クロードは教会の狭く暗い台所で、夕食の下ごしらえをしていた。

玉ねぎを剥き、ジャガイモを剥き、ニンジンを剥く。ざく切りにしたそれらを、同じくざく切りにしたソーセージとともに鍋に放りこむ。

あとはコンソメと塩を入れて、煮込むだけ。

子供はうたう、くへ

しばらくしたら、アンリが庭のハーブを持ってやって来る。いくつかは鍋に入れ、いくつかはサラダに。

凝った料理を作る気もないので、クロードはそれまで暇になった。あとは適当に鍋の様子を見ているだけ。

そこに、本を持ったジャンがやって来た。

「クロード、あのねぼく、このご本、読めるようになったんだよ!」

得意満面に差し出したのは、小学校の低学年向けの聖書だ。中身の監修こそしっかりしているが、言葉は平易。お子様のお勉強にはうってつけ。

とりもなおさずここは教会で、クロードたちは神父だった。

文字を教えるなら、聖書から入るのは当然過ぎるほど当然なのだ。

「ふうん?」

そんな簡単なの、読めて当然。

クロードはばかにしたように笑って、けれど台所の長椅子に座った。ぽんぽん、と隣を叩く。

「じゃ、読んでみせろよ」

聞いてやるから。

態度こそ悪くても、きちんと付き合ってくれるクロードに、ジャンが満面の笑みになる。

「うん!!」

元気いっぱい、うれしそうに頷いて、クロードの隣に座った。勢い込んで、本を開く。

「えーっと」

「待った。全部読んでると飽きる。そうだな、こうやって」

「ふわ?!」

外道なことを言って、クロードは手を伸ばすとジャンが持つ本を一度、閉じた。そして適当にページを開く。

「このページを読め」

「えええ?!」

適当に開いたので、前後もなく中途半端だ。

新手のイジメかと涙目になるジャンの頭を、クロードは軽く撫でた。

「そうやってどこからでも読めたら、ほんとにちゃんと読めるってことだろ。最初からだと、読んでもらった記憶だけで声を出してて、きちんと読めるのか読めないのかわからないこともあるんだ」

「……ほえー」

そういうものか、と単純に納得して、ジャンは気合いを入れ直した。

本を持ち上げ、背筋を伸ばす。

「み……みこは……のたむった……」

いばって持って来たわりには頼りなくたどたどしく、ジャンは読み上げる。

聞いていて苛々するようなそれに、しかしクロードは茶々を入れることもなく、根気強く耳を傾けた。

「…そ…そうして、みこ……は、ひむかしに、むかわった………っ」

ジャンは頑張って最後まで読み上げたが、単語はぼろぼろこぼれて、文法も怪しかった。中身を知らなければほとんど謎話で、下手をすると悪魔崇拝のためにわざと崩したかのようにすら思われる。

