「――ああうーん。なんて言うか」

ストレィキャットの溺愛

「何も言うな」

「まあそう言わず」

校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下の隅っこで、俺は貰ってきたばかりのプリントを握りしめて座りこんでいた。突き上げる怒りと焦燥感。隣に座った聡は、あからさまな媚び顔と猫なで声。

俺を慰めようとしているのはわかる。しかしいつもながら、神経を逆撫でするだけで逆効果だ。それがいつまでたっても学習できないとか、頭悪過ぎるだろう。

「あのさ、一センチなんて別に気にするほどじゃ」

「死ね」

拳が飛んだ。聡は避ける。

「一センチじゃない。八ミリだ」

「うわ細かっ」

再び拳が飛んだ。これも避けられる。慰める気があるんだったらおとなしく殴られたらどうなんだ。別に気が晴れるわけじゃないが、少なくとも避けられるよりは腹が立たない。

今日の身体測定。

の結果。

聡は俺より八ミリ、身長が高くなっていた。

去年測ったときは、俺より二センチほど小さかったのに。一年で二センチ差を縮めて、さらに八ミリオーバー。

俺だって伸びてるのに、それをものともせずに。

「いいじゃん、達樹だって伸びてないわけじゃないんだから。成長止まってたとかだったらアレだけど、年齢的に俺らこれからでしょー」

「――」

腹立つ。腹立つ。腹立つ!

なにが腹立つって!

そうじゃなくても聡は俺より成績がよくて運動も出来るのに、これで身長まで追い越されてとか、もう、俺が負け負けじゃないか!

いや、身長だけ勝っていてもうれしくないが、負けるとなれば話は別だ。それは悔しい。

もとから俺より小さいとか意識していたわけではないが、そういえば最近、立ったままでもキスするのがすんなり行くなとか馴れてきたのかなとか思っていたが。

馴れたわけじゃなく、背が伸びて顔を合わせやすくなっていただけかよ!

無言で拳も振るわなくなった俺に、聡は本格的に困った顔になった。これも八ミリ見上げているのかと思うと、ますます腹が立つ。

古典的だが、毎食牛乳を飲むか。だが思い出すかぎり、学校の自販機に牛乳は売っていなかったような気がする。探せばあるかそもそも学校なんだし、教育的に置いてあっていいんじゃないのか。野菜ジュースは置いてあるんだし。

「まさか、達樹?」

とりあえずは牛乳を探す旅に出ようと決心した俺の腕を、聡が焦った顔で掴んだ。痛いくらいにぎゅうぎゅうと力を篭めて引っ張られる。

「痛いわ、」

「でかい俺は好みじゃないとか?!」

――。

「は?」

「自分よりでかい彼女なんてやだとか、そういうこと?だけどね達樹、ノミの夫婦見てもクモの夫婦見てもわかるように、ふつうはオスよりメスのほうがでっかいものなんだよ?だから俺が達樹よりでかいからって」

