「ふえ~ん、かずきぃ~!!」

「ふにゃ?!ジャン?!」

庵原探偵事務所に泣きながら飛びこんで来たジャンに、仕事とはまったく関係なく家計簿をつけていた一樹は、ぎょっとして腰を浮かせた。

の子供はる、深くかに

現在、事務所にいるのは一樹ひとりだ。若葉と桐子は「本来の」探偵業務に従事してお出かけ中。

それをいいことに、トオルはパチンコに行ってしまった。

どこのおやぢか、と思うが、勝率は高く、しかもすべておやつに換金して帰ってくるので、それはそれで家計的には助かるような。

そんなわけでひとり留守番をしていた一樹は、弟のようにかわいがっているジャンが泣きながら飛びこんで来るという事態に、大きな瞳をきりりと吊り上げた。

「どうしたんだ?!誰かにいじめられたのか?!」

「ぅえええええーんっ、クロード、クロードがあ」

「クロード?!」

大きな図体で幼稚園児のようにびいびい泣きながらジャンが口にした名前に、一樹はますます瞳を吊り上げる。

クロードはジャンの兄弟だが、口が悪いうえに性格がきつい。形こそ大きいものの、心は子供そのままのジャンに対しても、容赦ない扱いをする。

そのたびにジャンは大泣きして、「保護者」の一樹のもとに逃げこんでくるのだ。

「今度はなにされたんだ、ジャン!」

一樹は舌打ちすると、びいびい泣くジャンを抱きしめた。返答次第では、すぐさま世田谷の教会まで殴りこみだ。

しかしジャンが口にした言葉に、一樹の大きな瞳はこぼれ落ちそうなほどに見開かれた。

「さわっちゃ、だめだって…っ、キスしちゃ、だめって…っぅえええええー」

「さわ?!キス?!」

なにに?!誰に?!

ジャンの「保護者」ではあっても、一樹も晩生な少年に過ぎない。

なにより、自分より「幼い」と位置づけているジャンが、「さわる」だの「キス」だの言い出したことが、純粋にショックだ。

俺のジャンが汚れちゃった、と目の前が真っ暗になる。

ぐらぐらしている一樹に構わず、ジャンは泣きじゃくりながら言い募る。

「ぼく、ぼく、クロードにきらわれちゃったんだああああっ、また、クロードに、きらわれちゃったんだああああっ」

自分で自分の口にした言葉に傷つき、ジャンはますます泣いた。

一樹は一旦目を閉じ、深呼吸する。

ジャンは子供だ。

それはもう、見た目からは想像できないほど、びっくりするくらい子供だ。深い意味があるわけがない。深い意味などない。あり得ない。

言い聞かせて自分を落ち着かせると、収拾がつかないほど泣き喚くジャンの背中を撫でてあやす。

「あのな、ジャン。ちゃんと言ってみクロードは、なにに触ったらだめだって言ったんだなににキスしたらだめなんだって?」

そうだ、よく考えろ、自分。

相手はジャンで、さらにクロードだ。

どうせクロードのお気に入りの、なにかきれいなものに触るのを禁止したのだろう。ぬいぐるみにキスするのは子供っぽいからやめろとか、そういうことだ。

必死で自分に言い聞かせた一樹に、ジャンはしゃくり上げながら、無情な答えを返した。

「クロードに…っ、クロードに、さわっちゃ、だめだって…っ、クロードにキスするのも、だめだって…っ」

「…っ」

今度こそ頭の中まで真っ暗に塗りつぶされて、一樹は倒れかけた。

触っちゃだめ。

キスもだめ。

イコール、クロードに。

その言葉から連想されるアレコレは、一足飛びにオトナの世界だ。

子供だ子供だと思っていたジャンが、いつの間にかオトナに。いやそれ以前に、選んだ対象がクロードって。

「ぼく、ぼくはクロードのこと、すきなのに。クロードは、ぼくのこと、きらいになっちゃったんだ…っ」

「いや、それとこれとは別…っ」

一樹はくらくらする頭を抱えて呻いた。

口も性格も悪いクロードは、しょっちゅうジャンをいじめる。だが基本的にはこの幼稚な兄弟を愛していて、それゆえの過剰干渉が、幼いジャンにはいじめと捉えられてしまうだけだ。

