「大丈夫だ、間に合ってます」

「なんの話だ」

すっと右手を上げて申告したオラトリオに、オラクルは呆れたようにつぶやいた。

The Keeper

そうやって訊いたものの、『なんの話』かは実際、オラクルにもわかっている。

『なえなえ変柄おぱんつ大作戦』だ。

オラクルがキワモノ変柄ぱんつ、下着を穿き、それを見たオラトリオの漲るヤる気が萎むかどうかを検証するという。

誰得なのかよくわからない企画ではあるが、ひとは好奇心のイキモノだ。

対象は、幼い頃からの筋金入りの折り紙付きでオラクルに入れあげていると、もっぱら評判のオラトリオだ。

彼がどうあればオラクル相手に引いたり減退したり、ちょっと項垂れたりするのか、その限度を知りたいと――

おそらくそういうことだろうとオラクルは理解したのだが、企画を振られたオラトリオだ。お断りされた。

と、いうことだろう。今の返答は。

ところはオラクルが一人暮らすアパートだ。

だが二人が対していたのは、それらしい行為に及ぶ寝室ではなく、絵の道具やオラトリオが持ちこんだ資料などで雑多に散らかるもうひと部屋だった。だからと膝を突き合わせているわけではなく、各々の仕事用の椅子に座している。

オラクルの前には描きかけのイラストがあるし、手には次の色ペンを構えている。オラトリオの前も同様だ。開かれたノートパソコンが打ちこむキイの音とともに、ファンを軋ませて熱風を吹き出している。

仕事中なのだ。

ちょっとなんというか、つまり、いくつかの締め切りを思い違いで、要するに、間違えていた。

現在軽く言って、青息吐息だ。

そんな最中に振る話題かということだが、だから『いくつかの締め切りを思い違いしていた』中に、この企画も入っている。同時進行で片づけられそうなものは、片づけてしまうに越したことはない。

ついでに本音を言うと、軽く表現してすら青息吐息の、この現実から全力で逃避したい。

確かに仕事の一環ではあるのだが、このネタはちょっとした現実逃避にはもってこいだ。

というような現状。

余裕とともに表情まで失った相手を上から下へ一通り見て、オラクルはちょこりと首を傾げた。

「つまり、自信がないということか私がヘン柄下着を穿いているのを見ても、『萎えない』という?」

「あのな……」

訊いたオラクルに、オラトリオは嫌そうに眉をひそめた。まあ嫌だろうなと、オラクルは完全に他人事として考える。

男として――ことに成人したオトコにとって、ナエるのナエないのと、ここら辺の話題は微妙だ。非常に繊細で、扱いが難しい。

女性が思い感じる以上に、男はここの問題を笑い話にし難いのだ。

だから男同士であれば、通常はこういった話題はうまく避ける。真正面から問われるのは、苦痛だ。本音でなど、まったく語りたくない。

「もう一回言うから、よく聞け。そして理解しろ」

「ん?」

『お断り』のために上げていた右手を下ろして机上に彷徨わせ、オラトリオは眉をひそめたまま煙草を取った。口に咥え、しかし火を点ける前にオラクルを睨む。

「『間に合ってます』」

「……ん?」

大事なことだから、くり返して言ったのだろう。が、これのいったいなにが大事なことだというのか。

きょとんぱちくりと瞳を瞬かせるオラクルに解答を寄越すことなく、オラトリオは煙草に火を点ける。

深くふかく、肺の奥にまで吸いこむ煙。

ふっと吐き出すと、困惑しながら首をひねり、考えこむオラクルをちらりと見た。

「手を動かせ」

「無理だ。一度に二つのことは出来ない」

「このブッキーちゃんがっ!」

きっぱりと衒いも迷いもなく断るオラクルに、オラトリオはがしがしと己の頭を掻き混ぜた。今朝も今朝でしっかりセットしていた髪が、ぼろりと崩れる。

ちなみに、締め切りのミスに気がついたのは髪をセットした後だ。髪をセットし、さてちびを幼稚園に送っていくかね、そういえば今月の行事はなにかあったかなと、なんの気なしにカレンダを見て――

「ブッキー不器用っつか、それは老人の台詞だぞ。大丈夫か、オラクル」

「『大丈夫』で、『間に合っている』んだろう?」

続いたオラトリオの言葉は、『一度に二つのことは出来ない』ときっぱり言い放ったオラクルの耳には届かなかったらしい。届いていたなら、さすがに怒っていたはずだ。

馴れているオラトリオはこのネタでさらに絡むことはなく、溜めた煙をぽこりと吐き出した。口からつまみ出した煙草を灰皿に寄せ、ことことと、癇性なしぐさで灰を落とす。

「間に合って………んなんだそれなんだか経験済みみたいに聞こえる……?」

きゅっと眉をひそめてつぶやいたオラクルに、オラトリオはふんと鼻を鳴らした。再び、口に咥える煙草。

液晶画面に視線をやると、オラトリオの眉間にはオラクルより余程深い皺が刻まれた。

「俺とオラクルさんとは、いったい何年来の仲でしょうかね」

「何年って……」

新たな問いを放ったオラトリオに、オラクルは記憶を漁る顔になった。困惑にゆらゆらと瞳が揺らぎ、ふいに答えを得て、ぱっと瞠られる。

「つまり、なんだ?!私の下着を見て萎えたことがあると?!すでに経験済みなのでもういいですって、そういうことか?!」

「わーお、オラクルさん、だーいせーいかーい」

言葉だけは華やからしく、しかし完全に棒読みでオラトリオは応えた。手は高速でキイボードを打っている。目線も液晶に固定され、わずかに腰を浮かせたオラクルをちらりとすら見ることもない。