「待たんかボケ」

掴まれた腕を振り解こうとしたが、よほど必死なのか解けない。仕方がないので空いているほうの手で言い募るボケ頭を払う。

「だれが彼女でそもそもメスだ。しかもでかいでかいって、たかが八ミリ差でなにを言う」

ノミやら蜘蛛やらの夫婦の体格差は、すでに同種の生き物とかいう枠を超越している。あれで生殖を行うとか、神秘過ぎて昆虫学を理解できる気がしない。

頭をべしべし叩いてやっているのに、聡はますます腕にしがみついてくる。基礎体力の差は腕力差にもなって、結構半端なく痛いのだが。

「おまえみたいな彼女持った覚えないし」

「じゃあ彼氏!」

「知るか」

「わああん、やだー!」

喚いて、聡は首に飛びついてきた。勢いで頭が壁にぶつかる。痛い。つかなんだこのテンション。

「やだやだやだやだやだよー捨てちゃやだーなんでよ、でかくなったって俺の魅力は変わんないでしょ?かわいい恋人でしょー?!」

「あああああうるさい!!」

俺は漏れ出ていた腕を振るい、聡の脳天に拳骨を落とす。なにかが潰れたような声が上がり、わずかに力が緩んだ。その隙に腕の中から抜け出て、距離を開ける。

「捨てるとかなんとか、訳わかんねえ!」

「だってー」

「だいたいてめえな、たかが八ミリで大げさなんだよそんくらいの差、ないも同じだってのでかいでかいっていい気になんな!」

「――」

怒鳴りつけた俺を、聡はまじまじ見た。信じられなさそうな、疑り深い顔で首を傾げる。

「たかが八ミリ?」

「そうだよたかが八ミリだよ!」

きっぱり言い切る。聡はまだ、懐疑的な顔をしていた。

「でもさ、来年になってこれが五センチとか十センチ差とかになってたら?」

「死ねボケ」

「わあやっぱり捨てる」

皆まで言わせず、俺は座ったまま蹴りを放った。聡は避けもせずに受ける。

「うるせぇんだよそんくらいで捨てるかボケてめえがちっせぇから好きになったわけじゃねえんだよそんなもんで変わるような軽い気持ちじゃねえ!」

「――」

聡は打って変わってきらきら輝く瞳で俺を見た。なんか、顔の前で祈り乙女のように手を組んでいる。気持ち悪っ!

「そうだよなー。達樹俺のこと愛してんもんねこんくらいで嫌いになるとかないよねー」

「そもそもそんなに愛情もないけどな」

「またまたー」

図々しい言い分にちょっと頭が冷えた。言わなくてもいいことを言った気がする。

冷たく切って捨ててみたが、言った言葉は戻ってこない。聡はご機嫌そのもので、乙女っぽくぶりぶりしている。だから気持ち悪いって。

「たかが八ミリだもんなー。大したことないない」

「つかやっぱ死ね」

改めて聞くとやっぱり腹立つ。牛乳だけじゃ足らない。煮干しも食おう。牛乳と煮干し、カルシウム黄金タッグだ。

いや、そういえばカルシウムの吸収促進には適度な運動と日光浴が必要だとか習ったな。ということは。

――根本的に、運動不足なのが伸び悩みの原因か部活をしているせいもあって聡の運動量は俺よりはるかに多いし、日光も浴びている。

方や俺は完璧インドア。一日机に向かって勉強して、放課後も塾で座りっぱなしの篭もりっぱなし。

この生活をさらに一年間続けた結果、来年の身長差は。

「――」

「あれ、達樹?」

シミュレーションが恐ろしい結果になってしまった。冗談でなく、来年の身長差が五センチとか十センチとかになっている可能性がある。そうなったら、完璧負けじゃないか?

「えっと、達樹達樹さん?」

今は目線も合ってるけど、五センチやら十センチやらとなったらはるかに見上げることになるだろう。つまり聡に見下ろされるとか。

――。

しまった、腹が立ちすぎて思考が停止した。

「あー。達樹ぃ。たーつーきーさーん」

「うるせぇんだよてめえは人が考えごとしてるときに!」

平手を飛ばすが聡はあっさり避けた。そもそも距離がある。

避けた聡はバネのように勢いよく跳ね上がり、伸びた俺の膝の上に圧しかかってきた。背後の壁に手をつき、囲いこみの姿勢。

そうか、見上げるってこんな感じ。とかのんびり思っていていいのか、この状況。

「一人の世界に旅立たないでよ。なんかすごい顔してるし、心配になるじゃん。そんな疑わなくても、俺だって身長で達樹のこと好きになったわけじゃないんだから、こんなんで嫌いになるとかないし」

「寝腐れろボケ」

吐き捨てた顔を、両手で挟んで聡と正対させられる。真顔。

「どんな達樹だって、俺にとってはかわいい恋人よ?」

「かわいい言うな」

半眼になってつぶやくが、聡は真顔のまま。

「じゃあ、カッコいい」

「じゃあ言うな」

「注文多いよ!」

首を振って聡の手から逃れ、俺は鼻を鳴らす。俺がかわいい言われて喜ぶタチか。

指が伸びてきて、俺の耳たぶをつまんだ。

「赤いけど」

「――っっ」

無言で拳を振る。聡は身軽に飛びのいて避けた。俺も跳ね起きる。

「なんでてめえはそう、一言多いか少しは見て見ぬふりとかできないのか!」

「ああもう、かわいいってしか言えない!」

「口を縫い合わせろ!」

にたにた笑う聡を追いかけてしばらく拳を振り回した。

これも運動の一環か。そんな爽やかさとは程遠い気分だが。

五分ほど追いかけたところでばからしくなる。

拳を収めると聡に背を向けた。こんなことよりコンビニだ。学校前のコンビニなら、今の時間でもお咎めなしで行けるはず。

「えー、達樹?どこ行くの?」

「コンビニ」

追いかけてきた聡がきょとんとした。

「なにしに?」

「牛乳と煮干し」

端的に答えると、聡は目を見張って首を傾げた。

「猫でも飼うの?」