「いってきまっ」

家の中に叫んで、応えは聞かずに玄関から出る。

途端、ぶるっと震えた。

トッカータフーガ調曲

「うっわ、さっみ」

まあ、さすがにもう、冬だしね。寒いのも当たり前。

それに、寒いのはいやでも、冬が寒くないと、それはそれで不安になる。だから、いやなんだけど、ちょっと安心とか。

たぶんそう言うと達樹なんかは、「我が儘な」とか鼻を鳴らすんだけどね。

しかし人間、ワガママでなくてどうする。

人間のワガママこそが、今日の発展と栄光を導いた最たる理由だ。

そんで、その同じワガママで築いた発展と栄光の副産物で、地球温暖化が進んだり自然破壊が進んだりなんだりで、自分の首を思いっきり絞めてるんだけど。

ま、それもまたそれ。

首を絞めるのがいやだからって、ワガママを我慢するなんて、そっちのほうがどうかしてる。

「はふー」

長く長く息を吐き出したら、どこまでも真っ白だった。

うん、達樹なんかだと、「どうしておまえの息は白いんだろうな……」とか、真顔で言うんだけどね。

いやもう、なんか、達樹さんは俺のことを誤解してるよね腹の中が炭よりも真っ黒だとかなんとか、思ってるんだろう。

んで、そんなに腹黒いのに、どうしてそこから吐き出される息は黒くならずに白いんだ、とか。

いいか、達樹さん。

人間、呼吸というものは腹から押し出されるものではなく、肺から押し出されるものだ。いくら腹が黒くても、呼吸しているのが肺である以上、息は黒く染まらない。

そんでもひとつ言うと、俺は達樹が思うほどには腹黒くない。ぴゅあぴゅあ純情少年だ。

そのぴゅあさときたら、天使も真っ青になって土下座するレベル。

「んー………」

こきっと首を鳴らし、俺は廊下を歩き出した。はふはふと手に息を吹きかけながら、エレベータではなく階段へ。

なんだっけな。

昔読んだ本に、同じ口から吹き出る息で、スープを冷ましも手をあたためもする人間に、悪魔が恐れをなして逃げるとかいう話があったけど。

ということは、悪魔の息ってのは、どっちか一個しか出来ないってことか。

あたため専門だったら、どうやって吹いてもスープも手もあったまる。

冷やし専門だったら、どうやって吹いてもスープも手も冷える。

「…………なんだと。こんなところで、俺が人間である紛うことなき証拠を発見してしまった………?!」

これはあとで絶対、達樹さんに主張しておこう。

なんか達樹さんは、俺のことを悪魔の眷属か、さもなければ悪魔の落とし子、そうでないなら悪魔そのものだと思っている節があるからね。

誤解ごかい。

さっきも言ったけど、俺はぴゅあぴゅあ純情少年。天使も真っ青で土下座なシロさだよ。

「………………んつか待て。悪魔がってことは、天使ってどうなんだ?」

悪魔の息があたためか冷やし専門てことは、その対となる天使ってのも、同じなのか?

あっためも冷やしも両用できるのが、たぶん人間の特性なんだってのがあの話の言いたいことだよね。

ということは、天使も、どっちか…………。

考えるに、悪魔は冷やし専門だよね。確かあの話、最初はスープを吹き冷ましてたはずだから。おろ覚えだけど。

そんで、次に手をあっためて、悪魔が逃げ出したんだから――

悪魔の息は、冷やし専門。

そんで、天使の息はあっため専門。

うん、しっくり来る。

「はふ」

手に、息を吹きかける。

あったかい。

なるほど――!

考えている間に辿り着いた達樹さんちのチャイムを、ぴんぽん鳴らす。

間断を置かず、扉が開いた。

「お早う」

開けた達樹さんが言って、外の冷気にぶるっと震える。

眉をひそめてから、家の中へと顔を向け直した。

「いってきます」

言って、応えを待たずに出てくる。

「行くぞ」

「達樹さん、おはよう」

「ああ。…………あ?」

俺は分厚い手袋に包まれた達樹さんの手を取った。両手でしっかり抱えて、胡乱げな達樹さんをきりっとして見つめる。

「達樹さん、俺が実は天使だったという証拠を発見してしまったよ」

「………………そうか」

思い切り目を眇めて、達樹は頷いた。

ぱっと手を取り戻すと、廊下を歩き出す。

「つまりこの世には、善も悪もなく、天国も地獄もないんだな」

「んえ?」

なにその結論。

きょとんとしつつ、達樹のあとを追う。

マンションの共用廊下は、あんまり広くない。でっかい学生鞄を持った二人が並んで歩くには、ちょっと不便で、俺は達樹の後ろ。

並んで顔を見ながら歩きたいけど、この位置も結構好きだ。

だってほら、「妻は夫の後ろを三歩下がってついてく」もんじゃん………!

