こるびとおるび

道場の床に正座したシグナルは、相対して座る師――コードを、少々の気後れとともに見ていた。

場所は道場だが、シグナルは学校帰りであり、未だ制服姿だ。対してコードは、きっちりと道着に着替えている。

別に普段がどうというわけではないが、道着姿のコードには、別格の気品が漂う。しかもこうして、なんの感情も浮かべず、風のない水面のごとき静かさで佇まれると、いっそ神々しいとすら――

このひとが自分を導く師であり、人生の先達であり、そして恋人だ。

「ぅううっ」

シグナルは、自分にも聞こえないほどの小さな声で呻いた。

そう、恋人だ。シグナルにとって重要なのは、そこだ。コードは恋人だ。

コードはどうも、シグナルが未だによちよち歩きの幼児に見えることがあるようだ。時として戸惑い、邪険に扱われることもあるが、しかし恋人だと、それなりに認識はしてくれている。

はずだ。

――と、思いたい。

すでになにかに敗北しつつ、シグナルは相対して座るコードからそっと、視線を外す。

現状の体勢がどういったことかというと、お説教待ちだ。師から弟子へ、先達から後輩へ、兄貴分から弟分へ――

なんであれとにかく、『上』から『下』へのお説教だ。心当たりがない。

そもそも道場に来て座れと言われた瞬間から、それこそ脳みそをフル回転、ありとあらゆる記憶を探った。

が、最近やらかしたあれやこれやで、改まってお説教もとい、叱責されなければいけないほどのこととなると、心当たりはない。たぶん。きっと。

とはいえたまに、そのおまえの無自覚さがもっとも問題だと叱られるので、今回もそれかもしれないが――

「コード」

長い沈黙に堪えきれず、シグナルはとうとう音を上げた。

「あのさ、僕、なにを……」

「胸に手を当てて、思い返してみろ」

「ぇええぅう?!」

――やはりなにか、やらかしているらしい。

静かだった面にぴりりとした感情を閃かせて吐き出したコードに、シグナルは反射的に自分の胸へ手を当てた。

いやだから、これはもう、音を上げる寸前まで、何度もなんどもくり返したことだ。記憶回路にトドな海馬に、根掘り葉掘りとここ最近の行状を振り返って、心当たりがないと結論した。何度も何度もなんどもなんども――

「コードぉ……っ」

「思い返すに、おまえと俺様の因縁だ」

「いんっ……?!」

なんだかすごい言葉が出て来た。なんの仇同士だ、自分たちは。

とはいえシグナルは、衝撃を受けつつもなんとなく、悟った。

これは最近のことだけ振り返っても、おそらく心当たりは見つからない。

なんの理由かは不明だが、コードは非常に過去のことをほじくり返してきたようだからだ。

そうとなると『心当たりがない』というより、『検討をつけようがない』というのが、正確となる。

なにしろコードとシグナルの、単純な付き合いの年数だ。

現在、シグナルは高校生だが、コードと初めて会ったのはそれこそ、未だよちよち歩きの時分。

すでにオラクルに入れあげていた長兄に連れられ、『遊び』に来て――

「自立の一環とかなんとかで、幼いおまえがうちに泊まりに来たことは数知れず。同じ男だからと共風呂もすれば、未だ着替えの覚束ないトロくさいおまえを、俺様が着替えさせてやったり」

「ぅわぁああっ?!その節はご面倒をおかけいたしまして?!」

思った以上に古いところからねちねち責められ、シグナルは悲鳴を上げた。

年上の恋人を持ったとき――それも昔馴染みを恋人としたとき、圧倒的に不利となるのが、過去だ。

こちらが覚えていない幼さゆえの失態や、覚えているが穴を掘って埋めたい、いわゆる『若気の至り』、もしくは黒歴史とでもいうべきものも事細かに押さえていて、ここぞというところで札を切ってくる。