クロードは確かにジャンを愛している。表現が歪んでいるだけで。

一樹も一応そこは認めているので、クロードのところに殴りこむときも、もっとジャンにわかりやすくということを第一に訴えている。

さすがに大泣きさせたあとは、あのへそ曲がりもへこんでいて、素直に謝りこそしないものの、それなりの殊勝な態度は取る。

取るが、今回の場合はどうだろう。

どう考えても、被害者はクロードではないだろうか。かわいいとか愛しているとかいっても、クロードにとってジャンは兄弟で、それ以上の対象ではない。

それが、迫られて、触られてキスされて…。

「…っ」

想像だけで、一樹は涙ぐんだ。

ジャンは中身は子供だが、外見はあの兄弟の中でいちばん立派だ。その体に押し倒されたクロードの心中は、察して余りある。

普通に男に押し倒されてもショックだろうが、相手がジャン、愛してやまない兄弟となれば。

それは、さわっちゃだめだと、キスしてもだめだと、言いもするだろう。

「あのな、ジャン…。それはだめだわ…」

「ひ?!かずきまで?!」

どう説明したものだろう、と悩みながら言った一樹に、泣き止みかけていたジャンの瞳がまた潤みだす。

一樹はそんなジャンをソファに座らせ、真剣に見つめた。

「あのな、おまえら兄弟だろそんな、押し倒すとか、そのうえナニをするとか…」

「ばかやろぉおおおそんなことしてねええ!!」

一樹が真剣に言い聞かせようとしたところで、事務所の扉がぶち破られる勢いで開いた。

叫びながら入ってきたのは、話題の人物、クロードだ。

「「クロード?!」」

いつからいたんだ、と驚く一樹とジャンに、顔を真っ赤にして怒りに震えるクロードが、仁王立ちして拳を固めた。

「カズキ、おまえななんつう誤解をするんだ頭沸いてんじゃねえか?!」

「ああ?!なんだと?!」

勢いだけでケンカを買った一樹が立ち上がり、クロードと睨み合う。

「そうだろ?!なんでそっちのほうに行くんだよ?!ジャンと俺だぞ?!」

「だから兄弟だろ?!キスとか触るとか、兄弟でするわけ…」

「兄弟だからキスするんだろ!」

「するわけねえだろ!!」

「いやするだろ」

ヒートアップして止まらなくなった一樹とクロードの間に冷静に割って入ったのは、パチンコ帰りのトオルだった。

本日も大漁節で、菓子の詰めこまれた大きな紙袋をふたつ抱えている。

「するわけねえだろ?!」

おかえりも言わずに怒鳴った一樹の額に、トオルが投げた景品のひとつが当たる。

「あのな、外国人だぞ。無駄にちゅうちゅうしまくるのがやつらの文化だろうが」

「無駄にちゅうちゅう言うな!」

トオルの言葉に、はたと思い当たる顔になった一樹に対し、クロードは相変わらずいきり立ったままだ。

一気に冷静になった一樹は、クロードとジャン、トオルを見比べる。

「え、じゃあ、もしかしてキスするなって」

「そういうことだろ」

トオルの応えは、実際は口の中に菓子を詰めこんでいて、不明瞭なものだった。

しかし、言いたいことはわかる。

わかるが、そうなるとわからなくなるのは。

「――じゃあ、ジャンが嫌われたって言うの、当たり前じゃんかおまえらにとってキスって、親愛の証だろいったいなにがあって」

混乱したまま口にしただけの一樹の問いに、クロードがぐっと詰まった。物凄い形相で、しかし視線はうろうろと泳いでいる。

ジャンの瞳が潤み、体がわなわなと震えだした。

「やっぱり、ぼくのこと、きらい…」

「違う!」

きっぱりと言うが、あとが続かない。

事務所中の視線を集めて、クロードは喘ぎ。

「…ちょっと、言い過ぎただけだ。よくあることだろ…」

ようやく絞り出した感のある苦しい声に、一同は疑わしい顔になった。

もともと短気なクロードが、この空気に耐えられるわけがない。

「ああもうだから触ってもキスしてもいいってウソだと思うならやってみろ!」

叫びながら、涙を湛えた瞳で見上げてくるジャンの顔を掴み、その額にキスを落とした。ぎゅ、と頭を抱きしめ、怒ったように髪の毛を引っ張る。

「俺がおまえを愛してることを疑うんじゃねえよっ。毎度まいど、仕方ねえやつだな、ほんとにっ」

「…クロードぉ…っ」

先とは別の感情でジャンの声が潤み、クロードの体を引き離す。真っ赤になって怒った表情のままのクロードの頬と、頬を合わせた。

クロードは一瞬震えたが、突き放すことはない。

「よかったよぉ…っ、ぼく、クロードにきらわれたって…」

「バカだな」

憎まれ口を叩かれたが、ジャンはうれしそうだ。しがみつくようにクロードに抱きつき、小さく嗚咽を漏らし始めた。

その頭を撫でて、クロードはいくつもキスを落とす。

外国映画ではよく観る、感動の家族の抱擁シーンのはずだ。

だが一樹はわずかに引きつった顔で、トオルを見た。

「なんだ」

「――あの、俺の目が歪んでるってことは」

「なんだ。おまえにしては珍しく、気がついたのか」

包装紙のゴミ山を築きながら、トオルが意地悪く笑う。

一樹の顔がますます歪み、再度外国人兄弟を見た。

ジャンを見つめるクロードの瞳には、狂おしい光があった。ジャンを撫でる手には、なにかを抑えこんでいる葛藤のために震えが走っている。

嫌いを堪えているというより、好きすぎて――

「――どうしよう」

途方に暮れてつぶやいた一樹は、思わず縋るように義兄を見た。こと色事の面では、一樹には経験が少なすぎる。

だが、頼った相手が悪かった。

トオルはモラルも常識もなく、愉しんできたタイプだ。

「赤毛がいつまで持つか賭けるか」

「そうじゃないだろっ」

本気で札束を取り出しそうなトオルに、一樹はツッコんで頭を抱えた。トオルは性悪に笑う。

「俺たちが他人のことを言えた義理か?」