクルで、精神まで退行しているわけではない。記憶を失っているわけでもない。

どこまでも、からだだけが縮んだ、それも一過性の現象だ。

オラクルは『オラクル』としての意識をはっきりと持っているし、機能も変わりなく使える。子供扱いは不本意中の不本意だ。

――どう見えているか知らないがな、もう少し扱いというものを考えろ!

咬みついたオラクルに、守護者は弾けるように笑った。

――もちろん、ガキに見えてるぜそれも、ものすごくちっこいガキに相応の扱いじゃねえか!

それはまあ、もちろん、子供に見えているだろう。ビジュアルだけは確かに否定しようもなく子供だから。

だが、それにしても、それにしても。

「………納得いかない」

ひとりきりの執務室で、オラクルは苦くつぶやいた。

カウンタの上に山と積み上げたファイルを区分けする表情は、渋い。

別に、仕事がいやなわけではない。相棒と違って、仕事が好きだとか嫌いだとか分けるほどの感性を備えていないのだ。

ただ、人間が呼吸をするように、心臓を動かすように――こなす仕事に、特に感想はない。

それでもあくまでも対人関係の仕事をすれば、ただ呼吸しているように、心臓を動かすようには平静ではいられない。こころ乱されもするし、疲労もする。

しかしオラクルにとって、それとこれとの因果関係は意識されないものだった。

いつでも疲労は唐突で、こころ乱れていることも、守護者や『友人』に指摘してもらわないと気がつけない。

感情を研究されてつくられたロボットプログラムたちと、ネット管理脳であるオラクルの感情は、似ているようで違うものだった。

そのために、どこまでも鈍い。

感情に関する学習速度も遅い。

オラクルが主目的に置くのはあくまでもネット管理であり、感情らしいものがあるのはそのスペア・プログラム<ORATORIO>のため。

ロボットプログラムとしてつくられ、感情を持つ彼との意思疎通を容易にするためだけの、いわばツールだから、必要最低限があればいい。

「……納得いかない」

もう一度つぶやき、オラクルは手を止めた。

山のようなファイルの区分けが終わったのだ。今度はこれを、それぞれの保管庫に戻す。

電脳世界には、正確には荷重というものが存在しない。存在するのは、オラクルに持たされた『これは重要機密である』という心理的圧迫。

その心理的圧迫が、そのままファイルの重さに換算される。少なくとも、<ORACLE>内部では。

機密度が低ければ低いほど軽いファイルとなり、高ければ高いほど、どんなに見た目が薄くても重くなる。

「えっと……」

カウンタから出て、オラクルは執務室内を見渡す。部屋の片隅に放り出されていたカートを見つけて、転がしてきた。

このカートは、ごく最近、オラトリオがつくったものだ。なんでも、現実空間で『図書館』に行ったときに、司書が実際に使っているのを見たのだそうだ。

大量の本を腕に抱えて、何度も図書館内を行き来するのは大変な労働だし、効率も悪い。だから、このカートにまとめて乗せて、一気に回ってしまうのだという。

現実の図書館は空間を『繋ぐ』ことが出来ないというから、確かにこういったカートがあると便利だろう。

<ORACLE>は少し、事情が違う。

オラクルが望めば、その保管庫はすぐさま執務室と『繋がる』。広大過ぎて把握することも難しいような敷地は、すべてがすべて、執務室のすぐ隣に存在しているのと同じなのだ。

