だめだ眠い。

俺は掲げていた教科書を顔の上に落とし、ため息とともに目を閉じた。

期末試験が終わった翌日では、さすがの俺もまじめに勉強しようという気が起きない。これが三年だったら大学受験も本番で、気を抜く暇もないんだろうが。

一年の、夏休み直前て。

ラブパレード式暇つぶし

梅雨の晴れ間。

それも午後となれば、屋上は結構な暑さになる。日陰を選んでも、空気が蒸しているからあまり意味はない。

だがとにかく、昼飯を食べたあとだ。

炎天下だろうと眠くなるのは自然の摂理で神の意志だ。

「達樹、寝んの?」

ほぼ存在を忘れていたが、そういえば聡が隣にいた。

遠慮という言葉が掲載されていない脳内辞書の持ち主である聡は答えない俺に、顔の上の教科書を無造作に取り除く。

目を眇めてちょっと睨みつけ、まあいいやと方針転換。

眠い。

「あれ、ほんとに?」

目を閉じた俺に聡は意外そうにつぶやく。

現在は自習中とはいえ、授業時間内。それがなんで屋上に来ているかといえば、担任の意向。

『天気いいから外で勉強しろ。おまえらカビ生えてるっぽいし』

意味不明。

意味不明でも教師の意向なので、うちのクラスは今、外に三々五々に散らばっている。

外へと散らばっているが、運動中ではない。訳のわからない担任は、教科書とプリントを持たせた。

ほんとになんで外だよ?

一番人が多いのは、ベンチと木陰があり、この季節でもわりと涼しい中庭。

次が、校舎からの監視の目が届きにくいのでサボりやすい体育館裏。

屋上は日陰が少ないし暑いしで、わりと人気低め。

人気低めでも、まあ、ちらほらいることはいる、俺たちみたいに。

だいたい、おしゃべりしているか携帯と睨めっこしているかで、真面目に自習しているのは少ないんだが。

だって、肝心の教師が監視していない。

とはいえどんな状況でも、授業時間中はきっちり学習に充てるのが俺という人間だ。高い金を払っているんだから、もとを取らなければいけない。眠るなど無駄遣いも甚だしい。

――普段は。

そうなんだ。

でも、今日は――なんか。昨日までの緊張感から解放されて、脳みそが弛緩している。

「――」

うとうとと半分眠っていた俺は、ふと気配を感じて目を開いた。

本能が危険を察知。言い表すならそんな感じ。

存在するだけで騒音公害な聡がごく静かに、横になった俺の上に上半身を傾けていた。驚くほど近くに顔がある。真剣な表情だ。

反射的に拳を振るっていた。

「ちょ?寝てたんじゃないの?つかなんで無言で拳?!」

「うるさいボケ」

ほんとに騒音公害だ。せっかくの眠気も覚める。

「阿呆っ気垂れ流しで人の顔覗きこんでるんじゃない。落書きされるかと思って」

「キスしようとしただけじゃん」

ああキスしようと。

「このてっぺん阿呆!」

もう一度、今度は起き上がって平手を飛ばす。聡は身軽に飛びすさって避け、俺との間に距離をとった。

「なんで怒るかなあかわいい寝顔見て、俺がちょぴっとむらむら来ちゃうのが」

「声を小さくしろ、阿呆チャンプ!」

俺はバネ仕掛けの人形のように跳ねて立ち上がり、聡の顔面を狙って蹴りを飛ばした。聡はこれも器用に避け、降参のポーズ。

「あーあー、ごめんごめんごめんなさいっ俺は悪くないけどここは大人の対応としてとりあえず儀礼的に謝ってみるから、落ち着いて達樹!」

「それだけ本音を言ってる時点で大人の対応じゃねえ!」

俺は蹴りを放ち続け、聡は避け続け、しばらく。

「柴山ぁ、郷田ぁ、言いたくないけどぉ、授業中。自習中だけどぉ、しかもなんでか屋上に追いやられてる理不尽な現実だけどぉ、授業中。周りの人間の迷惑になるから暴れるならどっか行って。ただし室内に入らずにあくまで外経由でー」

