愚者の昔日

「………ん?」

ふと、コードは瞳を見開いた。見開かれた瞳はすぐに眇められ、庭先を睨む。

勝手知ったるなんとやらで、親しき仲こそ重要な礼儀の存在など無視し、シグナルが庭から入って来たところだった。

垣根の隙を、うまく通り抜けている。未だ細身の子供だから出来る業でもあるし、昔馴染みだからこそ知る『第二の門』でもある。

シグナルの格好は学校の制服ではなく、運動着のジャージでもなく、普段着だった。どうやら学校帰りに寄り道したわけではなく、家から来たものらしい。

現在、学校は春休みの期間なので、不自然なことではない。が、部活動などの課外活動は行っている。現にシグナルと同い年のコードの妹たちは、なんだかんだと出払って不在だ。

ひとり家に残ったコードといえば、春の陽気に誘われ、窓を開け放して縁側におり、そしていつになくぶすくされた表情のシグナルは、訪いの挨拶もなく断りもなく、そんなコードの隣にどすんと腰を下ろした。

コードは礼儀に厳しく、ましてやほぼ身内も同然の弟分相手となれば、遠慮する余地もない。

これだけの不躾をやらかせば、普段なら黙っていない。シグナルの姉も厳しい性質ではあるが、それとはまた違った方法で、コードもまた、この弟分を躾け直すべく、立ち上がっただろう。

しかし今日、コードは軽く鼻を鳴らしただけで、シグナルの不躾を見逃した。

黙って視線を逸らす先は、春に染まり出した庭だ。

幼い時分はともかく、ここ最近はコードや妹たちが面倒を見て、育てている。ことに春の庭は、コードにしても妹たちにしても、もっとも力を入れるところだ。

どう工夫しても寂しさや侘しさが拭いきれない冬の庭から、色と生命力に満ち溢れた花と若葉の、春の庭へ――

侘び寂びもまた、風流とは思う。

が、春に染まり出した庭を知覚した瞬間、生命力を謳い始めた植物を認識した、あの瞬間に覚えた感情は、否定しようがない。

衰えていたつもりはないが、気持ちが確かに浮き立った。

「………茶ぐらい」

「コード」

何度見ても心は弾む。自覚しきれないほど上機嫌のコードは、普段は客扱いしない昔馴染みの弟分に対し、たまには客らしく歓待してやろうかと腰を浮かせかけた。

制止したのは、ぶすくれた表情に相応しい、低く抑えたシグナルの声だ。

珍しい――

いや、そもそも珍しいというなら、この弟分がぶすくされた顔のままでいることが、非常に珍しかった。

言ってもシグナルはまだ、子供だ。拗ねることもあるし、へそを曲げたり駄々を捏ねたりすることもある。

が、基本、明るい性質だ。いいように言えば前向きだが、コードから言わせれば単なるばか――もとい、楽天家の脳天気。

つまり、負の気分が長続きしない。なにかで拗ねてぶすくされても、すぐにころりと気分も表情も変える。

それが、庭に入って来たときから、コードが慮って黙って過ごしてやった時間を経てまで変わらず、未だ続いている。

なにかよほどのことかと、コードは姿勢は庭に向けたまま、斜めの視線をちらりと弟分に投げた。

シグナルは、コードを見ていない。恵まれた春の陽気に、始まりのうたに賑わう明るい庭を、まるで仇かなにかのように睨みつけている。体の両側に置き、縁側に突いた拳は血管が浮くほど硬くかたく握りしめられ、かなりの緊張状態にあることを示している。

「なんだ」

殊更に静かな、落ち着いた声音で訊いてやったコードに、シグナルはさらにぎゅっと、拳を握った。わずかに膨れたように見える全身が、煩いほどの緊張に漲っているのだと、わかる。