まあ、三歩も離れたら声が聞こえねえだろってことで、要するに旦那の話なんか聞いてられるかよっていう、昔の奥さんたちの内なる声の表れだとは思うんだけどね。

その点俺は、旦那の話は細大漏らさず聞きたいので、後ろをついてくのはいいけど、三歩も離れない。

「………………いい」

旦那――ああ、うっとり。

達樹さんは亭主関白そうだなあ。関白宣言とか地味にしちゃう感じ。

しかしよくよく聞いてみるとあれ、かなり情けないこと言ってるけど、でもそこがまた、旦那のキュートさを引き立てるってもんじゃん。

さらに愛しい、とかうっとりしていたとこに。

「っだ?!」

「歩きながら寝るな」

いつの間にか振り返っていた達樹にでこびんされて、俺は我に返った。

あのね、言っておくけど、でこ『ぴ』んじゃないのね。でこ『び』んなのね。

威力が違う。

「いったいよ!」

「寒さで痛み倍増だろう」

「………………いや、なんでそんなほくほくとうれしそうなのかな、達樹さん」

かわいいけど、ときめいちゃうけど、そんないい顔。

でこに手をやったところで、エントランスから出る。道が広がるので、俺は達樹の隣に並んだ。

「んでさ、達樹さん。善も悪もないとか、なんの話なのよ」

「おまえが天使なんだろう」

「うん」

相槌を打っただけなんだけど、達樹はそれ以上話を進めない。

あれつまり達樹的には、すべての説明終了?

俺が天使だと、善も悪もなく、天国も地獄もない。

「誤解だよ、達樹さん俺のこのぴゅあボーイぶりをなんだと思ってんの?!!」

「そういうことを自称している時点で、さっぱりピュアじゃない」

「自称しなきゃ、誰が気がついてくれんのよ、この穢れきった世界で!!」

「たとえこの世界が穢れきって歪みきって闇に沈んでいても、本当にピュアなら自称する必要もなく、他称が追いつく」

「夢見がちだな、達樹さん!!」

理想主義というかなんというか。

なにかな、俺が天使だとしたら、達樹さんは大天使レベルだな。

こんなに理想主義で夢見がちで、達樹さんはこの穢れきって歪みきって闇に沈んだ世界で生きていけるのか。

いや待て。

そこを内助の功で支えるのが妻の役目、大天使の下にある天使の勤めってもんじゃないか。

「――達樹さん、大丈夫だよ!!達樹さんのことは、俺が必ず」

「なにをどう運んでその結論に達したか、十文字で説明してみろ!!」

「じゅうもじ?!!しわいにもほどがあるよ?!!」

叫んだ俺に、達樹はふんと鼻を鳴らして、前へと向き直った。

ふと手を上げると、こすり合わせる。

ああそういや、達樹さんて微妙に冷え性気味で、冬場ってありえねえくらいに手が冷たいんだよね。

って、そうだ!

「俺が天使だっていう証拠を見せてやるぜ、達樹!!」

「あこら?!」

俺は達樹の手を取ると、手袋をむしり取り、そこにはあっと息を吹きかけた。

「ね、あったかいでしょ?!」

「………………」

じーっと見ていた達樹は、真顔で首を傾げた。

「………………どうして、おまえの息は白いんだろうな………………」

「いや、そこなの?!!そこなの、達樹さん?!!」

叫ぶ俺から手を取り戻し、達樹は手袋をはめ直す。その手を俺へと伸ばすと、ぐ、と耳を引っ張った。

「痛いって!」

「息が白くてあったかかろうが、おまえが天使だなんて、世も末だ」

「…………」

――俺には、達樹さんがよくわかりません。

なんでそんなことを、すっごくうっとり笑顔で言うんですかね。

そんでもって、ついでにちゅっとかキスしていくんですかね。

朝から、この跳ね上がり盛り上がるときめきを、どう責任つけてくれるんですかね?!!

道に固まる俺を、達樹さんは軽く振り返って笑った。

「悪魔だろうが天使だろうが、おまえは俺のかわいい恋人だ。どうでもいいだろう?」

「――っっ!!」

完璧固まった。

それから俺は、慌てて達樹さんの後を追いかけた。

「達樹さん、ぜっっっったい、熱あるよね?!!!」