卑怯だ。

卑怯だが、その反論も含めて、

「喧しいわ、ぴよっこがその節どころか今もっても貴様なんざ、俺様に面倒ばかりかけておるわっ!」

――という、なんだか歪んだ視覚ファクターで一刀両断される。

確かに、『コードが年上でシグナルが年下』という関係が逆転することは、決してない。

シグナルはぐんぐん成長し、実のところすでにコードの背丈は追い越したが、年齢は追い越していない。出会ったときと変わらず、そこには厳然とした差があり、溝がある。

シグナルの目線が見上げるものから見つめるものへ、そして見下ろす形へと変わって、コードの視線が見下ろすものから見つめるもの、見上げる方向へと変わっても、――

コードは年上であり、シグナルは年下であり、この間隔は逆転せず、並ぶこともなく、縮まることも一切ない。

コードにとってシグナルは、いつまでもいつまでも、手が掛かった幼児のまま。

「だからなっ?!」

「ぅぁはいっ?!」

ばん、と床を叩いて叫んだコードに、シグナルは少しばかり仰け反った。

いつまでも進歩しない扱いに言いたいことは山ほどあるし、見せつけてやりたい成長もたっぷりとある。

しかし時と場合だ。TPOだ。空気読めないよめないと腐されるシグナルだが、意外にわきまえられる。

少なくとも今は、そのときではない。コードが募り募って溜まったものでいっぱいだと思しい、今は。

ガス抜きが済んで、経過を見て、それからだ。シグナルが反論し、反逆し、反撃すべきときは――

びくびくしつつも無意識域で、わりと冷静に戦局を読むシグナルを、コードはじっとりと睨んだ。叩いたまま床に置いた手を、ぐっと握る。

「だからな……っ。つまり幼時から今までの、おまえの下着の変遷を、俺様はつぶさに見てきた」

「…………………………は?」

次いでコードが吐き出した言葉は、シグナルの予測の並行世界を行くものだった。

ナナメだとか、明後日だとかいうレベルではない。おそらくそこには存在しているかもしれないが、しかし知覚できない、存在証明すらもできない、そんな場所へ飛んだ話題。

きょっとんとしたシグナルに、コードはうっすらと目元を染めた。朱は頬に広がり、うなじまで浸食する。

現在、コードは道着姿だ。動きによって、鎖骨もちらちら見える。

朱を刷くコードは本人の気質や言動と関わりなく艶めかしく、そしてシグナルにとってなにより重要なことに、彼は恋人だった。

強請って甘えて肌を晒してもらい、直に触れたこともある。奥の奥、秘され隠され他人には触れさせない特別なところまで、触れさせてくれた。

そのときの、決して己以外には見られない、見せない、色めかしさ――

もやりと、腹に立ち昇る感覚がある。

見入るシグナルの感情に気がつくことなく、コードは続ける。

「好むと好まざるとに関わらず、だ。風呂に入るだの着替えられんだの、挙句、トイレに間に合わず……」

「っきゃぁあああああっっ!!」

――うっかりしたことに、シグナルの口からは非常にかわいらしい感じの悲鳴がこぼれた。

「ちょっ、こぉおおおどっいくらなんでもそれはやめっ、んぎゃぁああああっ!!」

「喧しいんじゃ、ひよっこ年長者の話は大人しく、最後まで聞けぃっ!!」

叫びながら組みついてきたシグナルを、コードはさらりと躱し、だけでなく軽々と床に転がした。さすがに師匠だ。どうあれ、冷静さを失った相手を転がす程度、造作もない。

転がすだけでなく、コードは俯せに伸びた相手の腰にどっかりと座った。特に関節を極めることもない。平然と、座布団扱いで胡坐を掻いて座る。

「おもっ、こーっ……!」

「とにかくだ」

抗議の声は上げるが、乗る相手の安全を思って動けなくなるのがシグナルだ。完全に『敵』となれば別だろうが、少なくとも師であり恋人であるコードがこうして座った場合、余程のことでもなければ『重し』を退けようと、実際的な行動には出ない。

わかっているので悠々と抗議を無視し、コードは続けた。

「俺様がどれほどの間、貴様の面倒を見て、そのうえで下着を見て来たかだ。しかも貴様というやつは、今となっても俺様に面倒をかけ続けだ。つまり、………だから、な」

そこまではすらすら言ったものの、先を思うと微妙に気まずく感じられ、コードはくちびるを空転させた。

それも寸暇のことで、コードはぐっと、腹に力を溜める。

結論を、吐き出した。

「それでも俺様は萎えることなく貴様と付き合い続けて、しかも今は――コイビトだろうが。それがたかが一度、変柄の下着を見たとか程度で、萎えてみろそんなことが赦される立場だったか、事細かに思い出させてやる」

「はぃ?」

なんの話かと、シグナルは無邪気に瞳を瞬かせた。

コードが幼時からのシグナルの下着の変遷を知っていて、萎えなくて、今は恋人で、変柄の下着?

「……えどういうことって、え?」

いくつかの衝撃が重なり、シグナルの瞳はまん丸く見開かれた状態で止まった。だけでなくなんだか、瞳孔まで開きそうな気がする。

いやでも言っても小さいころなんて、下着を選ぶ自由は僕にはなかったじゃんなかったよねと、シグナルの脳内では高速で言い訳が渦巻いていた。

まったく気にしていなかったのでよく覚えていないが、シグナルの幼時、今日着る服をタンスから出してくるのは長兄で、買ってくるのも彼だった。

「悪意だ」

反射でつぶやき、シグナルは自分が声を発したことで、なんとか我に返った。

腰の上に座ったままのコードを、苦労して振り返る。恥ずかしいのか、そっぽを向いていた。逆に徒だ。

うなじに耳に、覗く肌が隠せず朱に染まっているのがわかるし、なによりわずかに見える瞳が潤んで――

もやりと、腹に立ち昇る感覚がある。

「そういえば、なんだっけ……『なえなえ変柄おぱんつ大作戦』とか、なんかうっすら聞いた記憶が」

『見ると大好きなアノヒトであってもうっかり萎えてしまうような変柄ぱんつを穿いて』どうだこうだというイベントがあると、シグナルも一応、数日前に聞いていた。

今日がその日で、――しかしすっかり忘れていた。理由はなぜかと言えば、シグナルの恋人だ。コードだ。

コードはイベントだからと迂闊な方向に盛り上がる性質ではなく、今回もきっとそうだろうと、シグナルは勝手に思っていたのだ。きっととても冷たく、なんで俺様がとかなんとか言われるのだろうと。