問いかけてやって、ほんのわずかな間を置き、シグナルは口を開いた。

「すき。なので、つきあって。ください」

「…………………は?」

眇めていた目を丸くし、コードは思わずシグナルに向き直って、その顔をまじまじと見た。

いったい全体なにを言い出したのか、このお子様は。

いや、そう、『お子様』だ。シグナルはまだ、子供なのだ。

子供だがしかし、こうまでカタコトの言葉を、舌を縺れさせながら発するほどの幼さではない。雄弁というほどでもないが、普段は小生意気なことをぺらぺらとしゃべりたくっている。もちろん、流暢に。

コードは思わず体を反して見つめたが、シグナルは相変わらず、庭を向いていた。視線をちらと向けることもなく、頑なだ。表情も不本意にぶすくされたままだし、拳も硬い。

そのままで、もう一度、口を開く。

「コードが、すき。なので、ぼくと。つきあって。……ください」

――長年の付き合いで、ついぞ敬語など使ったこともないというのに、どうしてか最後の最後だけ敬語だ。

「いや……」

衝撃が過ぎてツッコミどころを間違えたと、コードは軽く頭を振った。そうやって衝撃を逃がし、止まった思考を無理やりに動かす。

「ち……っ」

衝撃を逃がし、思考を動かしたコードは、小さく舌打ちをもらした。憤りもあるが、実のところ呆れている。

無理やりであれ動き出したコードの思考は、今日の暦を思い出していた。それに今朝、出かける前の妹たちが、きちんと義務を果たしてもいた。いや、本来的には義務ではない。

ないはずだが、おっとり穏やか揃いでありながらなにかが義理堅い妹たちは、今日という日には必ずや、やらねばならぬと、――とはいえやはり、おっとり穏やかな彼女たちだ。

やらねばならぬと発奮しはしたが、どれもこれも非常に愛らしく、ばればれの『嘘』だった。

そう、今日の暦だ。四月一日――エイプリルフール。言い換えて四月馬鹿、もしくは愚者の日。

世界的なウソツキの日だ。

「ふん……」

朝には微笑ましく過ごしたが、今は悪習も甚だしいと、コードは不機嫌に鼻を鳴らした。

四月一日、通称エイプリルフールだ。

この日ばかりは嘘や騙り、偽りごとが公けに認められるため、各地でそれなりの騒ぎが起こる。もちろん『公けに認められる』とはいっても、犯罪はやはり、犯罪だ。認められはしない。

だとしても今日ばかりは、『エイプリルフールでした』のオチで、概ねのことが赦される――ために、なかにはこういった『悪質』なイベントも、発生する。

つまり、好きでもない『男』に告白するといったような。

コードは常とは違う、珍しくも不自然なシグナルの様子と諸々から、大体の事情を読み解いていた。

おそらくシグナルは、誰かしらとなにかしらの勝負をして、負けたのだ。そして負けた罰ゲームで、エイプリルフールのネタをコードに――ご近所様の、特に少年を中心に恐怖のクソジジイもとい大お兄様として知れ渡る、一歩間違えば大怪我確定、死亡フラグも満々の人物を相手に、『やらかして』来いと。