とても「読めるようになった」レベルではない。

ぜえぜえと肩で息をして本を置いたジャンの頭に、クロードが手を伸ばす。幼さをまるで残さない顔を引き寄せると、その頬に音を立ててキスをした。

「よく読めたな!」

「ふゃ」

褒められて、ジャンの表情が輝いた。クロードの手は、少し乱暴にジャンの頭を撫でている。

「きちんと最後まで放り出さずに読んだ。偉いぞ」

「えへへ」

いつも厳しいクロードに褒められて、ジャンは無邪気に笑う。顔を突き出した。

「もっと」

「ばーか」

ご褒美のキスを強請ると、いつものように素っ気なくされる。けれど顔は笑っているから、怒ってはいない。

単語をぼろぼろに取りこぼし、文法もイカレていても、きちんと最後まで読むという気概が、クロードにとっては評価の対象になったらしい。

もちろん、こんなものすらすら読めて当たりまえだ、という本音はあって、でも、最後まできちんと投げ出さずにやり通すことがなにより大事だから。

「図に乗るな」

「じゃー、ぼくがする!」

髪の毛を軽く引っ張られ、ジャンは笑って顔を寄せた。

クロードの頬に、キス。それから、額に、瞼に。

「こら」

わずかに逃げ腰になる体に腕を回す。ジャンとクロードなら、ジャンのほうが発育がいい。

成人男子であっても、自分より華奢な体を引き寄せることは簡単で、ジャンはクロードを腕の中に囲いこんだ。

「ジャン」

「大好き、クロード」

抱きしめて、囁く。それだけでは足らなくて、キスを降らせた。

キスが好きだ。

まだ幼くて、バロールが現れることも少なかったころ。

母親が、なにくれとなくキスをくれたのを、覚えている。

父親が、威厳を込めてくれたキスを、覚えている。

きょうだいたちが、その精いっぱいの想いをこめてくれた、キス。

全部ぜんぶ、キスはしあわせの思い出に繋がっている。

愛されているのだと、言葉にも依らずに囁き続けられた。

バロールに振り回され、疲れ果てて眠った。

その頬に落とされた、切ないキスを覚えている。

『ジャン、おねがい』

なにをとは具体的には言わず、けれど落とされた幼いキスはあまりに切なくて、甘くて。

「こら、ジャン……っ」

降り注ぐキスの雨に、クロードが腕の中でもがく。

「いくらなんでも、っ」

拒む言葉を聞きたくなくて、くちびるを塞いだ。

くれたキスを、全部、覚えている。

やさしく、あまく、胸を満たした。

くれた相手を、覚えている。

「ん、んん、んぁ」

息継ぎのたびに、クロードは甘い声を上げる。

ジャンは開いたくちびるに舌を押しこんで、口の中を探った。逃げる舌を追い、深くふかく差しこむ。

「んんっ、ゃあ、ふぁう」

「クロード」

キスが好きだ。

くれた相手が、自分を愛していると、言葉にも依らず囁いているのがわかるから。

ならば、寝ている自分にキスをくれるクロードは、きっととても自分を愛している。

時折、ひどく切ない瞳で触れる彼は、自分のことを途轍もなく、愛している。

「ジャン………っ」

責めるように呼びながら、クロードはジャンの背中に爪を立てる。しがみつくようなそれに、ジャンは笑った。

もっともっと近づいて、触れあって、なにもかもすべてを暴いて。

望みが膨れ上がる。

その欲望を素直に表した場所を、抱え上げたクロードに押しつけた。なすりつけるように軽く揺さぶると、クロードがびくびくと震える。

「ゃ……め……だ……っ」

「クロード」

なにがだめなの?

無邪気に訊き返すジャンに、クロードはしがみついてキスを強請る。いつもいつも厳しい光を灯すそこが、潤んで霞んでいる。

ぞわりと背筋を這い登る感覚に、ジャンはさらにクロードを抱きしめた。服越しにも、わかる互いの熱。

「クロード………ね?」

望みの形も知らぬままに問うジャンに、クロードが痺れた口を開き。

「あら、お取込み中なのね?」

「っ!!!」

背後から上がった明るい女性の声に、夢から覚めた顔で固まる。

膝から下りることも出来ないで、ジャンにしがみついたまま凝固するクロードに、女性――アンリは、ほほほ、と上品に笑った。

「失礼しましたー。ハーブ置いておくから、あとよろしくー」

「っっ」

いや、その反応はどうなんだ。

それ以外のツッコミを貰っても困るが、アンリのこの反応もそれはそれで困る。

出て行くアンリを見送ることも出来ず、クロードはひたすらに固まっていた。

もうひとりの『当事者』であるジャンは、固まるクロードの腰を殊更に抱き寄せる。

「って、この、ばかっ!」

「いたぁっ!!」

容赦なく頭にゲンコツを落とされて、ジャンは悲鳴を上げる。

どうやらクロードは完全に頭が醒めたらしい。

「どうしてこの状況でそうサカっていられるんだ?!もう終わり、もうしない、もうだめ!」

「えええ!」

「なにが『えええ』だ、なにがこのばか、もう離せ!」

「えええええ……」

あからさまに落胆しながら、ジャンはクロードの腰を抱く腕に力を込める。熱を持った部分を擦り合わせると、クロードは大きく身震いした。

「……っの、ばか……っ」

吐息のような声で罵る。耳をくすぐられて、ジャンはますますクロードを抱きしめた。

離すなんて出来ない。

このまま、なにもしないで。

「………め、ったら、だめ、っだ!」

「………」

それなのに、クロードは強情に言い張って、ジャンの胸を押した。

ジャンはジャンで、クロードを離すまいと力を込める。

「…っ」

「…っ」

しばらくそうやって虚しい押し相撲が続き、ややしてジャンが根負けした。

腕を離すと、クロードはまた元の通り、隣に座る。

「………クロード」

未練げに名前を呼ぶと、服を整えていたクロードは、わずかに顔をしかめた。

「ここはいやだ」

「…」

それは台所が、という意味か、それとも。

図りかねて、ジャンは首を傾げた。

「じゃあ、どこならいーの」

「どこでもよくない」

「…」

即答したクロードを、ジャンは真っ黒な瞳で見つめた。つぶらですらある、そのいたいけな瞳にじーっとじーっと見つめられ、今度根負けしたのは、クロードのほうだった。

「………『ここ』じゃないなら」

弱々しくつぶやく。

敗北宣言に、ジャンはしかし、まだ首を傾げた。

だから、『ここ』ってどこだ。

「クロード」

「『ここ』は、いやだからな」

頑固に言い張る。

ジャンは首を傾げたまま考えこみ、それから、息を整えるクロードへと手を伸ばした。

「ジャン!」

非難の声を上げる体を抱き寄せ、キス。

「だから」

「キスだけ。なら、いいでしょう」

「だめ」

拒絶の言葉を吐こうとするくちびるを、大急ぎで塞いだ。

押してしまえば、クロードは意外にも押されっぱなしになる。

「『ここ』、では」

「キスだけ、ね」

弱々しくもまだつぶやくクロードに、ジャンは笑って伸し掛かった。