VARCORACI

土曜日午後三時のSoulCake

常に誰かしらが罵倒しているか批判しているか、さもなければ叫んでいるかしているのが、この診療所の日常だ。

それが珍しいことに、沈黙が場を支配していた。

沈黙だ。

誰もいないならともかく、本来的には訪れた患者の待合として使われるその部屋には、ダーもいたし仁もいたしクズもいた。

院長はいないものの、概ね勢揃いと言える。

しかしあったのは沈黙だ。

ひたすらに、ひたすらな沈黙。

沈黙。

ちんもく。

ちーーーーーんっ

「あきt」

「違和感がねえ!!」

もっとも長命にして、悠久の時を生きるVARCORACI――『それ』がなんであるのかは謎だ。神であるとも魔であるとも、単なる口であるとか、犬でしかないと言われることもある。とにかく人間ではないことだけは確かだが、逆に言ってそれ以外に彼を表す言葉はないとも言える――ダーが短気を起こして叫びかけたところで、ようやく仁が感想を叫んだ。

つまり、ダーが穿いてお披露目した、変柄ぱんつだ。

ところでそこについて言及する前に、前提条件を確認しておこう。

ここは診療所であり、その患者用待合室であり、職員用待機室ではなく、ダーは看護師、クズは受付、そして仁は警備員として勤める職場であって、さらに現在は休憩時間ではなく、れきとした勤務時間である。

しかしてこのいつもの顔ぶれたる三人は、誰一人としてそこにツッコもうとはしなかった。

暇だからだ。いつものごとく。

医者は院長ひとり、医師免許の存在が不透明なもぐりの診療所だ。そして診療所があるのは、陽の当たりも悪いが、それ以上に治安も悪いという地域。

まっとうな人間が――ことに医者を求めるほどに具合の悪い人間が、避けて通ることはあってもうっかりですら足を踏み入れることがないそんな場所で、トドメで看板がない。

一区画に建つビルの中に診療所はあるのだが、ビルの内外、さらには近くの道など、どこにもこの診療所があると示す看板や標識といった、手がかりがない。

昨今のはやり言葉で表現するなら、いわば『隠れ処ふう』の、知る人ぞ知る――診療所が、医者が隠れて見つけにくくて、どうするのか。

知る人ぞ知る医者が仙人として敬われたのは、遥か昔の話だ。

結果として、職員の数はあれども日中のほとんど、年中のほとんどで患者がなく、暇を持て余しているのが、この診療所の実態だった。

それでどうしてやっていけているのかといえば、一度の実入りがいいからだ。

院長曰く、「うちは保険診療をやっていないから、十割負担で、どうしても高くなるよねえ」と。

では肝心の、診療項目はなんなのかというと――

「違和感がねえな、むしろこっちのほうがよっぽど、しっくり来る」

「やれやれある!」

変柄ぱんつをとっくり眺めながら言った仁に、ダーは肩を竦める。軽く天を仰ぐ表情は、呆れ果てたと言わんばかりだ。

ダーの美貌はずば抜けている。ずば抜けているなどという表現では足らないほど、桁外れの美貌の持ち主が、ダーだ。

そうやって呆れた素振りをされると、うっかり世を儚んで死にたくなる。いや、茫漠とした要望ではない。もはや強制で、義務だ。

これだけの美貌にこういった表情をされるということは、己は生きていてはいけないのだ、死ななければいけないのだという。

ただし言うなら、相手は仁だった。

これだけの美貌を前にして、まあ確かに顔は綺麗だがなどと言いながら、その綺麗な顔を鷲掴みにして投げ飛ばすことが出来る男だ。この程度で堪えることは、まったくない。

ちなみに筋肉達磨と言っていい体格の仁と比べると、大人と子供ほどの差がある華奢なダーだ。しかし仁に全力を掛けられても、気分が乗らない限り、滅多なことでは投げ飛ばされてやらない。

VARCORACIだ。神か悪魔か、少なくとも人間ではない、なにかだ――

その、なにがなんだかわからないがとにかく超越的な美貌の持ち主だ。

看護師の上着に、下は変柄ぱんつ一枚という、冒涜のあまりに思わず目をくり抜きたくなるような格好で、威風堂々、仁を詰った。

「まったくもって、おまえの目はどうなっているあるかいや、目の問題ではないあるね。これはもう、認知、認識の問題あるよ。つまり脳みそある。わかってはいたあるが、おまえの脳みそはやはり、雑ある趣味が悪いこと、このうえないあるね!!」

「まあ、おまえなんかと毎晩ヤれてる時点で、そこに疑いを差し挟む余地はないだろ」

ぼそりと口を挟んだのは、クズだ。今日も今日とて顔色が悪く、骨と皮ばかりと言いたいほどに痩せぎすで、目だけがぎょろりと出て粘着な光を放っている。

決して近づきたくない風体だが、あまりにも不健康過ぎて、いっそ救急車を呼んでやりたくもなる。再三主張するようにここは診療所であり、医者がいるのだが、仁はたまに忘れて救急車を呼ぶべきかと思う。