こういった趣味の悪いネタを思いつき、挙句シグナルと勝負をして勝てるうえにうまく強要出来る人物など、コードにはひとりしか思いつかない。

オラトリオ――シグナルの二人いる兄のうち、上のほうの兄だ。

言ってもシグナルは単なる『ばか』だが、兄は違う。ことに上の兄は、明確に悪意と他意と故意の塊だ。

そのうえオラトリオは、昔から叩き伏せてもねじ伏せてもまったく懲りることなく、コードの弟に手を出し(*あぐね)続けている、にっくき相手でもある。

「意趣返しか……やってくれるわ、黄色頭のぴよっこ風情が………っ」

顔を背け、シグナルには聞こえないよう音量に注意しつつも、コードは堪え切れずに吐き出した。

オラトリオはあとでまた、適当に叩きのめしておくことにして、――したとして、今だ。

生まれたときからずっといっしょにいて、むしろ育てられて熟知しているくせに、邪悪な兄の奸計にまたもやうかうかと嵌められた、この憐れなおばかをどうするかだ。

おばかものと叩きのめしたいが、それではコードが、イベントを理解できず真に受けたばかにしか見えない。

わかっていましたがそれはそれでこれはこれですと宣言したうえで叩き伏せたとしても、――やはり微妙だ。

自業自得とは思うが、今回の場合、ある意味ではシグナルも『被害者』には違いないからだ。

そうやってどうしてやろうかと悩み、しばし沈黙を挟んだものの、実際のところは数秒だ。

シグナルの『告白』に受けた衝撃から醒めて数秒後には、コードの『報復』も固まった。

エイプリルフールには、エイプリルフールの返し方というものがある。

そう、『真に受けて』やるのだ。

「いいぞ」

「えっ」

あっさり答えを返したコードに、初めてシグナルが顔を向けた。ぶすくされていたのがどこへやら、素直な驚愕を表して、目を丸くしている。

そんなふうに目を大きく開くと、まだまだ幼顔だなと妙な感傷を覚えつつも面に出すことはなく、コードはにっこり笑ってやった。滅多にないことで、しかもこれまでお子様相手には見せたことがない、艶笑だった。

「こー………」

言葉も継げなくなってひたすら見入るシグナルに、コードは滴るような笑みを近づける。

「いいぞ付き合ってやる」

「コード」

ささやくような甘く熱っぽい声も、お子様には聞かせたことなどない類のものだ。いや、未だこの年のお子様には決して聞かせてはいけないし、あまりにも刺激的に過ぎる――

しかし逆に我に返ったシグナルが、ようやく慌てたように腰を浮かせる。逃げるような、踏み止まろうとするような微妙な動きを落ち着きなくくり返しつつ、どこか必死な色を浮かべてコードを見つめた。

「いや、えっと、意味………意味、わかってるの?!ぼくの、ぼくが言った……、その、つまり」

「コイビトに成れということだろう?」

やはりあっさりと返してやって、コードは素知らぬ風情で、慌てるシグナルの顔に顔を寄せた。あとわずかで触れなんというぎりぎりまで近づいて、しかし肌は触れず、笑う吐息だけ触れさせる。