ついでにおそらく、道場に沈められる。おかしなことに俺様を巻きこむなと。

不参加確定だろうと勝手に結論していたため、シグナルは聞いたそばからすっかり忘れ――

「ってことは、えつまり、コード、今……」

「喧しい」

身を起こしかけたシグナルに、コードはぼそりと吐き出した。声に力がない。意に添わず、おかしな柄の下着を穿かされたからなのか、それとも――

「あ、見る。僕見るみる。見る、コード!」

「なんだっ、っと、っっ」

頭がからっぽになったような軽い声で主張したシグナルに顔を向けたコードだが、すぐに口を閉じた。いや、自主的に閉じたというより、閉ざさざるを得なかった。

声の軽さに見合う軽々としたしぐさでシグナルが起き上がり、コードを反対に床へと転がしたからだ。

実のところ、シグナルの武道の腕前はかなりのものだ。筋がいい。

未だ高校生だが、すでに師範代とまで成っている。それでも普段はコードに負けるが、実力差というより、精神的ファクターによるものが大きい。

つまり、『このひとには勝てない』という。

あまりに付き合いが長いため、シグナルにも自覚せず、コード相手にファクターが掛かっている。

コードは自分の上に立つものであり、追い越す目標ではあるが、『未だ遠い』と。

コードの自覚ある『幼児ファクター』などよりよほど頑固なそれで、シグナルは普段、無自覚かつ強固に己の力を制御し、抑圧して、負ける。

このひとには、『勝ってはいけない』と。

外れるのは、より以上の本能的欲求が勝ったときだ。たとえば、今のように。

痛みもなく負担もなく衝撃すらもなく、ある意味非常に丁寧に転がされたコードは渋面で、伸し掛かるお子様を見上げた。

これだけあっさりと転がせるのは、なにより上手だからだ。しかもあの無理な体勢から、一瞬でこれだ。どれだけの才能を秘めているのかと――思うが、発揮する時と場合だ。

「貴様」

「下着だよね。ぱんつ。穿いたんだ、コード」

「穿いておらんわっ!」

なぜか非常にうきうきと言うシグナルに、コードは真っ赤になって喚く。跳ね返したいが、だからこの、残念な天才様だ。現在、実力を200パーセント程度発揮中と思われる。

傍から見ると、シグナルが特に力を入れているようでもなし、コードはまるで唯々諾々と従っているかのような――好き好んで、押し倒されているかのように見える。

シグナルが力を入れていないのは、確かだ。力など不要だからだ。しかしコードが唯々諾々と従っているから不要だというわけではない。

正確には、コードは従わざるを得ない状況なのだ。

ここに極まると動けなくなるという、実にさりげなくも重要なツボが、生体にはある。そこさえ押さえれば、猛牛相手であっても、押さえこむのに力などいらないという。

そうやって、シグナルがさりげなく押さえているツボだ。

悪魔的に正確で的確に過ぎ、コードはまったく身動きが取れない。

コードはますます屈辱に震え、きっとしてシグナルを睨んだ。自覚していなかったが、ちょっと涙目だった。

きょとんと見返したシグナルが、――笑う。

空気が、変わる。コードの視界も切り替わり、よちよち歩きの幼児が、年相応の『男』に映った。自分相手に欲望を抱き、滴らせる、飢え餓えた恋人に。

「ああそうなんだ、穿いてないんだこの下、なんにも穿いてないんだ、コード?」

「ちがっ、そういう……」

シグナルは妙に軽く言う。頭の中身がからっぽな口調だ。いろいろ突き抜けた結果、現在のシグナルは思考で動くイキモノではなく、欲求のみで動くイキモノに――

爆発するように、さらに全身を朱に染めたコードに、欲望を滴らせるシグナルは、非常に少年らしい無邪気で無垢な顔で、にっこり笑った。

「どっちでもいいよ、コードとりあえず、イベント中なんだよね?!そしたら僕は、下着を見るためにコードのこと脱がせてもいいってことで、まあ、もしかしたらちょっと、力余ったりやり過ぎたりしちゃうかもしれないけど、『僕』だもんね仕方ないよねっ!」

「んなっ……?!」

ある意味、開き直りも甚だしいシグナルの宣言に、コードは愕然と目を見開き――

真っ正直さが取り柄のシグナルといえば、そこだけは真っ正直に宣言通り、『ちょっと、力が余ってやり過ぎ』、後日、年上の恋人に再び呼び出され、今度は本当に叱られた。

が、しかし。

彼の妹たちの証言によれば、気難しい兄はわりと非常に上機嫌で、いつもと比べれば叱責の時間はなきに等しく、とても短かったという――