「悪食で暴食で食い気一辺倒で口と胃だけあれば事足りるくせにどういうわけかパーツ全部揃えるなんていう無為な見栄を張るおまえのいいとこなんて、せいぜい言って見た目だけだし」

「ひとは見た目が十割ある!!」

――看護師の上着、下は変柄ぱんつ一枚の格好で、ダーは救いのないことを叫んだ。

確かにある面でもって世の真実であり、ダーの美貌がことに優れていることに異論はないが、看護師の上着に、下は変柄ぱんつ一枚の姿だ。

主張の、時と場合というものがある。

が、もちろんダーが己を顧みるとか、恥じ入ったり悪びれたりするようなことはなかった。

あくまでも胸を張って威風堂々、言い切る。

「見た目さえ整えておけば、エサなんか釣り放題の入れ食いあるよ一生食うに困らないある!」

言ってから、ダーはほんのわずかな沈黙を差し挟み、肩を竦めた。

「まあ、吾はひとではなく、VARCORACIあるが……」

どうでもいい。とてもどうでもいい註釈であり、断りだ。

美貌がつくづくと残念な、しみじみと悼まれる、食い気のみで成立しているイキモノが、だからダーというものだった。いや、VARCORACIがイキモノであるならば、――だが。

ちなみにダーの言う『エサ』とは、人間だ。最良は人間の生き血らしいが、次点で精液でもいいという。

その他に肉も食べるし、曰く太陽も月も喰らうらしいので、仁はダーを雑食の吸血鬼だと結論づけた。この結論で疑いもないから、もはや脳の造りが『雑』を通り越している。

そしてその、超越的雑人間たる仁だ。

目下、ダーに虎視眈々と生き血を狙われている。クズも言ったように、次点の精液は毎晩、ダーに搾り取られているが、曰く「心までは明け渡していない」とかで、つまり、生き血はまだ、与えていない。

なによりも、言動を冷静に見ると残念でしかないダーの、すべてを超越させ忘却の彼方に追いやるほどの美貌にも、あまり諸々誤魔化されない。ある意味でとても冷静に対処する。

というわけで、結論。

「だから逆に、違和感がねえんだっつってんだよ」

「ん?」

ダーの股間、もとい、変柄ぱんつに延々と見入っていた仁だが、ようやく体を起こした。あまりに注視していて、目がしょぼついている。どれだけ注目を呼ぶ柄なのかということだが、いわば人間ではないダーに相応しい、魔的な威力を持つ変柄ではあった。

仁はさらに下がると、患者が待つ間座るソファの真ん中に、どっかと尻を落とした。

三人掛けのソファだが、仁が真ん中に陣取ると脇にはせいぜい、幼児程度しか座れる隙がない。そしてきっと幼児は、想像していたよりも遥かに恐ろしく絶望的な現実たる、地獄の悪鬼のごとき仁の隣には、きっと座らない。いや、座れない――そんな勇のある幼児は、ファンタジー世界の勇者のたまごであっても、おいそれとは存在しないだろう。

首に手を当て、がきごきと音を鳴らして凝り固まった筋を解しつつ、仁はぎょろりとダーを睨んだ。

「吸血鬼のくせに、おまえ普段、まるでふっつーのニンゲンでございってな、カジュアルな服装してんだろ。私服は大体、そこらのモールの、安売りのシャツにチノパンかんで、仕事着はナース服だそっちのほうがよっぽどおかしいしヘンなんだよ、おまえの顔だと」

「ナース服じゃないあるなによりも吾は吸血鬼じゃないあるよVARCORACIある!!」

ダーの抗議に、仁は筋を解した己の首をとんとんと示した。ここまで抜かりなく筋肉で鎧われて野太く、噛み切るには牙の鋭さもさることながら、顎の力もかなりいると、覚悟を求められる首だ。

示して、ダーに訊く。

「じゃあ、血はいらねえのか?!」

問いに、ダーはとても素直に表情を輝かせ、手を伸ばした。

「くれある!!」

即答だ。

対して仁もまた、即行で結論した。

「やっぱり吸血鬼じゃねえか!!」

「AaAUGHHHHHHHH!!」

ダーの上げた悲鳴は表記し難く、浮かべた苦悶の表情は切なさに息が詰まるほどだったが、仁は気にしない。

そもそもダー曰くの彼の種族と一般に流布する『吸血鬼』の違いが、聞けば聞くほど些細で、地域差程度のものなのだ。秋田には色白美人が多く、大阪人はあきんど体質で、沖縄の人間はとかく鷹揚であるとか、そういった。

少なくとも仁にとってはその程度なので、懲りないダーの必死の主張もまったく聞き入れないが。

「とにかくそういう、現代人の日常着を着てんのに比べたら、むしろこっちのほうがずっと違和感がねえし、納得するし、そうだな。似合ってんじゃねえのか?」

「右に同じ」

受付カウンターの中からクズも右手を上げて同意し、ダーは亜光速で視線をやった。相変わらず、今にも死にそうな顔つきだ。苦痛と苦悩と苦悶と、苦々しか感じられない。

ダーの、ビームが出たなら丸焦げにされていたに違いない視線を受け止め、悪い感じに人生を投げ捨てているクズは、けっと吐き捨てた。

「認知や認識に問題があるのも当然の筋肉製脳みその発案に賛成せざるを得ないなんて、絶望を通り越してすでに笑劇だがそんなもの観に来たわけじゃないのでチケット代返せ。百円」