「成ってやると、言っている。光栄に思え貴様のようなひよっこになんぞ、勿体ない相手だぞ、俺様は」

――自分で言いますかー、じーぶーんーでー……さぁっすが、師匠………

とかなんとかいう、この罠を張ったであろう相手のぼやきが聞こえたような気がしたが、コードは相変わらず艶笑を保ち、シグナルを熱っぽく見つめ続けた。

言葉は強気であれ、瞳には甘さがあり、間違いなく相手に対して溢れる特別な思いがあると、わかるような。

が、相手はシグナルだった。鈍いということもあるが、それ以前にお子様だ。

「こ、コード。ぼくのこと、すき、なのすき、なんだよね?!」

念押ししてくる。

一瞬、面倒臭さを覚えて眉をひそめたコードだが、鈍い相手が察するより先に、持ち直した。

わずかに背を撓めることでシグナルを覗き込むような姿勢になり、殊更な上目遣いに変える。我ながらあざといものだと内心は嘆息しつつ、おくびにも出さずに頷いた。

「ああ」

――あざとさも否めなかったが、ここが狡さだ。いわばお子様のシグナル相手に、オトナであるコードの。

はっきりと、『好きだ』とは告げない。エイプリルフールで、エイプリルフールらしい仕返しをと思っても、言葉には出来ない想いがある。

偽りにしてはいけない、仕舞いこみ、守らなければならない――

それでも、そこがシグナルの子供である由縁であり、また、おそらく大人となっても失われないであろう、美質だ。

素直なのだ。

明確な言葉で告げられずとも、己の『好きなのか』という言葉に頷いたことを、なによりの了承と受け取り――

耀いた。

「そっか!!」

「あ?」

虚を突かれたコードが、芝居を忘れて素を晒す。

これまでの不機嫌さや緊張はどこへやら、逃げを打とうとしていた体も、戸惑いに染まっていた表情もなにもかもさらりと消えて、シグナルはただ、輝いた。

純粋な、歓びに。

純粋で、無垢にして無邪気な、悦びに。

「………あ?」

コードの背を、厭な汗が伝った。滅多にないことだ。滅多にないことなのだが、実のところ、この弟分相手だと、わりと頻繁にある。理由は諸々様々だが、とにかく規格外で破天荒で、そして誰よりも力強く、眩く輝かしい彼相手には――

「しぐ、なる?」

微妙な緊張とともに呼んだコードだが、先にも言ったようにシグナルは鈍かった。お子様だからだし、猪突猛進な性格が由縁していることもある。

叶った望みに、シグナルはコードの焦りも恐れも見えず――

「あー、もう、暴れたいうれし過ぎて、落ち着かない!!体ぜんぶ、ざわざわするっ!!」

「いや、シグ………」

オチがない。いつまで経ってもオチが来ない。お決まりの、『ウソです実はエイプリルフールネタでしたwww』という、すべてのドラマをひっくり返す、あの腹立たしくも安堵感ある、お約束のオチが。

「これからよろしくなっ、コード!!」

「あ、うむょろ………え?」

まったくコードが反応できず、事態に追いつけずにいるうちに、シグナルはきらきらとした光の微粒子を振り撒きながら帰ってしまった。最後まで、オチをつけずに。

そこで帰るんかい貴様は――という、思考のどこかがつぶやいただだ漏れにして素直な欲望と、自分がなにか、取り返しのつかないことをやらかしてしまった気がするという、ここ最近になく非常にまず過ぎる予感と。

久しぶりに直視したくない現実に直面したコードは、なので、今のやり取りを忘れた。その日は。

しかして次ぐ日。

オラトリオが、菓子折りを持ってカシオペア家を訪れた。こちらは弟とは違い、きちんと玄関からだ。

そもそも昔馴染みで、改まった菓子折りを持って訪れることが、奇妙だ。そのうえさらに、珍し過ぎてかえって胡散臭いほど神妙な表情と態度でコードに頭を下げたオラトリオが、曰く言うことにはだ。

「あのですね、師匠………言っては難なんすけど、シグナルはまだ、未成年なんで。そこんとこ慮った、節度ある交際をお願いします。いや、うちの姉さんの前でだけ取り繕ってもらやあ、いいんすけどね……言ってもシグナルっすからね。なんでもかんでも素直にぺらぺらぺらぺらと……。いや、とにかく、うちの姉さんの前でだけは、お願いします。俺のほうもまあ、男がなんでもかんでもそう、枕ごとをぺらぺらしゃべるんじゃねえよと、教育はしときますんで。あとはもう、師匠の好きなようにして貰って構いませんから。不出来な弟ですが、末永くよろしく頼みます」

あ、そうだった。

俺様、あとでこいつを適当に叩きのめしておこうと思ってたんだった。

――と、とりあえず思い出したコードは、言葉もなくオラトリオと戦闘に雪崩れこんだ。

照れんのはわかりますがブレイクつかなんでうちのおとーとはこんな乱暴星人がいいんだ、趣味が良過ぎるだろ?!

とかなんとか叫ばれつつも、コードはとにかく、オラトリオ相手に暴れに暴れまくり――

瓢箪から駒やら、嘘から出た実やら、故事が次から次に思考を過る。

しかしなによりも、『取返しをつけなくてもいい』ことを実感して安堵し、隠しようもなく歓喜を覚えた自分にしばし、頭を抱えたコードだった。

尻の下に、オラトリオの『屍』を敷いて。