「そこまで担任に義理立てするおまえがわかんねぇよ?!」

屋上から室内に入らず外経由でって、どうやってどこへ行けと言うんだ。

屋上の片隅で真面目に少女マンガを読み耽っていたクラス委員の和田一義に注意され、俺はとりあえず現状を思い出した。

授業中だ。屋上だけど。教師いないけど。

暑い中運動したせいで肩で息をしつつ、元の日陰に戻る。

涼しくない。だれる。それもこれもみんな。

「あちー。汗だっくだくだよ、達樹ぃ。なんでこの炎天下で運動とか始めんの」

「てめえがおとなしく蹴られときゃあ、余計な運動しないで済んだんだ」

「だからなんで蹴るのよ…」

まだ少し距離を取りつつ、聡も日陰に入って座る。ワイシャツの襟元を大きく開け、ばふばふと開閉させて風を起こし、犬のように舌を出した。

玉のような汗が流れている。

「近づくなよ」

「あー…愛はどこに」

「地球上に存在したことはない」

言い切る俺はあまり汗を掻かない体質だ。今も、うっすらと滲んだ程度。

聡のようにびっしょりになっているのを見ると、引く。聡は別に太っているわけでもないし、汗かき体質というわけでもないから、これがふつうの反応だとわかっているが。

「お茶持ってきてたろ。飲んでおけよ。熱中症とかしゃれにならない」

「――」

言うと、聡は不気味な顔でにんまりと笑った。教科書と一緒に置いてあったお茶入りのペットボトルを掴み、鼻歌すらうたう。

「電波でも受信したのか。人間に悪影響を及ぼすから人里離れた奥地に行ってくれ」

「ふふふん。愛の電波受信中。ゆえにこれくらいじゃへこたれない」

得意そうに言い切ってペットボトルのお茶を飲み、聡は次の瞬間にはへこたれた。がっくりとうなだれてコンクリートに膝をつく。

「ぬるい…ぬるい茶はまずい…」

「ぬるい炭酸とか、ぬるいスポーツドリンクとかよりはましだろう」

あと、冷やすつもりで氷を入れたスポーツドリンク。氷が溶けて薄まったあれは、意外にまずい。

「そんなこと言うなら飲んでみてよ、達樹この暑い中で飲むと、本気でへこむからね?!」

ぐい、とペットボトルを差し出され、俺はため息。

受け取り、くぴくぴ飲む。

「大したことない…」

「うふふん」

飲み干してやってゴミを返した俺に、聡は不気味な笑顔。もう入っていないペットボトルの飲み口に音を立ててキスした。

ああまずい。暑さで頭やられたなだからこの暑いのに外で勉強してこいとか、無茶なんだっての、うちの担任は!

聡はにんまりと笑ったままの顔を近づけ、得意そうに囁いた。

「間接キス~♪」

「――」

意味を理解するのに若干の時間を要した。

間抜けな時間を挟み、顔が、耳が、爆発するように熱くなる。天気のせいでも、気温のせいでもない。

「――た、たかが飲みまわしで…だれとだってやる…」

「え。達樹にはやらせないよ、俺さりげに阻止してんじゃん」

「…っ」

さすがに汗が。熱くて。っていうか、ていうか!

「それとも俺のいないとこで誰かとやってんの浮気だよ、達樹。俺ショックー」

俺は跳ね上がり、蹴りを放つ。聡はあっさりと避け、こちらも跳ね飛んで逃げの体勢。

「や、うそうそうそですよ達樹さん浮気なんて疑ってないってば、浮気」

「それ以上口を開くな阿呆キング!」

今度こそ、今度こそ一発入れてやる!

***

「――だぁかぁらぁ…。暴れるなって言うのにぃ…」

少女マンガを抱え、和田一義はため息をついた。どうしてこの炎天下で格闘ごっこを始めようと思うのか、思考回路の入り組み具合が理解出来ない。

「ああ、郷田と柴山は模範的だなあ。監視の目がないときの正しい男子高校生像だ。先生は安心しました」

「――センセェ、あんたねぇ…」

気配も感じさせずに現れたかと思いきや、注意するでもなく感心してつぶやく担任の春木に、一義はさらにため息をついた。

頭がいいとか評判の教師だが、やることなすことの基準がいちいちずれていて意味がわからない。

「ちょっとは教師らしくさぁ…っ」

小言をこぼそうとして、一義は固まった。

春木の顔が首筋にある。くっついてはいないが、ふつうならそこまで近づかないだろう、という距離に。

ふんふんと鼻を鳴らし、春木は姿勢を戻した。

「カビ臭さがなくなったな」

満足そうな笑顔。

ネクタイに指を突っこんで解き、ワイシャツのボタンを外す。ばふばふと開閉させて風を送りながら、すてき笑顔で一義を見下ろした。

「それさあ、俺、キューティクルバニーが好き。三巻の初恋の話は泣けるよな」

抱えたマンガのことだと一義がわかるまで、少々の時を要した。