れっどぼーでん

「ぅふふふhっ!!」

マスターのくちびるから、怪しい笑みがこぼれた。

いや、――メイコが記憶するに、彼女の笑みが怪しくなかったことはない。なにしろご機嫌が上向けば上向くほど、怪しさも比例して上がっていく。

残念な笑みの持ち主が、メイコのマスターなのだ。

「いやですね、メイコさん……『愛する』って、『愛するマスター』だって言ってくれて、ちっとも構わないんですよ?」

「ひとの心ん中を読まないでよっ、勝手にっっ!!」

――しかも、残念なのは笑みだけではない。その能力とか、能力の発揮の方向性とか、全人的に判断して、とてもとても残念だ。残念という以外の言葉が、ちょっと思い当たらないくらい、残念だ。

そうやって怒声を上げつつも、メイコはじりじりと追い詰められていた。そもそもいるのはマスターの寝室で、ことに広い部屋というわけではない。限りがある。とても早く。

とうとうべったんと、背中に壁が当たる気配があり、メイコは引きつった。

「くぅ……っ」

「ぅっふふふふぅっっ!!」

そこまでメイコを追い詰めた、マスターだ。怪しい笑みは今や最高潮、涎をこぼさんばかりだった。本当に残念だ。

なんでこんな相手が好きなのかと、いや本当に自分はこれが好きなのだろうかと、メイコは自分に対して限りない疑念を抱いた。

彼女が、一度でも己を取り繕ったことがあるというのなら、まだいい。まだ知り合ったばかりの頃、己を飾って見せていて、その幻想にメイコが惹かれたのだというのなら――

しかしマスターは常に、『マスター』だった。メイコ相手に飾ることもなく、取り繕うことも、隠すこともなく。

彼女は常に真向勝負で、真剣に、全力を懸け、――残念だった。

いわばその残念さを、メイコは愛したのだ。

だって放っておけないのだもの。

「ちっくしょうなにが姐御気質だっ本当に残念なのはあたしかっ!!」

「おや、メイコさん……なんだかなにかの結論に達したみたいですね?」

口汚く罵ったメイコに、マスターはちょっとだけ身を引いてくれた。

が、『ちょっとだけ』だ。距離も少しなら、時間も束の間だった。

すぐにまた、壁際に追い詰め、逃げ場を失ったメイコへ迫って来る。

「さあ、メイコさん……なんだか悟って諦めもついたでしょうから、イきましょうかれっつはくいんぐ、ヘンガラおぱんつーでっすっ!」

「英語しゃべれないなら、すべてニホン語で言いなさいよっばか度の割増し感が法律違反レベルなのよ!!」

叫ぶだけでなく、メイコは眼前に突きつけられた下着をべっしと叩き払った。すぐにその手を、ごしごしごしと反対の手で擦る。『汚いもの』に触れてしまったときの、癇性な反応だ。

「新品ですよ?」

その反応に、ほんのわずかに理性を取り戻したマスターは、困ったように笑った。メイコはぷいと横を向く。

新品かもしれない。いや、新品だろう。新品だ。

いくらマスターが残念でアレだとはいえ、メイコにだれかの使用済み下着を穿けと迫って来ることは考えられない。そんなことはあり得ないと、決してないと、言い切れる。

が、この場合問題なのは、下着が新品か中古かということではない。

柄だ。

そもそも当家においては、仕事を選ぶは下の下の仕業と言われ、選ぶ余地もなくさまざまな仕事が持ちこまれる。それはトップアイドルを称する妹のミクにしてもそうだし、男ぶりを謳われる弟のがくぽもだ。

すべての家族に平等に――ならばメイコもまた、家長であるとか長姉であるということに関わらず、仕事は割り振られる。

これまでにしても、より以上に過酷だったり、項垂れたくなるような仕事は多々あったし、今さらだ。

むしろ簡単だ。そう、たかが変柄パンツを穿くだけのお仕事だ。なんて簡単な仕事だろう――定例文にすら直せる。『ヘン柄ぱんつを穿くだけの、カンタンなお仕事です☆』

しかもその、変柄ぱんつを穿いたメイコを記録媒体に残し、写真やら動画やらで公開するわけでもなく、単にマスターに見せるだけだ。マスターひとりの前で穿いて見せて、終わり。

こんなに簡単な仕事が、かつてあっただろうか。

その変柄ぱんつが、己の想像限界を超えた変柄であったとしても、見るのはマスターひとり。穿くのもこれ一度。見せたら即座に脱いでよく、そして先にも言ったが新品で、まっさらきれいだ。変柄だが。変柄は洗い落とせていないが、汚れてはいない。新品だし、清潔だ。

その変柄ぱんつを穿いて、マスターに見せて、終わる――だけの、仕事。

己の想像限界を超えた変柄だったので、思わず癇性な反応もしてしまったが、仕事の中身としては簡単だ。

――と、メイコも頭では思う。

納得しないのは、感情だ。

「大体にして、あたしが穿く前から結果なんか、わかりきってるじゃない。デキレースもいいとこだわ。あんたが選んだ変柄ぱんつで、あんたの今の興奮具合なんか見てたら……」

