すでに一刻が過ぎた。

お願いおねがいね

吾はため息をつくと、部屋に足を踏み入れる。真ん中で凝固している十六夜の肩を、軽く叩いた。

「正気を取り戻せ、十六夜。吾が話を聞いてやろうほどに」

「ふぁ」

詰めていた呼気を吐き出して、十六夜は驚いたように脇に立った吾を見上げた。

どこまでも抜けるような銀色が、瞬いて吾の存在を認める。

正気を取り戻した証に、すっかり畳に寝ていた尻尾が立ち上がって揺れた。

「そなた、一旦考えこむと一年二年、平気で過ごすゆえな…。吾が話を聞いてやるゆえ、短冊一枚くらい、今日中に書き上げてしまえ」

「蝕…」

畳に座りこんだ十六夜の前には、短冊が一枚。

なにも、うたを詠もうとしたわけではない。

七夕だからなにか願い事を書くといい、と吾が養い子が渡したものだ。

その短冊に書かれた願い事をかなえるのは、もちろん、祀神である吾なのだが、まあそれはそれ。

脇に除けて見ないふりをするとして。

「そなたにも願い事のひとつやふたつはあろう。まあ、ほとんど叶わぬことなどないわけだが」

今こそ力は衰えていても、これも祀神。

大抵の願いは自分で叶えてしまう。

どんな荒唐無稽な願いも、悲劇的な願いも、なにもかも。

叶えられぬものは、およそない。

それゆえに、いざひとに頼もうとすると、ひどく難渋するのだろう。

…と、吾は思ったのだが。

「あのね…蝕。主かなそれとも、朔かな!」

「なんだと?」

唐突に吐き出される言葉は、これの特徴だ。

というか、祀神などというものはだいたい、こんな話し方だ。ひとに理解しやすい言葉で話す吾のほうが珍しいのだ。

「朔は主だよね。でも、主は朔でしょだから」

「待てまて。まず、そなたの願いを言うてみよ」

「あのね、ずっといっしょにいたいの」

屈託なく言ってから、十六夜は無邪気に首を傾げる。

「でもそれって、主とそれとも、朔と?」

「ああ、成程……」

願い事を、『主とずっといっしょにいたい』とするか、『朔とずっといっしょにいたい』とするかで、……一刻も悩んでいたのか……。

おそらく吾が声を掛けねば、そのままずっと悩んでいたろうな……ちんすこう泡盛味を賭けてもよいぞ……。

「朔は、そなたに主と呼ばれるのを好まぬな。ならば、『朔』でよいのではないか…」

「でも、『かたち』にするんだから、きちんとしなきゃ」

いつも適当なことばかりしているくせに、こういうときだけ律義だな。

こうなるとこれは頑固そのものだ。

吾が昔、それでどれだけ難渋したことか。

「…『朔』にしておけ。それが朔の願いであるゆえ」

言いたくないことだが、そう教えてやる。

養い子がこれに懸想しているのは知っているし、いずれはそれなりの関係を結びたいと願っていることも知っている。応援してやる気は毛頭ないが、まあ、将来性に賭けてやるくらいの親心はある。

「…朔の願いなら、」

「いい、いい。それより、さっさと書いてしまえ。朔が帰って来よう」

余計なことを言おうとしたのを遮り、吾は急かす。

ああもう、このど天然めが……。

うれしそうに告げた内容を、十六夜はさらさらと短冊に書きこんでいく。

「その願いは、吾が叶えるものだ」

「そうなんだじゃあ蝕、お願いね」

気楽に言って、十六夜は短冊を吾に渡す。

麗しい外見なのに、相変わらずへたっぴな字だ。こんなで恋文を書くから笑われもするのだ。

まあ、朔は笑いもせずに、感激に打ち震えるだろうが。白い恋人ばーじょんぶらっくを賭けてもいい。

「朔が好きか」

訊くと、十六夜は一際華やかな笑みを浮かべた。

「大好きだって、俺にしあわせを呉れたもの。ずっとしあわせを呉れるもの」

そして、頬を薔薇色に染めて、手を合わせる。

「だから、俺も朔にしあわせを上げるの。ずっとずっと、朔のしあわせのために生きるの」

「…ど天然めが」

吾は肩を落としてつぶやいた。

いったい幾千、幾万年生きておいて、人間の少女も真っ青になって逃げだすほどの乙女ぶりだ。

ふと、十六夜の尻尾が跳ね上がり、耳がぴん、と立つ。

「朔、帰ってきた!」

叫ぶと、飛び上がって部屋から走り出ていく。

「…やれやれ」

つぶやいて、吾は手の中の短冊を見た。

『さくとずっといっしょにいられますように』

へたっぴな字だ。いつまで経っても。

願うことが変わらぬならば、吾も応えよう。一途に思われ続けるなら、叶えもしよう。

それが神というものだ。

つまり吾というものだ。