「おまえのな、その、独特の感性な……」

「なんだ、その言い方は」

上の空に近い状態で続けるオラトリオに、オラクルはぷすっと膨れる。しかし手を出したり、癇癪を起こすようなことまではしない。

青息吐息なのだ、現在。おそらくこれ以上引き延ばすと、軽く言って青息吐息から進み、軽く言って死に態になる――

「特に、やっぱ絵とか、……『そっち』のほうだよな。おまえの描く絵は好きなんだけどよ。おまえが好きだっつー絵とか、ガラモノとかはかなり頻繁に、俺の理解の範疇を超えてんだよな」

「あー………」

そういう話かと、オラクルは膨れていた頬から空気を抜いた。

これに関しては昔から、よくやり合ってきたことだ。理解できんと放り出されることもしばしばだし、オラクルにも諦めがある。

「つまり、下着の柄も?」

「まあ、俺も若かった」

さっくり答えたオラトリオへ、オラクルはさすがに呆れた目線を送った。

いったい自分が今、いくつだと思し召しての『俺も若かった』発言だろう。いや、いったいいくつのときを振り返って、評しているのか。

むしろ重要なのはそこかと、オラクルはもう一度まじまじと、オラトリオを上から下まで眺めた。

見慣れて、見慣れない相手だ。

幼い頃、互いに兄と姉に手を引かれて出会ったのが、最初。

それから大きく離れることなくずっと共に歩んで、飽きるほど見たと言ってもいいほどだが、未だに新しい『顔』を見つける。新しいオラトリオを。

そのたびに、これはいったい誰なのかと、オラクルは相手を見つめ直す。覚え直し、また想う――

「若かったからな。ちょっと、ちょこっとだけな。これで諦められるかもしんねえって、思った。もう少し、………そうだな。『適切な距離』ってやつで、おまえと付き合えるようになるんじゃねえかって。いいきっかけかもしんねえって」

「………へえ」

どうやら悩み多き少年時代の話のようだと検討をつけつつ、オラクルは小さく相槌を打った。

とはいえオラクルからすれば、オラトリオは常に悩み多き人生だ。悩んでいない時代、いや、時間がない。

オラクルにとってオラトリオの繊細さは、いっそ神憑り的だ。なにが起きているのか、もはやそこから理解できないレベルでオラトリオは悩み、立ち止まる。

これでよくここまで生きて来たなと、オラクルは傍らで共に成長しながら、たまにひどく感心し、感謝する。

ここに、オラトリオがいることを。

「けど結局、復活したしなあ。……四、五回くらいか。だから、もう大丈夫で、間に合ってんだ。おなかいっぱいです」

「………なんだかなあ」

確かに『ご復活』すればこそ、今、この位置で距離で、関係があるのだろう。

現状、オラクルとオラトリオは幼馴染みであり親友であり仕事仲間であり、生涯を誓った伴侶だ。すべてがある。すべてが、ただひとり相手に。

とはいえ、微妙な感も否めない。つまり、一度や二度でなく、『四、五回』という数字だ。

付き合いも長いから仕様がないとはいえ、やはり『なんだかなあ』だ。

そのたびに復活したのだから、オラトリオも少しは鍛えられているのではないだろうか。耐性も上がっていたり、もはやびくともしなくなっていたり――

繊弱なのにかわいそうにと、オラクルは最終的に結論した。

他人事だ。とても。

一応の決着がつき、オラクルは描きかけのイラストに目を戻した。全景を確かめると次の色を探して、散らばる色ペンを拾っていく。

その手がふと、無造作に放り投げて忘れていた紙袋に当たった。

「ああ、そうか」

つぶやいて、オラクルはペンを放り、紙袋を手に取った。がさがさ言わせて開き、中身を出す。

「っていうことは、一応は用意したが……このレベルだと、どうなんだろうな、今のおまえって効くのか、効かないのか?」

「ああ?」

問われて、オラトリオは液晶からちらりと、オラクルへ目をやった。

オラクルが紙袋から取り出したのは、企画を聞いてわりとすぐに用意していた、真新しい下着だ。概ね、真新しいというところだけが、価値の。

掲げられているそれをちらりと見たオラトリオはひどい渋面になり、咥えていた煙草をぐしりと咬み潰した。

ややして、いい加減ちびたそれを口から抜き出して灰皿に押しつけ、ため息とともに煙も吐き出して、オラトリオは液晶に目を戻す。

「今は止めとけ、それ系。逆にキレる。終わって余裕が戻れば、ちゃんとナエるから」

「………」

逆ってどっちのことだろうとか、ちゃんとって表現するのってどうなんだろうとか――

オラクルの頭の中にはいくつかの疑問符が並んだが、口に出すのは控えておいた。

常々、空気を読まないと詰られる彼にも時計は読めたし、今の状況は十二分に理解できていた。

いくらなんでもちょっとばかり、逃避に勤しみ過ぎた。そろそろ、軽く言って青息吐息を超え、軽く言って死に態に片足を突っこみだしている。

なのでオラクルは大人しく、用意した下着を紙袋に戻し、放り出した色ペンを拾った。

なんであれ、いい。

仕事が片づいてから企画をやり直せば、オラトリオはちゃんとナエるかもしれないが、きっとそのあと、ちゃんと復活するのだろう。

どういった行程を経るのか理解は及ばずとも、オラクルにはオラトリオに関して確信と信頼だけはあって、不安はまったくなかった。