「安ッもっと請求しろ、借金持ち!!」

仁が思わず叫ぶ。

クズの借金は、天文学的数字だ。なにをしてこうまで重ねたものか、想像もつかない。しかし彼が周囲にせびる金は常に、焼け石にすずめの涙程度のものだ。この程度の額であれば、借金取りも取り立てるのが阿呆らしくて、手元に残させてくれそうな――

ダーといえば、束の間の憤激からすぐさま立ち直った。ナナメ向きのクズと、前のめりの仁とを見比べ、肩を竦める。

「やれやれあるおまえたちはすぐそうやって、結託するあるねまったくもって仲が良くて、羨ましいことあるが――」

「あんまり『見せつける』と、『彼氏』も気分は良くないだろうねえ」

ダーの言葉を継いだのは、いつの間に来たのか、院長だった。好々爺と呼ぶに相応しい見た目を裏切らない、おっとりと穏やかなものの言いで、するりと間に割って入る。

「『見せつける』だん?」

なにを言い出したのかこのボケ老人はと、雇用主に対してとても失礼な感想をでかでかと顔に書いた仁に対し、カウンターの中のクズは後ろ側に倒れた。同時に、受付カウンターに設置されている防護ガラスが、どんがらびっしゃんと、物凄い勢いで落ちる。割れないのはひとえに、機関銃の掃射にすら耐えるという頑丈さからだが――

第一級警戒態勢だ。

「あ?」

さらにきょっとんとする仁と、なにかに気がついたようにひょっと眉を跳ね上げたダーとを、院長は交互に見た。ひょいと、エントランスに向かって顎をしゃくる。

釣られて視線をやった仁とダーとに、院長は、目に入れても痛くないほどかわいがっている孫相手のような、穏やかな容貌で口を開いた。

「さっきからね。お客さんが来てるんだけどね……ちょっと『お取込み中』のようだっていうんで、入るのを遠慮してくれているんだよねえ……あれが逃げて、実入りが減るようならちょっと、みんなのお給料から二百ほど引くよ?」

言っていることはちっとも、孫かわいいじーさんではない。愛もなければ、やさしさの欠片も、容赦もない。

もちろん曰くの『二百』というのは、『二百円』ではない。『二百万円』だ。それだけ差っ引かれても問題のない給料では、まったくない。

仁とダーとが、目をやった診療所のエントランス。

の、ガラス扉を挟んで、すぐ外。

そこには常連である、まるかいてやーの字にしてクズの『飼い主』であるニオカと、そのニオカが連れて来た本日のカモもとい、犠牲者もとい患者の姿が。

仁の目は自然と、第一級防護態勢に入り、未だに浮上出来ないでいるクズへ――彼ががたぶると震えているであろう、受付カウンターへと流れた。そして、エントランスへと戻る。

言っても、閉じた扉を挟んで外だ。

ニオカはまったく様子がわかっているふうではなく、いつも通りだ。しかも今回、注目を集めるのはどう考えてもダーだろう。そこまで怯える要素はないような気がするのだが、まあ、あのクズを化け物の力を借りてまで己に縛りつけ、毎晩飽きず寝床でかわいがるといったような意味で『飼う』輩だ。

仁はここにはあまり、関わらないようにしようと決めている。

が、彼が連れているカモ、もとい犠牲者もといの患者様のご様子だ。

待合室にいる、恐怖と暴力を捏ね併せて体現したような容貌の仁と、突出した美貌だが上着看護師で下は変柄ぱんつ一枚というダーと、――

今のところはニオカが押さえているが、確かに。

これは逃げる。逃げる寸前だ。

そもそもこの診療所において、患者というものはとにかくスピーディに連れ込み、抱え込んで丸め込み、ことを終わらせるべきものだ。あれこれつべこべ、考える暇を与えてはいけない。逃げるに決まっているのだから。

それはいったいどういうことかといえば――

「フッかけ過ぎだろ。かける三で六百じゃねえか。アレがそんだけのブツかよ?」

「まあ、そこはこちらの腕の見せ所ある。無駄なく余すところなく使い切って、売り先を考えれば……」

つぶやいて、仁は立ち上がり、ダーもまた、エントランスに向き直った。逃げかけの患者もとい、犠牲者を確保するためだ。瀬戸際の己らの給金のために。

しかし寸でのところで、仁はダーの襟首を掴んだ。掴むだけでなく、ぐいっと力いっぱい、引っ張る。

「なにあるか。苦しいある」

まったく苦しそうな様子もなく、とはいえわりと素直に顔を向けたダーに、仁は渋面で首を横に振った。

「まずてめえは、下を穿け。いつまでパンイチでいるつもりだ」