「達樹さん、右手をご覧ください」

バスガイドよろしく言われ、俺は自分の手を見た。

珍しいことにしばらく沈黙があり、しぐさもガイドそのままに『右手』を指し示していた聡はぼそりとつぶやいた。

「達樹さん、それ左手」

党の進撃

「……………違うのか」

「違うってなにが?!」

聡の言葉をそのままに飲み込むなど、愚の骨頂だ。右手を見ろと言われて素直に右方向へ顔を向けたり、『右手』を見たりしたらなにをされるかわからない。

というわけで、俺はわざわざ自分の『左手』を見たのだが。

「ちょっと達樹俺は達樹がなにを『違う』と言ったのかによっては、首根っこ引っつかんで病院に駆け込むよ?!その瀬戸際で訊くけど、まさか右左の区別がつかなくなったとか言う?!さあ、達樹さん右はどっちで左はどっち?!」

「教室でばか声を張り上げるな!」

「いだっ!」

ぎゃんぎゃんと喚かれて、俺はとりあえず平手を飛ばす。

素直に張り飛ばされた聡だが、恨みがましい目で頭を押さえつつも、今日は退かなかった。

いや、『今日は』というと語弊がある。

これしきのことで、聡が退いたことなどない。

そして聡がこの程度騒いだところで、クラスメイトが注目することも少ない。日常だ。しかも今は授業中ではなく、合間の中休み。

休み時間に聡が静かにしていたら、そちらのほうが注目の的だ。どういうことだ。

とはいえ、だからといってばか声を張り上げられたくない。注目されずとも、耳は集まるのだから。

「こっちが右で、こっちが左だ」

「達樹…………っ!」

張り手は飛ばしたが、俺は基本的に親切かつ寛容だ。そして九割方の本音的に面倒臭さから、立てた人差し指でぴっぴと右左を指し示してやった。

恨みがましさに歪んでいた聡の目が、驚愕に見開かれる。

「やっぱり病院行こう右左が反対に」

「わかったのか。意外に正常だな………」

「この期に及んで、俺が試された?!」

慌てて立ち上がった聡だったが、俺のつぶやきにさらに愕然と目を見開いた。

しかし惜しい。目玉が飛び出すというほどではない。世界びっくり人間として、メディアに紹介されるには程遠いレベルだ。

もちろん今さら目玉が飛び出さずとも、聡は十分に世界びっくり人間だが。それもメディアに露出できない方向性で。

「あのね、達樹」

「しかし右左については、別に訂正しないが」

「えええ?!」

がっくんと椅子に落ちて何事か説教を始めようとした聡に、俺はしらりと言う。

再び目を見開いた聡に、俺はもう一度人差し指を立て、ぴっぴと『右左』を指差した。

「俺にとっての右左は、こう。おまえにとっての右左は、こう。どちらで示せと指定されていない以上、どちらであろうとも見方の問題で正解」

「おっぺんはいまー!」

俺の解説に、聡は悲鳴のような声で叫んだ。しかし言うなら、オッペンハイマーは驚嘆を表す擬音語ではない。

とはいえまあ、そういうことだ。

俺と聡は俺の机を挟んで、向かい合っている。当然、右と左が反対になる。

本来的には、聡がもっとも得意とするロジック問題だ。

両頬を押さえて仰け反り、いわゆるムンク状態になった聡に俺は鼻を鳴らし、机の上に開いていた教科書に目を落とした。

「ちなみに指定されていない以上、俺の基準はおまえだ」

「え?」

「なんであれ、俺の人生上の基準はおまえだからな。良きも悪しきも」

まあ主に、聡はろくでもないと決まっている。つまり聡がやることはろくでもない⇔反対のことをやれば良識的ということだ。

実にわかりやすく、悩みの少ない指針であり基準だ。反面教師とはよく言うが、聡がろくでもなくても役に立つことはある。

何度目かの納得をしつつ、教科書のページをめくろうとした俺の手を、聡ががしっと取った。

「おい」

なんだと顔を上げると、泣きそうなほどの真剣さで見返された。

「おい?」

「達樹、いのちはだいじに!」

「は?」

「違った。一度きりの人生、自分を大事に!!」

「はあ?!」

聡の中でなにがあって、どう転がったんだ。

訝しさに顔を歪める俺に構わず、聡はさらに身を乗り出した。

「達樹は達樹のことを、もっと大事にしようよでも達樹、こうなったら俺は達樹の人生に責任を取らせて貰います一生大事にするからね?!」

「……………」

――なにかが、劇的に転がったらしいことはわかった。

俺は掴まれた手を振り払い、ついでに勢いで聡の額を軽く叩き飛ばした。

「今さら、当たり前のことを言うな」