ぷいと横を向いたまま言うメイコに、マスターはあっさりと頷いた。

「まあ、そうですね。否定しませんよ。萎えませんね、まったく」

「少しは悪びれなさい」

「180度と90度がありますが。ご希望なら360度とかも」

「意味わかんないのよ!」

叫んで、メイコはぎゅっと目を瞑った。

それでも鮮明に思い出せるほど、強烈な個性を放っていた変柄――

「うーんと、わかりませんかつまりですね、その昔、何期か前の申年に流行ったギャグというのが」

「そういう意味でもないわ」

なんだか生真面目ぶって解説を始めようとしたマスターを遮り、メイコは目を開けた。

顔を戻すと、楽しげに見つめてくるマスターと目が合う。眼前高くに掲げてこそいないが、未だその両手に、メイコに穿かせるべく用意した変柄ぱんつをしっかり持って、待機中だ。

まったく諦めていない。

目を眇め、メイコは忌々しく変柄ぱんつを睨んだ。

「そもそもなんだって、こんな企画に参加したのよ。『なえなえ変柄おぱんつ大作戦』だなんて。名前もアタマが悪いけど、案の定で中身もアタマが悪いし」

「頭が悪いからですね」

「でも、なによりも気に入らないのはね」

マスターの飄とした答えを聞かず、メイコは苛々と吐き出した。

「あんたが、あたしになえなえになるっていう作戦に、ほいほいと参加を決めたことだわ。萎えたいの?」

「………」

問いに、マスターはようやく黙った。曖昧な笑みを浮かべたまま、ことりと首を傾げる。

メイコは苛々とした視線をマスターの手元から顔へと移し、しっかりと目を合わせた。

「萎えたかったの、あたしに?」

念を押したメイコにしばらく沈黙し、マスターはため息をついた。息を追って、観念したように吐き出す。

「変柄ぱんつを穿いて恥じ入り、最終的には怒るメイコさんかわいいちょうかわいいと、妄想が暴走を……」

「最悪だわ!」

叫んだメイコだが、概ね予想の通りだった。

そもそもマスターは、ことの初めからずっと興奮しっぱなしで、なえなえと真逆だったのだ。

確かに用意したぱんつは変柄もいいところで、そこは疑いようもない。おそらく、美的センスの優れたがくぽなどが見れば、なにかの回線をぷっつり切るだろう。

反対に、美的センスが超越的なカイトが見れば、やはりどこかの回線がぷっつり切れるだろう――この場合、弟は二人ともなにかの回線が切れるわけだが、どの回線がどういった方向にキレるかということは、まったく含む意味が違う。

違うが、なぜ切れるかという理由は同じだ。

あまりに変な柄だからだ。

メイコはまさか、男性もの下着ならともかく女性もので、こうまで飛び抜けたセンスを発揮する下着があるとは思わなかった。褒めてはいない。褒めてはいないが、ある意味で感心はする。

いったいどこに販路があるのか、店やデザイナーはこれでやって行けるのか。

他人事ながら、うっかり心配になるような出来だが、――

「あとね、あんた。敬語。やめなさい」

「あら……」

ぷいっと横を向いて指摘したメイコに、マスターはきょとりと瞳を瞬かせた。ぱかりと、開いた口に手をやって、飛び出しかけたなにかを抑える。

「あー………ええっと。穿くとき穿けば穿きやれぱんつ」

「なんの練習よ」

腐しながら、メイコは体から力を抜き、壁にもたれた。腕を組むと偉そうにふんぞり返って、口の中でもごもごと言葉を転がすマスターを眺める。

マスターのデフォルトの話し方は、敬語だ。

仕事相手でも友人でも、それどころか己が所持し、家族として共に暮らすボーカロイド相手にも、ですます調で話す。それが自然で、もっとも無理がないという。

堅苦しくていやだと我が儘を言って、聞き入れてもらえたのはメイコだけだ。らしい。

メイコを愛し、彼女だけが特別の相手なのだと示すため、マスターはメイコ相手にだけは話しつけない、フランクでカジュアルな言葉遣いをする。くだけた話し方はどんな言葉もすべて同時に、メイコへの愛情をるものだ。

ただし、話しつけない言葉に違いはない。なにかで緊張したり、精神的余裕がないと脳内変換がうまくいかず、元のとおりの敬語にすぐ戻る。

緊張していたのだ、それなりに――残念にも過ぎる怪しい笑みを浮かべ、メイコを壁際に追い詰めながら。

「ほんっと、残念なんだから」

「よっし、メイコさん!」

メイコがふっと笑ってつぶやいたところで、マスターが復活した。片手に持った変柄ぱんつを、びっしとメイコに突きつける。

「穿いテマスターお願イっ!」

「カタコト?!どこの国の人間なの、あんたは!!」

自信満々なマスターにツッコミを入れてから、メイコは再び壁にもたれ、ふふんと鼻を鳴らした。顎を上げ、出来る限りの上から目線となる。

「いいわよ。ただし、条件があるわあんたも穿きなさい、変柄ぱんつ!」

自分ひとりだけ笑いものになって堪るかと、せめてもの条件を突きつけたメイコに閃かせたマスターの笑みは、眩しいほどだった。

無邪気で、無垢で、――

掲げていた手を下ろしたマスターは、自分の服を少しずらして見せた。

「それなら大丈夫よすでに穿いているわっ!!ちゃんとメイコさんとお揃いなのっ!」