だから、ファイルを抱えて何十キロも歩くような無駄はない。

それでもオラトリオの心遣いに、オラクルは素直に乗った。

大きなカートに、丁寧にファイルを乗せていく。

オラクルの手つきは優雅で、淀みなく、やさしい。扱う情報が軽微であっても、疎かにすることはない。

彼にとって、預かった情報はみな同じ。

ランク分けしても、ラベル分けしても、どれもみな『大事』に変わりはないのだ。

「……ん」

きれいに乗せると、妙な満足感がある。

ちょっと惚れ惚れして、カートを眺めた。もちろん、ぎっしり乗せればそれなりに重くなるから大変なのだが、そこはそれ。

オラトリオは、そこのところも考えて設計してくれた。

気が利いて、やさしい守護者。

「………」

知らず渋面になって、オラクルはカートを睨みつけた。

納得いかないのだ。

なにがといって、守護者が気が利いていたり、やさしかったりすることではない。それも無関係とは言わないが、つまり、納得いかないのは。

「……どうしてしまったんだ、私は」

抱き上げられて、頭を撫でられる。

子供じゃないんだと主張するのを笑い飛ばされて、愉しげに囁かれる。

――甘えておけよ。

オラトリオの声がきれいだなんてことは、もとからよくよくわかっていたことだ。

侵入者が抱く感想はきっと違うだろう。

なにもかもを灼き払い、無に帰す、おそろしい死神のうたごえ。

けれど、守られているオラクルには、なによりも頼もしく、うつくしく響く。

まさに、<ORATORIO>。

悪しきを祓い、穢れを掃う。

空間に響く声を聴いた瞬間、このこころは跳ねて浮かび上がる。

声を塞ぐ恐怖が緩和され、声にもならない安堵が襲う。

だから、オラトリオの声がきれいだなんてことは、だれよりもわかっている。

わかっている、けれど。

――子供なんだから。

笑って、吹きこまれる。

その声に、思考を蕩かされそうになるのは――さすがに、どうかしている。

子供扱いするなと怒ったのに、子供だからいいだろうと返す憎たらしい言葉が、その甘い声で発されたというだけで、思考を止めてしまう。

抱きしめられて、たくましいからだに大事にくるみこまれて、大きな手に撫でられて。

蕩ける思考は止めを知らず、言われるがままに、甘ったれになりそうな自分がいる。

そうだよね、子供だもんねー。

――とは、さすがに言いたくない。

オラクルにだって、それなりに矜持がある。

オラトリオの、まるきりの幼児扱いに、そのまま無邪気に乗れるほどには鈍くないし、図々しくもない。

なにより、オラトリオだとて、大変なのに。

オラクルが幼児化したということは、とりもなおさず、侵入者があったということだ。

侵入者があったなら、世界のどこにいて、なにをしていても駆けつけなくてはならないのが、オラトリオ。

そして、どんな強敵であろうとも闘い、退けなければいけない宿命を背負っているのが、<ORATORIO>。

『電脳空間最強の守護者』の冠は、彼が望んで闘い取ったものではなく、そうであれ、と押しつけられた十字架。

苦しんでいることを、知っている。

恐れていることを、知っている。

悲鳴を上げ、泣き叫んでいることを知っている。

おそろしいほどに、孤独だと。

――わたしがいるだろう?

そう、言いたい、オラクルが、だれよりもオラトリオの枷だ。

そもそも<ORACLE>がなければ、オラトリオはそんな十字架を背負うこともなく。

『オラクル』が悲鳴を上げて泣き叫ばなければ、彼はあれほどに強迫観念を抱くこともなく。

「……うー………」

全部ぜんぶ、わかっていて。

わかっていて、理解していて、それでなお。

望む、自分が消せない。

抱きあげられる。頭を撫でられ、囁かれる。笑って、抱きしめられて、やさしくやさしく。

子供じゃない。

主張しても、どこか嘘だ。

だから、オラトリオは笑って言うのかもしれない。

子供だろうと。

自分ばかりが大変そうな顔なんてしたくない。

すべてのものから守られて、それ以上を望むなんて、どうかしているとしか思えない。

大変なのはオラトリオで、彼にこれ以上の荷物を背負わせたくない。

そう願う、端から。

望んでしまう。

抱きしめて。

笑って。

やさしく、囁いて。

もっともっともっともっともっと!

「ううう!」

オラクルは首を振って、いっしょに思考を振り払った。

最近ふとすると、こんなことばかり考えている。

オラトリオに抱きしめられたときの、感触。

感じた、安堵と幸福。

気がつけば、そればかり望んで、欲して、求めて、――

どうしてこんなに暴走しているのか、わからない。

どうしてそんなものを、これほどに求めるのかわからない。

「仕事しごとしごと!」

つぶやいて、気合いを入れ直した。

今、この瞬間も、オラトリオは現実空間で闘っている。

本人は、かわいい女の子とお茶してたのよん、とかなんとか、すぐさま自分の仕事ぶりを隠すが。

素直じゃない。

弱みを晒すことが出来ない。

それが、オラトリオ。

オラトリオと、オラクル。

互いに、互いを労わって、やさしくしようとして――

それでも、空回るのは。

「……?!」

ファイルを積んだカートを『見上げて』、オラクルは愕然とした。

「……なんで?!」

叫ぶ声はかん高く、舌足らずだ。

驚きに、身に纏う色が跳ね回る。感情をそのまま表す、ノイズカラー。

火花でも飛び散りそうなその瞬きは、この事態をオラクルがまったく想定していなかったことを素直に表していた。

「どういうことなんだ……?!」

理解出来ないと首を振る、オラクル。

彼のからだは、侵入者もないのに、幼児化していた。